「国富論」「諸国民の富」は、一般にアダム・スミス(1723–1790)の著作『An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations』(1776年)の日本語題名として用いられる名称です。前者は明治期に広まった短縮的呼称、後者は原題により忠実な訳語です。本書は、社会の豊かさがどのように生まれ、どう配分され、国家は何をすべきかを体系的に論じる古典で、近代経済学の起点とされます。分業と市場の拡大、価格と価値、賃金・利潤・地代の分配、資本蓄積と成長、国家の役割(治安・国防・公共事業・教育)、商業主義(重商主義)批判や自由貿易の理論など、多岐にわたるテーマを五冊立てで整理しています。今日の教科書的な単純化—例えば「見えざる手」=何もしない政府—では掬いきれない豊かな議論が詰まっており、政策・倫理・歴史を横断する読み応えのある作品です。
成立と構成:スコットランド啓蒙と五冊立ての全体像
『諸国民の富』は、スコットランド啓蒙の文脈で生まれました。スミスはグラスゴー大学で道徳哲学教授を務め、『道徳感情論』で人間の共感(sympathy)と徳を論じたのち、関税・職制・ギルド・植民地制度など現実の制度が経済活動に与える影響を、歴史と観察に基づいて検討しました。出版は1776年、アメリカ独立宣言と同年であり、帝国と貿易、課税と代表の問題が生々しく議論されていた時代です。
構成は五冊(Book I–V)です。第一編は分業と市場、価格と分配が中心で、ピン工場の例に象徴される分業の生産性向上、交換の拡大、労働の熟練化、そして市場規模が分業を制約するという命題が提示されます。第二編は資本と蓄積で、可変資本・固定資本の区別、節約と投資、利子率、信用の役割が論じられます。第三編は経済発展の歴史的順序で、商業の発達が農業の改良に遅れて内陸へ波及するという「自然な進歩の順序」を提示します。第四編は最も政策的な重商主義・重農主義批判と自由貿易論で、金銀偏重、独占特許、航海法などの制度を批判的に検討します。第五編は国家の任務と財政で、治安・司法・国防・公共事業・教育を「国家固有の任務」として描き、租税の四原則(公平・明確・便宜・最小徴税費)を示します。
つまり、『諸国民の富』は単純な自由放任の宣言書ではありません。市場の効率を称賛しつつ、制度・歴史・倫理の視点から、どの領域で公的関与が必要かを具体的に描き分ける、実務的でバランス感覚に富んだ書物なのです。
核心概念:分業・価格・分配・資本蓄積の論理
分業と市場規模の議論は、スミスの最も著名な洞察です。ピン工場の例に見られるように、作業工程を分割して専門化すると、(1)熟練が深まり、(2)段取り替えの時間が節約され、(3)道具や機械の改良が促進され、生産性が飛躍的に高まります。他方、この分業は市場の広さに依存します。需要が小さければ、工程分化のコストを回収できず、生産性の利点も活かせません。したがって、交通・通信・法制度の整備により市場が拡大するほど、分業は進行し、人々の生活水準は引き上がる、と論じます。
価値と価格について、スミスは二層の説明を示します。原始的で資本や地代が未発達な社会では「商品価値は労働で測られる」として労働価値論(狭義)に近い記述を行いますが、資本主義社会では市場価格が賃金・利潤・地代という三収入の合計として形成される、とも述べます。さらに、需要と供給のずれにより市場価格は「自然価格」(長期均衡価格)の周りで上下に振動する、と整理します。これにより、短期の価格変動と長期の費用に基づく中心への回帰が区別され、古典派価格論の基礎が置かれました。
分配の原理では、労働者の賃金、資本家の利潤、地主の地代がどのように決まるかを論じます。賃金は労働市場の需給と生活維持費に依存し、利潤は競争により平均化の傾向を持ち、地代は土地の肥沃度や立地、独占的所有権に支えられる超過収入として説明されます。ここでスミスは、独占や特権が分配に歪みを生じさせることを繰り返し警告します。
資本と蓄積については、節約(倹約)と投資が生産的労働を雇用し、生産能力を拡張することで「国民の富」を増やす、と論じます。資本は固定資本(機械・建物)と流動資本(原料・賃金等)に分かれ、その配分が生産性と成長率に影響します。信用や銀行制度は交換を円滑にしますが、投機と不良信用は危機を招く可能性があるため、注意深い制度設計が必要とされます。スミスは、利子上限規制を一定範囲で擁護するなど、金融の「過熱」への実務的警戒も見せます。
