三月革命 – 世界史用語集

「三月革命」とは、1848年にドイツ連邦の諸邦とオーストリア帝国で三月を中心に爆発した一連の革命運動を指す呼称です。フランスの二月革命(ルイ・フィリップ退位)に触発され、検閲の撤廃、陪審制の導入、国民軍の創設、統一と国民代表による憲法制定などを求める波が、ウィーンやベルリン、各地方都市へ連鎖的に広がりました。短期的には自由主義者・民族主義者が一時的勝利を収め、検閲緩和や宰相交代、国民議会の招集にこぎ着けましたが、1849年には保守勢力の反攻と分裂のために挫折します。それでも、基本権の観念、法の支配(レヒトシュタート)、地方自治、立憲主義、そしてドイツ統一の課題が社会に深く根づき、後世の政治文化と制度に長い影響を残しました。以下では、背景と引き金、各地域での展開、フランクフルト国民議会と憲法案、敗北の理由と遺産を、できるだけ分かりやすく整理します。

スポンサーリンク

背景と引き金――二月革命の衝撃と「三月前期要求」

1840年代のヨーロッパは、穀物不作と景気後退(1845~47年の「大不況」)の打撃を受け、食糧価格の高騰と失業が都市と農村を同時に揺さぶっていました。ドイツ連邦では、関税同盟(ツォルフェライン)により経済的統合が進む一方、政治では諸侯の専制と検閲、身分秩序が温存され、自由主義者(弁護士、教授、出版人、市民層)と職人・工場労働者の不満が蓄積していました。民族運動(ポーランド、イタリア、ハンガリー、チェコ)も共鳴し、言語と代表制をめぐる要求が各地で高まります。

1848年2月、パリで七月王政が倒れると、その衝撃は瞬時にドイツ語圏へ伝播しました。各地で請願・デモが起こり、新聞は検閲の緩和を既成事実化し、都市の市民兵(国民軍)創設が進みます。これらは「三月前期要求(Märzforderungen)」と総称され、(1)検閲の廃止、(2)陪審制、(3)市民軍、(4)憲法・議会、(5)政治犯の恩赦、(6)ドイツ民族の統一が典型項目です。やがてウィーンとベルリンという二つの政治中枢で、抗議は決定的な局面を迎えました。

ウィーンとベルリン――王権の譲歩、街頭の圧力、十月反動

3月13日、ウィーンで学生・市民・職人が大学区から宮廷へデモ行進し、宰相メッテルニヒの退陣を要求、ついに彼は亡命に追い込まれました。皇帝フェルディナント1世は検閲撤廃と国民軍創設、憲法の約束に譲歩します。大学生の「学徒軍(アカデミッシャー・レギオン)」が街頭秩序の一角を担い、ウィーンは短期間ながら革命都市の様相を呈しました。しかし、帝国の他地域(特にハンガリーとボヘミア)の民族運動が高揚する中、ウィーン政権は軍を立て直し、10月には兵士のプラハ派遣に反対する住民・学徒の蜂起を武力で鎮圧、革命は流血の末に挫折します。12月にはフェルディナントが退位し、若いフランツ・ヨーゼフ1世が即位して反動の潮が強まります。

ベルリンでは、3月18日に勅令の自由化発表に続く祝賀と抗議が交錯し、王宮前の小競り合いが市街戦へ拡大しました。二日間のバリケード戦の末、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は犠牲者に弔意を示し、市民軍創設と憲法制定、そしてドイツ統一の主導をほのめかす演説(「ドイツ国民の王」としてのポーズ)を行います。検閲は緩み、臨時議会が招集され、憲法草案作業が進みましたが、秋には軍の再編と保守派の盛り返しで緊張が高まり、1849年に王は自由主義的憲法を骨抜きにして新憲法を公布、街頭の革命勢力を解体していきました。

地方のうねり――バーデン、ライン地方、ボヘミア、北イタリア

ライン地方や南西ドイツでは、言論の自由と自治、国家統一を求める集会が頻発しました。特にバーデン大公国では急進派の影響が強く、ハイデルベルク会議やオッフェンブルクの人民集会が過激な綱領(普遍男子選挙、武装、社会立法)を採択、やがて1848年4月のヘッカー=シュトルーヴェ蜂起、1849年5~7月の第二次バーデン革命へ発展します。蜂起は最終的にプロイセン軍に鎮圧され、多くの指導者が亡命(米国の「フォーティ=エイターズ」)しましたが、地方の自治・連帯・民兵の伝統はその後の政治文化に影響を残しました。

ボヘミア(プラハ)ではチェコの民族運動が高揚し、1848年6月のスラヴ会議と六月蜂起が帝国軍に鎮圧されます。北イタリアではロンバルディア=ヴェネツィアで反墺運動と第一次イタリア独立戦争(サルデーニャ王国が参戦)が勃発し、オーストリア帝国は多正面での危機に直面しました。ハンブルクやブレーメンなどの都市では、憲章改正や参政権拡大が実現し、またシュレスヴィヒ=ホルシュタイン問題(デンマークとの領有争い)ではドイツ民族統一のナショナリズムが動員されました。

