自然主義(しぜんしゅぎ、Naturalism)とは、世界と人間を理解する際に「自然の秩序」「自然因果」「自然法則」を基礎に置く立場の総称です。神秘的・超自然的説明をできる限り退け、観察・経験・実験や、そこから導く理性的説明を重んじます。ただし一口に自然主義と言っても、哲学(形而上学・認識論・倫理学)、科学方法論、文学・美術の運動、法や宗教の議論など、領域ごとに意味合いが異なります。共通する核は「自然に立ち返って説明すること」であり、領域ごとの差は、何を自然と見なし、どの程度まで自然に還元できると考えるかにあります。要するに自然主義は、〈世界は自然から成り、自然の方法で理解されるべきだ〉という態度の大きな傘であり、近代以降の知と表現の骨格を形作ったキーワードなのです。
概念の射程と基本区分——哲学・方法・表現の三つの顔
自然主義はまず哲学的立場として語られます。形而上学的自然主義は、宇宙は自然(物理的実在)から成り、超自然的存在(神霊・霊魂・奇跡など)に訴えなくても世界は説明可能だとする立場です。認識論的自然主義は、人間の知識や心の働き自体を自然科学(心理学・神経科学・進化論など)の結果に照らして理解しようとする姿勢です。倫理学では、善や価値を自然的事実に基づける「倫理的自然主義」と、価値は事実からは導けないと警告する批判(ムーアの〈自然主義の誤謬〉)が対立しました。こうした哲学的議論は、近代科学の成功とともに「世界を自然の連続性で読む」気風を強めていきます。
次に、方法論的自然主義があります。これは、宗教的信念の有無とは関係なく、科学的探究においては観察可能・検証可能な自然因果のみを仮定しよう、という実務上のルールです。研究室やフィールドでは、超自然的介入を前提にせず、反証可能な仮説で説明を競います。方法論としての自然主義は、「科学が扱えるのは自然因果の範囲」という作法を定めるもので、個人の形而上学的信念(神の有無)とは区別されます。
最後に、表現の領域で自然主義が現れます。文学・美術の自然主義は、社会・遺伝・環境・欲望などの自然的要因によって人間行動を説明し、現実の生々しさを包み隠さず描く傾向を指します。19世紀フランスのゾラが代表で、実験小説論を掲げ、登場人物を環境・遺伝・社会階級の「条件づけ」に置き、因果的に行動を追跡しました。絵画では、アカデミズムの理想化に対し、光や大気、日常の労働と身体の具体を描く運動が広がり、写真の登場も写実の志向を後押ししました。日本では明治・大正期に文学的自然主義が強い影響を持ち、〈私〉の告白と社会の暗部の露出が新しい文学の方法として受容されました。
歴史的展望——古代の自然観から近代科学・19世紀文学へ
自然主義の芽は古代に遡ります。ギリシアのタレスやデモクリトスら自然哲学者は、世界を水や原子といった「自然要素」で記述しようと試みました。ホメロスの神話的説明から離れ、地震や天体運動に自然的原因を求める姿勢が生まれます。ローマ期のルクレティウスは、原子論を詩『物の本質について』で歌い、世界の秩序を自然因果で読み解く喜びを称えました。中世ではキリスト教神学が学問の中心でしたが、イスラーム圏や修道院・大学でアリストテレス自然学の注解・観察が進み、自然を〈神の創造秩序〉として理解しつつ、その内的法則性を探る営みが継続します。
近代の科学革命(コペルニクス、ガリレイ、ニュートン)は、自然主義の形式を決定的に整えました。天体も地上も同じ法則に従うとする「普遍的自然法則」の視点、数学による記述、実験と観測の反復は、超自然的説明に頼らず世界を理解できるという確信を育てます。啓蒙思想は、社会や国家、道徳の領域にも自然法や自然権の語彙を広げ、人間世界を自然の連続面に置き直す発想を拡大しました。19世紀、ダーウィンの進化論は生命の多様性を自然因果で説明し、人間の心と道徳の起源さえ自然の枠組みで考えられる、という大胆なプログラムを提示します。
