三月革命(ロシア二月革命) – 世界史用語集

「三月革命(ロシア二月革命)」は、1917年にロシア帝国で発生した二つの革命のうち前半の出来事を指し、ユリウス暦(二月)で記したロシア側の呼称と、グレゴリオ暦(三月)で数える西欧・日本側の呼称が併存しています。ここでは、帝政末期の社会・戦争の危機の下で、ペトログラード(旧ペテルブルク)における食糧騒擾と女性労働者のデモの拡大、兵士の反乱とドゥーマの臨時委員会、ソヴェト(評議会)と臨時政府の並立(いわゆる「二重権力」)、ニコライ二世の退位に至るまでを、専門用語を可能な限り平易にして解説します。短く言えば、三月革命は「戦時総力戦に疲弊した後進帝国で、首都の都市社会が自発的に蜂起し、軍が反乱で追随し、議会と評議会が国家を引き受けた」事件でした。以下では、(1)背景と名称の整理、(2)発端から退位までの時系列、(3)二重権力の構造と課題、(4)影響と論点を順に述べます。

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背景と名称――戦争・食糧・信頼の崩壊と「二月/三月」のずれ

第一次世界大戦(1914年~)の長期化は、ロシア経済と社会に深刻な打撃を与えました。前線の損耗は甚大で、動員の拡大は農村の労働力を奪い、都市では食糧・燃料が不足しました。鉄道は軍需輸送に優先配置され、パンや石炭が首都に届かず、物価は高騰し、配給の遅延と長蛇の列が日常化しました。政府の中枢は、皇帝ニコライ二世が大本営に張り付き、宮廷ではラスプーチンの影響や閣僚の頻繁な交代が続き、指揮統一と社会的信頼は急速に失われていきました。

名称の点では、当時のロシアはユリウス暦を使用しており、革命の発端は「二月」と記録されました。西欧・日本で通常用いるグレゴリオ暦では12日進んでおり、これを「三月」と数えるため、日本の教科書や一般書では「三月革命」と呼ばれます。したがって両者は同一事件で、カレンダーの違いに起因する表記差であると理解すると混乱が少ないです。

発端から退位まで――女性労働者のデモ、兵士の反乱、二つの権力の誕生

1917年2月23日(旧暦、以下旧暦表記。新暦では3月8日)は国際女性デーでした。ペトログラードの繊維工場の女性労働者が「パンを、戦争をやめよ」と掲げてストとデモに立ち上がり、失業者、学生、他工場の労働者が合流して数十万規模に膨らみました。翌日以降、警察やコサック部隊が鎮圧に出ますが、現場では命令忌避や群衆への同情が目立ちます。デモは政治囚釈放や専制打倒を求めるスローガンへ発展し、工場・路面電車・新聞社は次々に止まり、都市機能が麻痺していきました。

2月26日、皇帝の命令で一部連隊に実弾射撃が命じられ、死傷者が出ます。ところが翌27日朝、ヴォルィーニ連隊をはじめとする兵士の一部が命令を拒否し、兵舎で反乱を起こして街へ雪崩のように流出しました。彼らは監獄を開放して政治犯と合流し、武器庫や官署を次々に掌握、警察署や憲兵本部は降伏・解体されます。秩序の空白が生じるや、都市の知識人・弁護士・市参事会有力者は、国家崩壊と暴動化を防ぐための暫定権力の創設に動きました。

こうして2月27日、首都のタウリダ宮に二つの組織が並び立ちます。ひとつは、選挙で選ばれた帝国議会下院(ドゥーマ)の有力議員が設けた「臨時委員会」で、立憲派・進歩派を中心とする政治エリートの機関でした。もうひとつは、労働者代表、のちに兵士代表を加えた「ペトログラード・ソヴェト(評議会)」で、工場・連隊の代議人からなる草の根の会議体でした。両者は互いを必要としつつ、理念と基盤が異なるため、並立関係に入ります。

ソヴェトは早くも「命令第一号」(いわゆるプラヴォ・プルカゼーニエ第1号)を発し、首都の兵士に対し、軍務ではドゥーマの臨時委員会に服すが、政治的命令や銃器管理はソヴェトの決定に従うこと、将校への敬礼廃止、兵士委員会の選出等を指示しました。これは軍の忠誠の軸を政府からソヴェト側へ大きく傾ける効果を持ち、以後の「二重権力」の前提となります。一方、ドゥーマ臨時委員会は、旧官僚機構を部分的に引き継ぎつつ行政を回し、やがて「ロシア臨時政府」を発足させました。

皇帝ニコライ二世は前線司令部から列車で首都へ戻ろうとしますが、鉄道は反乱兵と鉄道労働者の制御下にあり、移動は阻まれます。摂政や軍首脳部は、帝制維持よりも終戦と秩序回復を優先する空気に傾き、ついに3月2日(旧暦)にニコライ二世は退位し、ロマノフ朝は終焉しました。皇位継承を辞退したミハイル大公により王政復古の余地も閉ざされ、暫定的に共和政への道が開かれます。