フランクフルト国民議会――パウルス教会の討議、憲法と「小ドイツ」案

各邦の譲歩と選挙を受け、1848年5月、フランクフルトのパウルス教会に全ドイツ国民議会(ドイツ国会)が開会しました。選挙の基準は地域差がありつつも広範な男子選挙権が採用され、弁護士・教授・官吏が多数を占めます。議会はまず基本権(信教・言論・集会・法の前の平等・身分刑罰の廃止)を宣言し、連邦の将来像(大ドイツ=オーストリアを含むか、小ドイツ=オーストリアを除外してプロイセン主導か)を巡って激論を交わしました。

1849年3月、議会は最終的に小ドイツ案を採択し、プロイセン王を「ドイツ皇帝」に推戴する帝国憲法(パウルス教会憲法)を可決します。憲法は二院制(人民院と諸邦院)、帝国政府の責任、基本権の包括的保障を含む進歩的内容でした。しかし、決定的な障害は主権の源泉と軍事力でした。プロイセン王は議会からの「王冠(紙冠)」を拒否し、立憲的制約下の皇帝位を侮辱的とみなします。オーストリアもまた帝国の統合を拒み、諸邦の多くが逡巡・撤回に転じ、議会は武力・財源・行政府を欠いたまま解体に追い込まれました。

敗北の理由――分裂、武力の不在、社会的連携の脆弱さ

三月革命が挫折した理由は単一ではありません。第一に、自由主義派内部の亀裂です。大ドイツか小ドイツか、立憲君主制か共和制か、中央集権か連邦か、農民問題(領主的負担の廃止と補償)や労働問題(賃金・労働時間)への態度などで、穏健派と急進派が対立しました。第二に、武力の制圧権を掌握できなかったことです。市民軍は存在したものの、常備軍と官僚機構は王権側に残り、革命勢力は地方蜂起の連携・継戦能力に欠けました。第三に、社会的連携の脆弱さです。都市中産階級と職人・労働者、農民の利害は必ずしも一致せず、パンの価格と秩序の問題で中産層は次第に秩序回復を優先し、街頭の急進派と距離を取りました。

国際環境も逆風でした。対外戦争(対デンマークや北イタリア戦線)が長引く中、保守諸王権は相互援助(神聖同盟的な協調)で反乱鎮圧に成功し、ロシア帝国は1849年にハンガリー革命へ干渉して決定打を与えました。こうして、1848年の春に獲得された自由は一年足らずで後退し、多くの活動家が亡命・処罰の道を選ぶことになります。

制度化された遺産――基本権、レヒトシュタート、統一への長い道

それでも三月革命は無意味ではありませんでした。各邦は1849年以降も、近代的な裁判制度(陪審・弁護)、行政裁判所、地方自治、身分的特権の廃止、地代の買い上げなどの改革を部分的に維持・導入し、立憲主義の語彙が政治の常識となりました。新聞・協会・政党の萌芽(自由主義クラブ、労働者協会)、労働保護や教育の議論、女性の結社活動(ルイーズ・オットー=ペーターズら)の広がりは、19世紀後半の市民社会形成を後押しします。大学・出版社・劇場・歌合唱団などの「公共圏」も成熟し、政治と文化の相互作用が強まりました。

統一の課題は、革命の失敗で消えたわけではなく、外交と軍事の手段で再登場します。1850年代にプロイセンは軍制改革・産業化で国力を伸ばし、1860年代のビスマルク期にデンマーク戦争(1864)、普墺戦争(1866)、普仏戦争(1870–71)を通じて小ドイツ方式の統一を実現しました。1848年の議論で準備された制度(連邦参議院様の諸邦院・人民代表の下院・基本権)や言説は、帝国憲法(1871)にも影を落としますが、同時に議会主義の限界(宰相の議会責任の欠如)も引き継がれました。

比較と用語の注意――「1848年革命」と「1917年三月革命」

日本語の「三月革命」は主として1848年のドイツ=オーストリア圏を指しますが、文脈によっては1917年ロシアの「三月革命」(ユリウス暦の二月革命)を意味することがあります。後者は皇帝ニコライ2世退位と臨時政府成立を指し、性格も担い手も異なります。本稿は前者(1848年)に焦点を当てましたが、用語の重複には注意が必要です。また、1848年の波はフランス、イタリア、スイス、ポーランド、チェコ、ハンガリーなどヨーロッパ広域に及び、各地で自由・民族・社会のアジェンダが交差しました。その中でドイツ語圏の「三月」は、経済統合が進む一方で政治統合が遅れた地域に特有のジレンマ(統一と自由の順序、オーストリア問題)を露呈させたのです。

まとめ――短い春のあとに残った長い19世紀

三月革命は、街頭の情熱、議会の討論、王権の譲歩と反攻、地方蜂起の孤立、そして亡命へという、めまぐるしい一年でした。敗北は確かでしたが、そこで掲げられた基本権と法の支配、代表制と責任政府、国民統合の構想は、19世紀後半の制度化と統一国家の形成に吸収され、20世紀の民主主義の土台の一部となりました。短い春のあとに訪れた長い保守化の時代は、逆説的に、自由を「当たり前の言語」として社会にしみ込ませる時間でもあったのです。三月革命を学ぶことは、自由・統一・秩序という三つ巴の課題がぶつかるとき、どのような選択肢とコストが現れるのかを、具体的な歴史の手触りの中で考える手がかりを与えてくれます。