「三月革命(ベルリン)」は、1848年3月にプロイセン王国の首都ベルリンで発生した都市革命で、検閲撤廃や市民軍(ブルガーガルデ)の組織、王権の譲歩、そして憲法制定と国民代表の招集を引き出した出来事です。3月18〜19日の大規模なバリケード戦で多くの犠牲者(「三月殉難者」)が出ると、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は遺体に敬礼し、黒赤金のコッカードを身につけて国民統合を演出しました。春から初夏にかけて自由主義改革が進みますが、秋には軍と官僚機構が再結集し、議会は地方都市へ移転、やがて1848年12月の国王押しつけ憲法(のち1849年改訂)によって革命は事実上終息します。短期的には挫折に終わったものの、言論の自由・法の支配・代表制・ドイツ統一というアジェンダは社会に根づき、19世紀後半の政治文化を方向づけました。以下では、背景、三月蜂起の展開、春の改革と秋の反動、残された遺産の順で整理して解説します。
背景と前史――二月革命の波及、物価高と検閲、三月前期要求
1840年代後半のプロイセンは、ヨーロッパ的な不況と凶作の影響を受け、都市の失業と食料高騰に直面していました。工場労働者や職人、徒弟、家内工業の従事者は賃下げと不安定な雇用に苦しみ、農村でも負担の重さが問題化していました。政治の面では、検閲制度と官僚制が言論を抑え、議会は存在しても選挙資格が厳格で、行政に対する実効的な統制は弱かったのです。
1848年2月、パリの二月革命によって七月王政が崩壊すると、その報は電光石火のごとくドイツ語圏に広がりました。ベルリンでは新聞とパンフレットが検閲の緩みを既成事実化し、サロン、クラブ、読書会、学生社団での討議が高まります。こうして、(1)検閲の廃止、(2)陪審制の導入、(3)市民軍の創設、(4)憲法と責任内閣、(5)政治犯の amnestie(恩赦)、(6)ドイツ統一――といった「三月前期要求」が、請願やデモの形をとって公然化しました。
国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は当初、文化と宗教の守護者としての自負から穏健な譲歩の用意を見せましたが、街頭の緊張と軍の配置が微妙な均衡を保つなか、宮廷前での偶発的衝突が歴史の歯車を大きく回し始めます。
3月18〜19日の「ベルリンの三月」――バリケード戦、殉難者、王の譲歩
1848年3月18日、王は検閲緩和や改革の勅令を公表しました。祝賀のムードの中で群衆が王宮前に集まったところ、衛兵との小競り合いが発生し、発砲をきっかけに市街戦へと拡大します。市民は石畳を剥がし、木材や馬車を集めてバリケードを築き、徒弟や職人、労働者、学生が自作の武器や狩猟銃で応戦しました。狭い路地と中庭をつなぐ都市構造はバリケード戦に適し、夕刻から夜間にかけて戦闘は全市に波及します。
19日未明までに双方に多数の死傷者が出ました。とりわけ民衆側の犠牲は大きく、後に「三月殉難者(Märzgefallene)」として追悼されます。状況を収拾するため、国王は軍を一時撤退させ、遺体の前で帽子をとり、黒赤金のコッカードを身につけるなどの象徴的行為で民心の鎮撫を図りました。これは、王権が民衆に対して「和解のジェスチャー」を示し、同時に主導権を保とうとする政治演出でもありました。
直後に、市民軍(ブルガーガルデ)が公認され、街頭の治安と公共施設の保護を担います。検閲は撤廃され、政治犯が釈放されました。内閣は自由主義者を含む構成へと交代し(カンプハウゼン、ハンゼマンらが入閣)、プロイセン全土で選挙準備と憲法起草のプロセスが加速します。街頭・新聞・クラブ・講壇が連動し、「自分たちの言葉で政治を語る」公共圏が一気に拡張しました。
春の改革から秋の反動へ――ベルリン議会、軍の再結集、移転と押しつけ憲法
