ウルスとは、主としてモンゴル帝国期に用いられた政治・社会的単位を指す語で、王族(チンギス・ハーン家)や有力諸氏族に分与された統治領域と、その領域に属する人びと・家畜・資源・課税権の総体を意味します。単なる領土ではなく、遊牧世界の移動性や家産的な支配、軍事編成、財政・分配のしくみが一体化した「生活共同体=政治体」の名称として理解することが大切です。モンゴル帝国の拡張とともに、ウルスはユーラシア各地に配置され、ジョチ・ウルス(のちのキプチャク汗国)、チャガタイ・ウルス、フレグ(フラグ)・ウルス(イルハン朝)、そしてトゥルイ家から派生するクビライのウルス(元朝)などが展開しました。
ウルスはまた、広い意味では「人びとの群」「国家」「国民」を指す一般名詞として、テュルク語・モンゴル語の言語圏に共有されました。のちの時代には、ロシア帝国やソ連領内のシベリア先住民社会でも、行政区画や共同体を指す語(例:サハ(ヤクート)の「ウルース」)として用いられ、近現代トルコ語では「国民」「民族」の意味で使われます。したがって、歴史文脈によってウルスが意味するスケールと制度は異なるため、用例の場面に注意する必要があります。
語源・概念と遊牧帝国の文脈
ウルス(ulus)は、古テュルク語・モンゴル語に共通する語彙で、「一団・民・国」「共同体のまとまり」を表します。遊牧社会では、軍事力と移動可能な家産(家畜群)が富と統治権の基盤であり、首長の権威は血統と戦功、配分の公正さにより支えられました。ウルスは、こうした共同体を包む枠組みとして、血縁・家産・軍制・課税・裁断権を束ねます。チンギス・ハーンは帝国の結成に伴い、王族・功臣に対して投下(分封)と呼ばれる分配を行い、そこで成立した「家(オルド)+領域+人びと」の複合体がウルスでした。
ウルスの中心には、可動式宮廷としてのオルド(オルドゥ、オルド)の存在があります。オルドは幕営・宝物・家政・護衛・宗教儀礼が集約される移動宮廷で、季節移動(移牧)に合わせて草原・河谷・山麓を循環しました。オルドの移動に合わせて課税拠点や交易市が機能し、農耕地帯の都市とも連携が取られました。遊牧帝国のウルスは、固定された国境線よりも、移動のリズムと交通路の掌握によって可視化される政治体でした。
法と規範の面では、チンギスの遺訓・法規範(一般に「ヤサ」と総称される)と、カーンの勅令(ジャルリグ)が権威を与えました。ウルスの支配者は、これらの枠組みの下で、千戸制(千・百・十の軍事=行政単位)を基礎に人員を組織し、徴税・軍役割当・治安維持を遂行しました。被征服地の行政・財政にも柔軟に対応し、イスラーム地域ではダルガチ(監督官)や地元官僚を組み込み、東アジアでは科挙官僚や土官制度を活用するなど、ウルスの運用は多様でした。
モンゴル帝国における主要ウルスの展開
ウルス概念を具体的に掴むには、帝国分有後に形成された諸ウルスを見ていくのが有効です。ジョチ・ウルスは、チンギスの長子ジョチ家に与えられた広大な草原地帯(ウラル川以西からキプチャク草原)を基盤に、のちにキプチャク汗国(通称「黄金のオルド」)として展開しました。ここでは、草原遊牧と黒海北岸の交易、ロシア諸公国の貢納体系が結びつき、ウルスは「農耕地帯を包摂した草原国家」として振る舞いました。さらにジョチ家内部では白帳・青帳などの分岐が進み、クリミア汗国・カザン汗国・アストラハン汗国・シビル汗国などの継承政権に繋がります。
チャガタイ・ウルスは、中央アジア内陸(トランスオクサニアから天山、タリム盆地)を舞台に、ソグド以来の都市ネットワークと草原の遊牧世界を架橋しました。ウルスの内部では、イスラーム化とテュルク化が進む一方、ペルシア語文化とモンゴル語・モンゴル慣行の折衝が続きました。14世紀には東西に分裂し、やがて西方の政治空白からティムールの台頭を招きます。ティムール政権はチャガタイの名義を利用しつつ独自の権威体系を構築し、ウルス的な資源配分と王族の血統政治を巧みに再編しました。