しばしば引用される「見えざる手」は、本書全体の合言葉ではありません。あくまで限られた箇所で、自己利益の追求が競争と法の枠の中で社会的に望ましい結果をもたらしうる、というメカニズムを指摘する比喩です。独占・特権・情報の偏在・外部不経済がある場合には、その手は適切に働かないことをスミス自身が数多くの例で示しています。
政策論と国家観:重商主義批判、自由貿易、そして公共の役割
スミスは、金銀の蓄積を富と同一視し、独占特許・会社特権・高関税・航海法で貿易を囲い込む重商主義を批判しました。富とは貨幣ではなく、労働力と資本により生産される財とサービスの流れであり、競争と分業の進展がこれを増大させる、というのが彼の立場です。関税や輸入規制は国内特定業界の利害を守るために設けられることが多く、消費者全体の利益を損なう、と分析します。
ただし、スミスは例外的に関税の容認も論じます。(1)国防上不可欠な産業(例:造船)を守る場合、(2)相手国が高関税・禁止で輸入を閉ざすときに、交渉の梃子として対抗関税を用いる場合、(3)既得権に依存した産業の急激な解体が労働者に過大な痛みを与える場合の漸進的撤廃などです。この柔軟さは、自由貿易が倫理的な絶対命令ではなく、総余剰と長期的成長を高める実務的方針であることを示しています。
国家の役割としてスミスが挙げるのは、(A)国防、(B)司法(権利の保護)、(C)公共事業と公共施設、(D)基礎教育などです。市場が供給しにくい「分割不可能」「非排除」「外部性の大きい」財や制度—道路・橋・港・運河・標識・計量単位・貨幣制度・警察・登記—は、公的主体が整えねばなりません。教育についても、読み書き・計算・基本的道徳を広めるために授業料補助や学校設立を論じ、労働の単調化による知的退化を防ぐ観点を強調します。これは、彼が『道徳感情論』で展開した人間観(共感と徳)の延長にあります。
税制では、納税者の能力に応じた負担(応能)、税額と納期の明確性、徴税の便宜、徴税費の最小化という四原則を示し、地租・関税・印紙税・所得税的な発想を比較検討します。租税は不可避だが、恣意と不確実性が経済活動を損なうため、予見可能で中立的な制度設計が望ましい、という考え方です。
さらにスミスは、帝国主義の費用と恩恵のバランスにも冷静です。植民地の維持にかかる軍事・行政コストは、独占貿易がもたらす利益を食い潰すことが多い、と指摘し、植民地支配の「帳尻」を疑います。奴隷制度についても、非効率と道徳的問題を論じ、自由労働が長期的に優越するとの洞察を示します。
影響・受容・誤解:古典派経済学への橋渡しと日本での読み方
『諸国民の富』は、リカードウやマルサス、ミルへと続く古典派経済学の共通語彙を整え、分業・競争・価値・分配・貿易・国家の役割といった章題を後世の教科書の骨格にしました。19世紀以降、工業化と世界貿易の拡大の中で、本書は「自由貿易のバイブル」として引用されましたが、同時に労働者保護・貧困・都市問題への対応として、教育・公衆衛生・インフラ整備といった国家の役割を肯定するスミス像も再評価されてきました。
日本では、明治期に『国富論』の題名で紹介され、福沢諭吉や中村正直らを通じて「富国」や「実学」の理念に接続されました。渋沢栄一の合本主義(道徳と経済の調和)も、スミスの倫理観と市場観を重ねて語られることが多いです。今日の研究では、スミスの二著(『道徳感情論』と『諸国民の富』)を一体として読み、共感倫理と市場制度の緊張と調和を捉える方法が一般的です。
一方で、誤解も少なくありません。第一に、「見えざる手」が万能で国家は何もしなくてよいという理解は誤りです。スミスは市場の利点を強調しつつ、独占や情報の偏在、外部性、公共財の領域では公的介入を是認し、教育やインフラ整備を積極的に提案しています。第二に、スミスが単調労働の精神的劣化を危惧し、新たな徳倫理を持つ市民教育を求めていた点が見落とされがちです。第三に、単純な「労働価値論の提唱者」としての定式化も不正確で、彼は社会段階によって価値説明の構造が異なることを自覚的に書き分けています。
結論として、『諸国民の富』(『国富論』)は、自由な交換と制度の設計を両立させるための思考の道具箱です。分業と市場がもたらす繁栄を最大化しつつ、独占や特権を抑え、公共財と教育に投資し、公平で予見可能な税制度を整える—スミスの提案は、今日の政策議論にもなお生きた指針を提供しています。題名の違いに惑わされず、原題どおり「諸国民の〈富〉とは何か、〈原因〉は何か」を丁寧にたどることが、現代における最良の読み方です。