4月から5月にかけて、ベルリンではプロイセン憲法制定のための国民代表(通称「プロイセン国民議会」)が招集され、身分的特権の廃止、基本権の明記、行政の責任、地方自治の拡充などが議題となりました。議場には弁護士、教授、出版人、官吏、都市有産層が多く、街頭の急進派(職人・労働者)とは温度差もありましたが、新聞と請願、傍聴という回路を通じて相互に影響し合いました。並行して、全ドイツ的なフランクフルト国民議会への選挙・派遣も進み、ベルリンの論点は「ドイツ統一のかたち」(大ドイツか小ドイツか)とも結びつきます。
しかし夏以降、力の天秤はゆっくりと王権・軍側へ傾きます。市民軍の統制は難しく、治安悪化や価格高騰に不満を持つ市民の一部は「秩序」を求めるようになります。官僚機構は粘り強く権限を回復し、軍は首都周辺で再編を進めました。9〜10月、政府は議会に対する圧力を強め、11月には議会をベルリンから地方都市(ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル)へ移転させます。この「移転」は、首都の街頭と議場の連関を断ち切る措置で、実質的な非常体制化でした。
12月5日、国王は議会の討議を打ち切り、「押しつけ憲法(Oktroyierte Verfassung)」を公布します。憲法は二院制(上院=貴族・有産代表、下院=選挙)と基本権の一部を認めましたが、同時に王権の強大な留保(軍の統帥権、緊急勅令、政府の議会責任の曖昧さ)を含みました。翌1849年には選挙制度として三等級選挙制(納税額に応じて投票権の重みが異なる制度)が整えられ、以後、プロイセン政治の保守的基調を規定していきます。こうして、ベルリンの三月革命は、自由主義の「短い春」から、秩序回復と限定的立憲主義への後退へと収束しました。
残された遺産――基本権の語彙、公共圏の作法、統一の課題
敗北にもかかわらず、三月革命(ベルリン)の遺産は小さくありません。第一に、言論・集会・出版の自由、法の前の平等、陪審や弁護の権利といった「基本権の語彙」が社会の常識となりました。押しつけ憲法にも基本権の章が入り、のちの改訂やドイツ帝国憲法、ワイマール憲法に至るまで、権利言説は持続します。
第二に、公共圏の作法が広がりました。新聞の社説、公開討論、請願、街頭デモ、議会傍聴、政治集会のルール――これらは1848年の数か月で一気に可視化され、市民が政治に関与する具体的な方法として定着します。ブルガーガルデや学生社団は、のちの市民的社団・労働者協会・政党組織の基層を形成しました。女性の参加(救護、炊き出し、通信、記録、署名運動)も拡がり、市民社会の裾野が広がります。
第三に、ドイツ統一の課題が現実の政治議題となりました。ベルリンの三月は、フランクフルト国民議会と連動し、プロイセンが統一を主導するのか、オーストリアを含むのか、君主制か共和制か、という選択肢を現前化しました。最終的に1849年の小ドイツ案は挫折しますが、1860年代のビスマルクによる小ドイツ方式の統一(1866普墺戦争、1871帝国成立)は、1848年の論争と制度設計の延長線上にあります。
最後に、近代的な行政と法制度の整備が、1848年以後も静かに進みました。行政裁判所、地方自治体の制度、商法・会社法の近代化、鉄道・統計・戸籍などの行政技術は、革命の熱が冷めた後も国家を近代化し、社会の複雑化に対応する基盤を整えます。ベルリンの三月革命は、その出発点として記憶され続けています。
総じて、三月革命(ベルリン)は、王権と市民、軍と街路、秩序と自由が正面からぶつかった瞬間でした。3月のバリケードと殉難者、王の譲歩と象徴行為、春の改革と秋の反動――これらの連続は、近代政治の可能性と限界を同時に照らし出します。挫折の背後に残った制度と言語、公共圏の作法は、19世紀ドイツ政治の土台となり、私たちに「自由はどのように獲得され、いかにして維持されるのか」という問いを今も投げかけ続けているのです。

