ジャンヌ・ダルク – 世界史用語集

ジャンヌ・ダルク(Jeanne d’Arc, 1412–1431年)は、百年戦争後期の最も象徴的な人物として記憶されるフランスの農家の娘です。17歳で王太子シャルル(のちのシャルル7世)に接近し、オルレアン解囲の快挙を皮切りに、ランスでの聖別戴冠へ王を先導したことで、敗色の濃かったフランス側の戦況と心理を大きく反転させました。捕縛後はカトリック教会の裁判手続を装った政治裁判で有罪・火刑に処されますが、死後25年を経て再審で無罪が宣言され、20世紀に列聖されました。彼女は宗教的幻視を語る聖女であり、同時に宣伝と動員の天才、軍事行動の現場を動かした臨機応変の実務家としても理解できる存在です。以下では、出自と「召命」、軍事行動の展開、捕縛と裁判、再審と記憶、そして軍事・政治の実像という観点から、偏りなく整理します。

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出自と「召命」――ドンレミの娘が王太子に近づくまで

ジャンヌは、フランス東部ロレーヌの国境地帯に位置する小村ドンレミで、比較的自作農に近い層の家に生まれました。村は神聖ローマ帝国勢力圏との境にあり、戦役・略奪・税負担の不安定にさらされる場所でした。幼少期の彼女は識字をほとんど持たず、実務的な家事・農作の知識を身につけながら、敬虔な信心を育てたと伝えられます。13歳頃からミカエル、聖カタリナ、聖マルガリタの「声」を聞いたと述懐し、フランスを救い王を戴冠させる使命を受けたと確信したとされます。

彼女は1410年代末に村を離れ、要衝ヴォークルールの代官ロベール・ド・ボードリクールに直訴します。最初は相手にされませんが、強い確信と地元の支持を背景に再度訴え、オルレアン救援の必要と王太子への拝謁を熱心に求めました。1429年初頭、ついにボードリクールは彼女を王太子の拠るシノンへ向かわせ、旅の護衛が整えられます。シノンでは王太子シャルルとの謁見に先立ち、信仰と素行に関する審問が行われ、プワティエの聖職者集団が慎重な吟味を実施しました。彼女は女装や魔術の嫌疑を退け、信心と目的の清明さを認められます。

この段階で、ジャンヌは甲冑と白地に百合をあしらった旗を与えられ、名目上は一部隊の指揮権に関与する立場を得ました。軍事的専門教育はありませんでしたが、現場での勘と、近習騎士団・砲兵・工兵の指揮官との協働が彼女の能力を短期間で引き上げます。彼女の語りと振る舞いは、敗北を重ねて沈滞していた兵と都市住民の心理に強く働きかけ、宗教的確信を士気に転換する役割を果たしました。

オルレアン解囲からランス戴冠へ――軍事行動と象徴政治の連携

1429年4月、オルレアンは英軍とブルゴーニュ派の包囲下にあり、ロワール渓谷の要地としてフランス側の最後の望みでした。ジャンヌは補給船団を導き入れることに成功し、続く連日戦で市外の仮設要塞(ブロワール、トゥレルなど)を順次攻略しました。彼女は前線で旗を掲げて兵をまとめ、退却を嫌って攻勢を促し、城壁と濠を突破するための梯子・火砲・火矢の運用を積極的に支持しました。5月8日の解囲は、戦術勝利であるだけでなく、フランス側の自己像を「敗走する被害者」から「神意に導かれた回復者」へ転換させる決定的事件でした。

快勝の勢いのまま、彼女は聖都ランスへの進軍を提案します。従来の常識では、まずパリ奪回やロワール全域の制圧が優先されるはずでしたが、ジャンヌは聖油を保持するランスでの戴冠こそが政治的正統性を再建すると主張しました。シャルル7世はこの戦略を容れ、都市の抵抗を避ける交渉と軍事的圧力を組み合わせて北上します。途中の都市・城が相次いで恭順し、1429年7月、ランス大聖堂で聖別戴冠が行われました。ジャンヌは王の側にあって旗を掲げ、フランスの「見える王権」を完成させる儀礼を演出します。

戴冠後、軍はパリ攻略を試みますが、城壁と守備は強固で、内部の政治工作も不十分でした。ジャンヌは9月の聖ドニ方面の戦闘で負傷し、撤退を余儀なくされます。以後の軍事行動は攻勢と停戦が交錯し、外交と内政の整理が重視される段階に移ります。ジャンヌはそれでも前進を促しますが、王宮の意思決定は慎重さを増し、彼女の影響力はやや後景化していきました。

捕縛・移送・裁判――政治が仕立てた宗教裁判の構造

1430年5月、コンピエーニュ救援の作戦中、城外での撤退時に彼女はブルゴーニュ側の兵に捕らえられます。王は身代金交渉に消極的で、敵は彼女の象徴性を最大限に利用する方針を取りました。ジャンヌはブルゴーニュから英軍へ、さらに英軍の影響下にあるルーアンへと移送され、ビューヴェの司教コーションらが主導する異端審問の形をとった裁判にかけられます。

裁判は形式上は教会法に則るものの、陪審・弁護の権利は著しく制限され、尋問は誘導的でした。罪状は男装、教会権威への不服従、幻視の出所、魔術との関連など多岐にわたり、政治的に「神意の正統を名乗る敵」の信用を破壊することが主眼でした。ジャンヌは識字に不自由しながらも、鋭い応答で審問官の罠をかわし、「神と王にのみ誓う」姿勢を貫こうとします。しかし獄中環境の苛酷さと戦略的孤立が、最終局面の抵抗を弱めました。