この流れは文学・美術の自然主義へと流入します。フランスのゾラは、クロード・ベルナールの実験医学に学び、小説を社会・遺伝・環境の「実験室」と見なしました。『ルゴン=マッカール叢書』では、同一家系に異なる環境を与え、その帰結としての性格・運命を描き分けます。弟子筋のモーパッサン、原理を共有しつつ様式は異なるフロベールやフロマンタン、さらに北欧・ロシアの作家(イプセン、ストリンドベリ、ツルゲーネフ、ドストエフスキーに対する受容・反撥)へと議論が波及しました。写生・即物・社会問題の直視は、ジャーナリズムの発展、市民社会の匿名性の増大と呼応し、芸術を「現実の記録」と「現実の分析」へ近づけました。
日本では、坪内逍遥の写実主義、二葉亭四迷の言文一致運動を踏まえ、島崎藤村『破戒』、田山花袋『布団』、徳田秋声、自然派の小杉天外・正宗白鳥らが、性、貧困、家庭不和といった題材を隠さず書きました。〈私小説〉の萌芽は、個人の内面(欲望・羞恥・孤独)を自然的・因果的に見つめる態度とつながります。他方で、〈自然〉の意味を〈生の本音〉に狭めすぎると、社会的制度・歴史的構造の分析が弱くなるという批判も生まれ、自然主義文学への反動として新理想主義・浪漫派・プロレタリア文学が台頭しました。
思想と学問における自然主義——方法論・倫理・宗教・法との交差
方法論的自然主義は、近代科学の作法として定着しました。研究では、観察可能・再現可能な現象に基づいて仮説を作り、自然因果の枠内で説明を競います。宗教を持つ科学者も多く存在しますが、研究報告では超自然的原因を持ち込まず、自然因果の説明を尽くすのが国家試験のような共通ルールです。これは信仰の否定ではなく、「公共の知」の運営原則と言えます。
倫理学では、快楽・徳・幸福・利他性を進化生物学や社会心理学から説明しようとする試みが「倫理的自然主義」に分類されます。親族選択や互恵性、文化進化のモデルは、善悪の判断がどのように生じ、どの条件で安定するかを自然科学の語彙で語りました。これに対し、善や〈べき〉は自然的〈ある〉からは論理的に導けないという批判(ヒュームの断絶、ムーアの自然主義の誤謬)が突きつけられ、事実から価値への橋渡しの慎重さが求められます。今日では、事実の記述(人はこう感じ、こう振る舞いやすい)と規範の制定(我々はこうあるべきだ)を区別しつつ、科学的知見を倫理設計に援用する「限定的自然主義」が影響力を持っています。
宗教との関係では、自然主義はしばしば対立物として描かれますが、歴史的には多様です。自然神学は、自然界の秩序や心の道徳感覚を神の働きの「痕跡」として読む試みで、自然主義の方法と宗教的信念を橋渡ししてきました。他方、世俗化が進むと、奇跡や啓示の知識的権威は縮小し、公的領域の説明は自然因果で統一されていきます。信仰共同体の内部では、自然科学の成果を教義と整合させる解釈が模索され、創造論・進化論をめぐる議論は、宗教の自己理解と自然主義の範囲設定の綱引きとして続いています。
法・政治の領域にも自然主義の語彙が浸透しました。近代の自然権思想は、人間の理性と自然状態を想定し、主権や契約を自然の秩序から構想しました。19世紀後半の社会学・犯罪学は、逸脱行動を遺伝や環境に還元する説明を好みましたが、決定論への警戒から、責任・自由意思・矯正の可能性をどう組み込むかが大きな課題になりました。今日の政策科学では、脳科学・行動経済学・進化心理学の知見を取り入れる「ナッジ」やエビデンス・ベースド政策が広がる一方、〈人はただ環境の産物か〉〈自由と尊厳は守れるか〉という古典的問いが再燃しています。
