アルタン・ハン – 世界史用語集

アルタン・ハン(Altan Khan, 1507–1582)は、16世紀に内モンゴルのトゥメト(トメド)部を中心に勢力を築いた有力ハーンで、明朝との抗争と講和を経て国境交易を再興し、チベット仏教(ゲルク派)をモンゴル世界に本格的に広めた指導者として知られます。1550年には北京外縁にまで達する遠征を行って明廷を揺さぶり、1571年の講和で「順義王」の封号と互市の権利を獲得しました。1578年には高僧ソナム・ギャツォ(のちに「第3代ダライ・ラマ」と呼ばれる)と会見し、「ダライ(海)」の称号を授けるとともに改宗と布教を進め、フフホト(青城)に寺院を建立してモンゴルの仏教化に決定的な契機をもたらしました。政治・宗教・交易を結びつけた彼の施策は、モンゴル世界の秩序と東アジアの国際関係の再編に長期の影響を与えました。

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出自・台頭と明朝との抗争:北京近郊遠征から講和への道

アルタン・ハンはダヤン・ハン(バートゥ・モンケ)系の子孫と伝えられ、父(あるいは先代)バーリス・ボロトの後継としてトゥメト部の主導権を握りました。16世紀前半、モンゴル諸部はユーラシア内陸の再編期にあり、明朝の長城防衛線(宣府・大同・延綏など)を挟んで、牧畜物資と茶・絹を交換する交易の統制をめぐる緊張が続いていました。アルタン・ハンは、国境貿易の再開と自勢力の権威承認を引き出すため、草原騎兵の機動力で北辺を揺さぶります。

1550年、彼は大軍を率いて長城を突破し、北京郊外の昌平・順義方面にまで進出して郊野を荒らし、明廷に強い圧力をかけました。この遠征は城下への脅威として記憶され、明側は防衛体制の再整備を進めますが、同時に、全面戦争を避けて交易で関係を安定させたい現実的意向も強まりました。アルタン・ハンの側でも、掠奪のみならず、安定した互市によって塩・茶・絹・金属・農産物を継続的に得ることが草原経済の持続に不可欠でした。

こうして1571年、明朝はアルタン・ハンに「順義王」の称号を授け、長城沿いの関市での互市(馬と茶・絹の交換など)を再開する講和に応じます。これにより、トゥメト勢力は軍事的威信と名目上の冊封秩序を併せ持つ形で安定を得、長城の門戸は再び「市場」として機能し始めました。アルタン・ハンはこの和平を梃子に、草原内部の諸部族に対する求心力を強め、オルドス(黄河套地帯)などにも影響圏を広げます。

宗教政策とチベット仏教の受容:1578年の会見と称号「ダライ・ラマ」

アルタン・ハンの歴史的意義の核心は、チベット仏教の受容と布教にあります。1578年、彼は高僧ソナム・ギャツォ(ゲルク派の指導的ラマ)を招いて会見し、ここでモンゴル語の「ダライ(海洋般に広大な)」に由来する称号を与えました。ソナム・ギャツォはこれにより「ダライ・ラマ」と称され、後にさかのぼって前二代(ゲンドゥン・ドルジェ/ゲンドゥン・ギャツォ)が第1・第2代と位置づけられます。宗教的相互承認として、ソナム・ギャツォはアルタン・ハンを転輪聖王(チャクラヴァルティン)に擬し、しばしばクビライの再来とも称しました。政治権威と宗教権威の提携は、14世紀のクビライ=サキャ体制の記憶を参照しつつ、16世紀版の「ハーン—ラマ同盟」として再構築されたのです。

改宗は儀礼や寺院建立を通じて可視化されました。アルタン・ハンは、交易と行政の拠点として整備していた青城(モンゴル語名コケ・ホト、現フフホト)に大召寺(ダジャオ寺)を創建し、仏像・経典・僧団を招いて布教の中心地としました。仏教は在来のシャマニズム的実践と競合しつつも、王権の庇護の下で迅速に広がり、モンゴル語訳の経典・教理入門書の編纂、法会・戒律の制度化が進みます。巡礼・施主ネットワークは草原の移動社会に適応し、モンゴル世界の精神生活と法秩序に新たな規範を与えました。

アルタン・ハンの改宗は、トゥメトにとどまらず、同時代のハルハ諸王(アブタイ・サイン・ハンなど)にも波及し、17世紀初頭には外モンゴルでもゲルク派の優越が固まります。この流れは後世、清朝がモンゴル統治でチベット仏教を積極的に取り込む政策(活仏制度の承認・保護)へも接続し、内陸アジアの政治宗教秩序の骨格を形づくりました。

統治・経済と都市:草原秩序の再編、馬茶貿易、フフホトの形成

講和以降、アルタン・ハンは国境の互市を安定運用し、草原—農耕地帯の相互依存に基づく経済秩序を再編しました。馬・皮革・畜産物と茶・絹・鉄器・穀物との交換は、遊牧と農耕の補完関係を制度化し、関市・寺院・市鎮が結節点となりました。フフホトは、寺院中心の宗教都市であると同時に、交易・外交・行政のハブとして成長し、草原社会の新しい「中心地(センター)」の役割を担います。

政治面では、トゥメトの有力氏族・同盟諸部の調整と、明朝との儀礼的関係の両立が課題でした。アルタン・ハンは、冊封により得た称号・贈与を草原内部の権威資源として配分し、遠征・警邏で軍事的優位を保ちつつ、寺院と僧団を介した規範の共有で秩序を保ちました。宗教の権威は流血の少ない紛争調停の装置としても働き、法度・禁制(狩猟・牧地利用など)に宗教的正当化を与えます。こうした〈政治—宗教—経済〉の三位一体運用は、のちのハーン権力のモデルとなりました。

後継・意義・用語の注意:歴史的位置づけと学習のポイント

1582年にアルタン・ハンが没すると、トゥメトの結束は徐々に弛緩しますが、彼の築いた都市・寺院と宗教ネットワークは持続し、モンゴル社会の価値秩序を長期にわたって規定しました。モンゴルの仏教化は、外モンゴルのハルハ、さらにオイラト諸部にも広がり、17世紀には中央ユーラシアの政治宗教地図を一変させます。明—モンゴル関係においても、武力威嚇と互市・冊封の折衷という実務の型が定着し、清代の辺境統治に継承されました。

用語上の注意として、歴史上「アルタン・ハン」と呼ばれる人物には複数の系譜があり、16世紀のトゥメトのアルタン・ハンと、後世に称号として現れる(ハルハ系の)アルタン・ハンを混同しないことが重要です。本項で扱うのは前者です。また、1578年の会見で成立した「ダライ・ラマ」号は、ソナム・ギャツォ本人への授与と、過去二代への遡及的付与を区別して理解する必要があります。フフホトの大召寺(ダジャオ)建設、1571年講和、1550年の北京近郊遠征といった節目の年次は、アルタン・ハンの生涯をたどる目印になります。

学習の要点をまとめると、①出自(ダヤン・ハン系)とトゥメト部の主導権掌握、②1550年の遠征と1571年の講和(順義王・互市再開)、③フフホトの形成と寺院建設、④1578年のソナム・ギャツォ会見とモンゴルの仏教化、⑤改宗の波及と内陸アジア秩序への長期的影響、⑥別系譜のアルタン・ハンとの区別、の六点を押さえると、アルタン・ハンの歴史的位置づけを的確に説明できます。彼は、武力と交易、宗教と政治を結びつけることで、草原世界を再編した「16世紀の建設者」だったのです。