一度は文書への署名(十字印)とともに服従を約したとされますが、直後に男装へ戻ったこと(女性用の衣服を奪われたとの主張もあります)を口実に、彼女は「再犯の異端」として死刑判決を受けます。1431年5月30日、ルーアンの老市場広場で火刑となり、灰はセーヌへ流されました。彼女は最後に神と王を呼び、十字架に視線を注いだと伝えられます。

再審と記憶――名誉回復、列聖、政治的利用の長い20世紀

シャルル7世の体制が安定すると、王権は自らの正統性を補完するため、ジャンヌ裁判の不正を糾明する必要を感じました。1455–1456年、ローマ教皇の名の下で再審が実施され、手続きの瑕疵と証言の不当性が確認され、ジャンヌは無罪・殉教者と認定されます。これにより、彼女は王権の正統性を神学的にも支える記憶の柱となりました。

近代に入り、フランスは共和主義と王党主義、中央と地方、教会と国家の亀裂を抱えるようになります。ジャンヌはこの断絶を橋渡しする象徴として再発見され、第三共和政では国民統合の偶像、カトリック界では信仰の英雄として語られました。1909年の列福、1920年の列聖は、第一次世界大戦で国民的犠牲を払ったフランスの精神的回復とも重なります。他方、右派・極右が「祖国の純潔」の象徴として、左派・共和派が「民衆の娘」の象徴として、異なるジャンヌ像を取り合い、第二次世界大戦期にはヴィシー政権とレジスタンス双方が彼女の名を標語に掲げました。彼女の記憶は、常に政治の鏡として機能したのです。

映像・文学・美術の領域でも、ジャンヌは尽きない題材でした。ドライヤー『裁かるゝジャンヌ』、ブレッソン『白昼の処刑』、リルケやペギーの詩、インゲボルグ・バッハマンの戯曲、映画・漫画・ゲームに至るまで、彼女の像は時代ごとに組み替えられました。鎧と旗を掲げる処女戦士、涙と炎の殉教者、強い政治的意志を隠し持つ戦略家――どの像も、史料に残る彼女の断片から伸びた解釈の線上にあります。

軍事と政治の実像――何を「した」のか、何を「しなかった」のか

ジャンヌの軍事的貢献は、しばしば誇張や神話化と混同されます。彼女は軍制改革を行ったわけではなく、砲兵の編制や兵站の革新を指揮したわけでもありません。彼女が「した」ことは、沈滞するフランス側の決心を促し、攻勢の機会を選び、兵を前進させる心理的・儀礼的・宣伝的機能を最大限に発揮したことです。旗を先頭に立てる行為は、戦術上は脆弱ですが、士気の強化と都市住民の蜂起を誘発する効果がありました。

オルレアン戦では、彼女の存在によって「攻城側に回帰する」決断が可能になり、連続する小要塞の攻略で英軍の包囲を崩しました。ランス行軍は、政治的正統性の回復を最優先する戦略の転回を意味し、これが地方諸都市の恭順を連鎖させる呼び水となりました。彼女は戦場での個別指示(梯子の投入、退却の抑止、火砲の前進など)でも影響を与え、軍議の場では意見を率直に表明しました。一方で、パリ攻略の不成功や、コンピエーニュでの撤退判断の難しさは、彼女の限界も示します。彼女は万能の将軍ではなく、機会を開く触媒だったのです。

宗教面では、彼女の幻視は中世後期の女性神秘家に見られる型を共有し、聖人たちの言葉を媒介に「神意」を語りました。これは異端ではなく、当時の教会世界に一定の受容枠がありましたが、政治に直結するとき反発を招きました。男装は戦場の実用と貞潔の保持の手段として彼女が選んだ服制であり、それ自体が罪と断じられるかは当時でも議論がありました。裁判は、この曖昧な領域を政治の都合で有罪に寄せた手続でした。

史料と論点――一次資料の声と近代歴史学の視点

ジャンヌ研究の核は、尋問調書・裁判記録・再審記録・書簡・同時代年代記にあります。特に再審記録は、村人・従者・軍人・聖職者など多数の証言を含み、社会史の宝庫です。同時に、記憶の再構成や語りの自己正当化が混じるため、史料批判が欠かせません。彼女の識字能力や書簡の真筆性、軍議での発言の具体性、戦術判断の関与度、王宮内の派閥関係などは、今なお議論の余地がある論点です。

ジェンダー史は、ジャンヌの男装・処女性・尊称の付与が何を意味したかを問います。社会的に許容される女性の役割を越境した彼女は、裁判所にとって秩序脅威であり、同時に民衆にとっては希望の媒介でした。宗教史は、彼女の幻視と言葉がどの伝統に連なるか、どの聖人崇敬が地域で強かったか、告解・聖体拝領・祈祷の実践がどのように士気に影響したかを探ります。政治史は、彼女の登場を可能にした王権の脆弱と、逆に彼女を切り捨てた現実主義の構図を照らします。

総合すれば、ジャンヌ・ダルクは「奇跡の少女」と「制度を動かした触媒」という二つの顔を合わせ持っています。彼女の短い生涯は、聖と俗、性別役割と政治、祈りと戦の交差点に立ち続け、百年戦争という長い消耗の時代に、一瞬の鋭い突破口を穿ちました。その痕跡は、王の冠と市民の心、裁判記録と聖人伝、映画と広場の像の上に今も残っています。