文学・美術における自然主義の技法——写実、因果、身体、環境
文学的自然主義のコアは、(1)観察の徹底、(2)因果の提示、(3)身体と欲望の露出、(4)社会環境の圧力の可視化、にあります。語り手は全知的で冷静、あるいは記録者として振る舞い、登場人物の言動を心理学的・経済的・生理的な条件から説明します。美化・理想化を避け、方言・俗語・専門語を導入し、現実の触感をもたらします。性・病・犯罪・貧困などタブー視された領域を主題化するのも特徴です。これに対抗する批評は、自然主義が〈人間を条件の束へ解体しすぎる〉〈希望や抵抗の契機を奪う〉と指摘し、象徴主義やモダニズムは、現実の背後にある象徴・無意識・形式の力を強調しました。
美術では、戸外制作(プレナィール)、自然光の再現、労働や日常の主題化、陰影法の緩和、輪郭線の解体などが重要です。ミレーの農民、コローの風景、写真的フレーミングを取り入れたドガの室内、クールベの〈私は天使よりも石を描く〉という態度は、自然主義・写実主義の倫理を体現します。ここでも、〈見えるものだけを描く〉という立場に対し、〈見えない構造を造形する〉という抽象・象徴の潮流が反論を試み、20世紀の表現は両者の往還で豊かになりました。
誤解・限界・現在——決定論への警戒、還元主義の罠、複合的自然主義へ
自然主義はしばしば〈決定論=人は環境と遺伝で全て決まる〉という極端に読み替えられますが、歴史的には幅があります。科学的知見を尊重しつつも、人間の学習・規範・制度の自律性を認める「多層因果」の立場や、偶然や創発の重要性を強調する見方も、現代の自然主義の射程に含まれます。還元主義の罠——複雑な現象を単一原因に押し込める態度——を避けるには、レベル横断(遺伝・神経・個人・集団・制度・文化)で因果を編むリテラシーが必要です。
また、自然主義の言語は時に権力と結びつきやすい側面があります。〈科学的〉の名のもとで、人種・性・階級に関する偏見が正当化された歴史がそれです。優生学や生物学的決定論は、自然主義の過剰な一般化が生んだ負の遺産であり、今日では方法論的厳密さと倫理的ガバナンスが不可欠です。自然を根拠に〈あるべき〉を導く際には、価値判断の透明化と、異なる立場の対話が求められます。
現代の自然主義は、科学・人文・芸術の境界を越えて再編成されています。生態危機や気候変動の時代には、〈自然に従う〉ことの意味が、単なる放任ではなく、自然システムを理解し回復力を高める設計へと再定義されています。〈人新世〉という語が示すように、人間活動が地球規模の自然を変えてしまった今日、自然主義は〈自然と人間の連続性〉を説くだけでなく、〈その連続性をどう管理・再生するか〉を問う規範へ歩み出しています。芸術でも、データ・環境音・身体性を取り込む実験が、自然と文化の新しい接点を示しています。
小括——用語としての使い分けと学習のコツ
自然主義という語は、文脈で意味が動きます。哲学では超自然を退ける実在論の一種、科学では方法のルール、文学・美術では現実描写を徹底する運動を指します。歴史の記述では、古代からの自然観の変遷、近代科学の成立、19世紀表現の変化、20世紀以降の批判と再編まで、一筆書きにせず層として読むと理解が深まります。対立語としては、超自然主義・観念論・理想主義・象徴主義などが挙げられますが、実際には相互批判を通じて折衷や往還が生じ、思想と表現は豊かになってきました。用語を使うときは、〈どの領域の自然主義か〉〈自然の範囲と還元の度合いはどこまでか〉を明示するのがコツです。自然主義は、世界を自然の連続性で読み、そこから行為や表現の指針を引き出そうとする、大きな学知の態度なのです。

