三月革命(ウィーン) – 世界史用語集

「三月革命(ウィーン)」は、1848年3月にオーストリア帝国の首都ウィーンで勃発し、宰相メッテルニヒ体制の崩壊、検閲撤廃、国民軍(市民軍)と学徒軍の結成、憲法制定の約束など、一連の改革を一時的に引き出した都市革命を指します。春の数か月で宮廷は譲歩を重ねましたが、年の後半には反動が強まり、10月蜂起の鎮圧とともに革命は敗北します。それでも、身分制秩序の見直し、議会と基本権の言語、農奴制的負担の廃止、公共圏の拡大など、のちのオーストリア政治文化に深い痕跡を残しました。ここでは、(1)背景と導火線、(2)3月の崩壊と暫定改革、(3)春から秋への緊張と10月蜂起、(4)敗北後に残った制度的遺産という流れで、できるだけ平易に全体像を解説します。

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背景と導火線――メッテルニヒ体制、経済危機、公共圏の成熟

ウィーンの三月革命の背景には、大きく三つの要素がありました。第一は長期的な政治構造です。ウィーン会議以後、宰相メッテルニヒのもとでオーストリア帝国は検閲と警察行政に支えられた保守秩序を維持してきました。各民族を抱える多民族帝国にとって秩序は死活的でしたが、大学・出版・都市市民のあいだで自由主義の要求は次第に高まっていました。

第二は1840年代半ばの経済・社会危機です。ジャガイモ疫病や穀物不作が続き、1845~47年の不況で失業と物価高騰が広がりました。工場労働者や職人、徒弟、家内工業に依存する郊外の住民に不満が溜まり、慈善と警察だけでは吸収しきれない状況が生まれます。賃下げと失業の抗議は、政治的要求と急速に結びつきました。

第三は公共圏の成熟です。検閲は厳しかったものの、サロン、読書クラブ、秘密結社、新聞・パンフレットが意見交換の場を提供し、大学は若いインテリ層の議論の炉となっていました。法律家や医師、出版人、官吏予備軍の学生は、隣接するドイツ諸邦の議論に通じ、二月革命(パリ、1848年2月)の報がもたらす「可能性の空気」を敏感に感じ取っていました。

3月の崩壊と暫定改革――メッテルニヒ退陣、検閲撤廃、学徒軍の登場

1848年3月13日、ウィーン大学周辺からの請願行進が王宮周辺へ波及し、衛兵との衝突を契機に抗議は急速に拡大しました。大学生と市民、職人が連帯して要求を掲げ、宮廷は宰相メッテルニヒの退陣で事態収拾を図ります。彼の亡命は体制の象徴的崩壊を意味し、数日内に検閲の撤廃、政治犯の釈放、国民軍(市民軍)の創設が相次いで発表されました。

とりわけ注目されるのが「学徒軍(アカデミッシャー・レギオン)」の誕生です。大学生が武装し、街頭の秩序維持と革命の防衛、討議空間の保護を担いました。彼らはバリケード構築や巡回、議場の保護、情報の共有に積極的に関与し、大学・市民軍・新聞社・クラブが結びついた「革命の公共圏」を形づくりました。議会招集と憲法制定の要求は既成事実化し、4月には政府が憲法草案(ピレルスドルフ憲法)を公布して、二院制と基本的自由の一部を約束します。

もっとも、この憲法は皇帝大権を広く残し、選挙資格や政府責任の曖昧さから「不十分」と受け止められました。5月15日、ウィーンでは再び群衆が議会の即時召集・兵力の撤回などを求めて圧力をかけ、宮廷は緊張の高まりを避けるため、皇帝フェルディナント1世と政府中枢をチロルのインスブルックへ退避させます。首都の政治的空洞化は、かえってクラブと新聞に主導権を与え、都市の自治的な意思決定が進みます。

春から秋へ――帝国の多民族危機、議会の開会、そして10月蜂起

1848年夏に向けて、オーストリア帝国は多正面の危機に直面しました。ハンガリーでは自由主義と民族自立を掲げる運動が国民軍を握り、ベーメン(ボヘミア)ではプラハでスラヴ会議と六月蜂起が起こり、北イタリアではロンバルディア=ヴェネツィアで反墺戦が続きました。ウィーン政府は各地へ軍を派遣する必要に迫られ、首都でも市民軍と学徒軍の存在が「背後の不安」として意識されます。

7月、帝国議会(ライヒスターク)が開会し、農奴的負担(ロボット)と地代の廃止、裁判の近代化、諸権利の保障など、重要法案に着手しました。特に農奴的負担の廃止は画期的で、封建的義務の買い上げと補償を伴いながらも、農村社会の自由化に大きな一歩を刻みます。ウィーンの公共圏は、議会報道とクラブの討論、街頭の集会が相互に反響し合い、春の「自由の空気」はまだ存続していました。