二重権力の構造と課題――臨時政府とソヴェトの協調と緊張

皇帝退位後、首都では「臨時政府」と「ペトログラード・ソヴェト」という二つの権力が併存しました。臨時政府は、法と行政の連続性を重んじる自由主義者(カデット)や進歩主義者、のちに社会主義者を閣内に取り込み、政治犯 amnestie、検閲廃止、言論・結社・集会の自由、信教の自由、身分・民族・宗教差別の撤廃、自治体改革など、自由主義的改革を矢継ぎ早に打ち出しました。死刑の停止や政治犯釈放は、恐怖政治の打破を象徴する施策でした。

しかし最大の課題は「戦争」でした。臨時政府は協商国(英仏)との同盟義務、対独講和条件の不透明さ、国内の領土・債務問題を理由に、継戦を選択しました。これに対しソヴェト内部、とりわけメンシェヴィキやエスエル(社会革命党)は「防衛的戦争」を唱え、攻勢停止と民主化を優先する立場を取りました。工場の労働者や兵士は、パンの不足と長期動員に不満を募らせ、ソヴェトは物価統制や八時間労働の承認など、生活の緊急課題を議題に載せます。

四月には、亡命から帰国したボリシェヴィキのレーニンが「四月テーゼ」を掲げ、「すべての権力をソヴェトへ」「帝国主義戦争の内乱への転化」を訴えました。これは直ちに多数派にはなりませんでしたが、継戦と生活難のズレが深まるほどに、急進的提案の吸引力は増しました。一方、臨時政府はソヴェト指導者を入閣させて「連立」を模索し、ケレンスキーらが橋渡し役を担いますが、軍規の弛緩、土地改革の遅延、民族問題の複雑化により、協調はたびたび緊張に変わりました。

こうして三月革命が生んだ二重権力は、自由と民主を拡大しながらも、戦争・土地・国民経済の運営という難題で漂流し、のちの七月事件やコルニーロフ事件を経て、十月の第二の革命(ボリシェヴィキ政権樹立)へと道を開くことになります。すなわち、三月革命は目的地ではなく、帝政から新体制へ至る過渡の「枢軸」でした。

影響と論点――帝政の退場、民主化の急拡大、そして未完の課題

三月革命の第一の意義は、ロマノフ王朝の終焉と、議会主義・市民的自由の広範な導入にあります。数日のうちに、新聞・集会・結社・宗教の自由が開放され、政治犯が解放され、地方自治が息を吹き返しました。女性はデモの先頭に立ち、ソヴェト代表や工場委員会、食糧委員会など、草の根の政治の主役となりました。兵士委員会の選出は、軍隊という権威主義的組織に民主的プロセスを持ち込み、旧体制の規律を根底から揺るがしました。

第二に、課題を残したままの出発だったことです。土地改革は臨時政府の検討に留まり、農村の期待を満たせませんでした。継戦は前線の疲弊と後方の供給危機を長引かせ、八時間労働の実施や物価統制は現場での混乱を伴いました。民族問題(フィンランド、ポーランド、バルト、ウクライナ、コーカサス)では自治と分離の要求が噴出し、中央の合意形成力が試されました。つまり、三月革命は民主化を一気に進める一方、政策決定の分散と利害の衝突を顕在化させたのです。

第三に、名称と位置づけをめぐる学術的論点です。ソヴェト史学は、二月革命をブルジョワ民主革命、十月革命を社会主義革命と段階づけましたが、現在では、女性労働者の役割、兵士の自発的反乱、地方ソヴェトと都市の相互作用、民族周縁の動態など、より多中心的な視野から再検討が進んでいます。帝政の崩壊が偶発の積み重ねか、構造的必然か、臨時政府の選択に別の道はあったか――といった問いに、研究は多様な仮説で応答しています。

最後に、三月革命は国際的連鎖の一部でもありました。戦時下の食糧危機、女性の公共圏進出、労働者組織の政治化、兵士の帰属意識の変容は、同時代の他地域にも共通する現象です。ロシアの経験は、巨大帝国が総力戦と内部矛盾に耐え切れず、首都の社会運動と前線の軍隊が共振して体制が崩れるという典型を示し、20世紀の多くの危機に先例として参照されました。

総じて、三月革命(ロシア二月革命)は、帝政ロシアの落日と、自由の急拡大、そして未完の課題を併せ持つ「過渡期の革命」でした。パンを求める女性労働者の声から始まり、兵士の反乱と議会・評議会の結合を経て、皇帝退位に至るまでのわずか十数日の出来事は、近代史における体制転換の脆さと速さを教えてくれます。ここで生まれた二重権力の試行錯誤は、半年後の十月革命と内戦の前提を成し、20世紀国際政治の地平を大きく塗り替える契機となりました。三月革命を正しく理解することは、戦争・民主化・社会運動・国家崩壊という現代的課題を歴史的に照射する手がかりになるのです。