しかし、秋が近づくにつれて力の配置は逆転していきます。帝国軍はボヘミアで秩序を回復し、ハンガリーへの遠征準備が進みました。10月6日、ウィーンでは、ハンガリー戦線に向かう部隊の出発に抗議する群衆と兵士の衝突が発火点となり、市内は広範な蜂起に突入します。市民軍・学徒軍・職人らが兵器庫を押さえ、役所や公共施設を包囲、新聞と討議の場は「防衛司令部」に変貌しました。民主派の政治家やジャーナリストが臨時の代表機関を組織し、軍の撤退と政治犯の釈放を訴えます。

これに対し、政府は新たに台頭した若い皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(12月に正式即位)を頂点に、軍司令官ヴィンディシュ=グレーツ公やクロアチアのバン(総督)イェラチッチを動員し、ウィーン包囲を開始します。10月下旬、砲撃ののち市街戦が続き、10月31日、ウィーンは陥落しました。蜂起側の指導者や外部から加勢したドイツ各地の急進派(たとえばライプツィヒの民主派ローベルト・ブルーム)は逮捕され、軍法会議で処刑されます。ブルームの銃殺(11月)は、言論の政治家でも国家に逆らえば命を落とすという「反動の帰還」を象徴しました。

敗北の要因――武力の非対称、地方との連携不足、民族問題の断層

ウィーン革命の敗北には、いくつかの構造的要因がありました。第一に武力の非対称です。市民軍と学徒軍は士気に富み、街路戦で機動しましたが、持久戦・砲戦・補給で正規軍に劣りました。政府は地方から部隊を集結させ、包囲・砲撃・各個撃破で蜂起を圧倒しました。

第二に地方との連携不足です。ウィーンの急進派は各地方の動員に訴えましたが、農村や小都市の支持は限定的で、帝国議会も安全確保のためにモラヴィアのクレムジール(クルムニッツ)へ移転し、首都防衛と立法作業の分断が生じました。議場と街頭の分業は春には相互補完的でしたが、秋には相互不信に転化します。

第三に民族問題の断層です。帝国はドイツ人、チェコ人、ハンガリー人、ポーランド人、イタリア人、クロアチア人、ルーマニア人などを抱え、自由と統一の語彙がしばしば「どの民族の統一なのか」という摩擦を生みました。ウィーンのドイツ系自由主義者はしばしばハンガリーの自立要求に理解を示しながらも、帝国の枠内での秩序維持を望み、ボヘミアやスラヴ諸民族の要求とは緊張しました。政府はこの亀裂を巧みに利用し、諸民族の利害対立をてこに反攻へ転じました。

残されたもの――基本権の語彙、封建負担の廃止、公共圏の成熟

10月蜂起の鎮圧とともに、ウィーンの三月革命は挫折しました。しかし、すべてが無に帰したわけではありません。1848年に広まった言論・集会・出版の自由の語彙、陪審・弁護・合法手続の感覚、議会での公開討論の作法は、その後の立憲政治の当たり前の前提になっていきます。帝国議会が決めた封建的負担の廃止は農村社会に不可逆の変化を与え、地代の買い上げと補償をめぐる財政措置を通じて、国家・地主・農民の関係が再設計されました。

都市社会でも、新聞・クラブ・学会・コンサートホール・劇場・大学の相互連関が強まり、「議論して決める」という公共圏の習慣が根づきます。女性の集会参加や救護・炊き出し・記録作成への関与、印刷・通信・書店のネットワークの拡充は、社会の包摂を広げました。敗北の痛手は大きかったものの、自由主義者や労働者の一部は亡命先(スイス、ドイツ、アメリカ)で経験を蓄積し、19世紀末から20世紀初頭のオーストリア社会民主主義や地方自治、文化の開花に長い影を落とします。

また、フランツ・ヨーゼフ1世の長期統治の出発点として見れば、1848年は「抑圧の年」だけでなく、帝国が多民族の調整と近代行政を学び始めた年でもありました。鉄道・統計・行政裁判所・地方議会といった制度の整備は、革命の熱が去った後も静かに前進し、帝国末期の多文化都市ウィーンの基盤を形づくりました。

まとめ――短い春が示した可能性と限界

ウィーンの三月革命は、旧体制の中枢で起きた「短い春」でした。メッテルニヒの退陣、検閲撤廃、学徒軍の登場、議会と憲法への期待――それらは、市民が政治の主体に名乗りを上げた瞬間を象徴します。他方で、軍事力の非対称、地方との連携の薄さ、民族問題の複雑さが、秋の反動と10月蜂起の敗北へと道を開きました。敗北ののちにも、基本権の語彙、封建的負担の廃止、公共圏の成熟という遺産は残り、オーストリアの政治文化は1848年を避けて通れません。ウィーンの三月革命を学ぶことは、自由と秩序、首都と地方、民族と帝国という難題に、都市社会がどう向き合い、どこで躓いたのかを知る手がかりになります。華やかな音楽と舞踏会の都市は、同時にバリケードと新聞と討論の都市でもあった――その記憶は、いまもウィーンの街路に刻まれているのです。