フレグ・ウルス(イルハン朝)は、イラン・イラクを中心に、古いサーサーン朝以来の行政文化とモンゴル的軍制を結合しました。イルハン朝は仏教・キリスト教・イスラームの宗教多元性を抱えながら、しだいにイスラーム化し、財政・土地制度の整備(イクター、歳入請負)を進めました。ここでのウルスは、農耕国家の財政基盤と、軍事貴族の分配要求を調停する仕組みとして運用され、宮廷の分裂と財政難が進むと、ジュラーヤル朝やジャライル朝など地域政権へと分化します。
クビライのウルスは、のちの元朝(1271–1368)として中国全土を統治し、遊牧的支配の原理と農耕官僚制の融合という未曾有の挑戦を担いました。千戸制は里甲・土司・行省制度と併存し、色目人官僚・漢人・南人の序列が議論を呼びました。ここでのウルスは、草原の王家家産を基礎にしつつ、広大な農耕地帯の租税・労役を組み上げる巨大なハイブリッド国家でした。元の崩壊後も、北元やモンゴル高原の諸政権にウルス的構造は継承されます。
統治のしくみ—軍制・財政・分配と都市
ウルス統治の基盤は、軍事・財政・裁断権の三位一体にあります。軍事面では、十進法的な千戸制が兵站・指揮・徴発の単位となり、王族・ノヤン(貴族)が千戸を家産的に把握しました。戦利品・征服地の収益は、ウルス首長の裁定で配分され、忠誠と序列の秩序が形成されます。これは同時に財政制度であり、遊牧社会の再分配が、都市・農村の税収と接続される仕組みでした。
財政面では、遊牧領における家畜課税、農耕地の地租・人頭税、交易税(関市・関津)など多元的な収入源がありました。草原の移動宮廷が都市に寄留することで、オルドを中心に市(バザール)が活況を呈し、職人・商人・宗教者が集積しました。ウルスは都市の保護者であり、都市はウルスの倉庫・造幣・物流の結節点でした。紙幣(チャオ)の導入や歳入の請負制は、ウルスの財政運営に新機軸をもたらしましたが、インフレや徴収過酷化のリスクも孕みました。
裁断権の面では、カーンやウルス首長のジャルリグ(勅令)が法的権威を持ち、宗教者への免税特権(ダルガ、ヤルリグ免状)や都市への保護宣言が発給されました。イスラーム地域ではウラマーやカーディーを、東方では儒教官僚や道教・仏教勢力を取り込み、信仰の多元性と現地制度がウルスの安定に資しました。宗教寛容は実利的配慮であると同時に、広域支配の統治技術でもありました。
分裂・継承と長期的影響
モンゴル帝国の統合が弱まると、諸ウルスは独自の王朝へと自立し、互いに競合・婚姻・同盟を繰り返しました。ジョチ・ウルスはトクタミシュの統一など再統合の試みを経ながらも、タタール勢力の多極化とロシア諸公国の伸長、ティムールとの戦争を受けて分化します。その後、カザン・アストラハン・クリミアなどの汗国がロシアの圧力下で屈服・併合される一方、クリミアはオスマンの同盟者として長く生き延び、草原の交易と黒海世界を結びました。
チャガタイの後継空間では、ティムール朝が都市文化と軍事貴族の利害を調停する新たな宮廷秩序を築き、ウルス的分配とイラン・中央アジアの官僚制を融合しました。ティムールの死後、ウズベク(シャイバーニー)勢力がマーワラーアンナフルを掌握し、ブハラ・ヒヴァ・コーカンドの諸政権へと連なります。これらテュルク=モンゴル系王朝の宮廷では、ウルス的な家産観と遊牧的軍制の記憶が、イスラーム王朝の法制度と重層的に共存しました。
イルハン朝の瓦解後、イランは地方王朝の群雄割拠とティムール朝の征服を経験し、のちにサファヴィー朝の宗教=王権統合へと移行します。ここでも、軍事貴族への分配・遊牧民の移動統制・部族編成の管理など、ウルス的な統治技術が形を変えて受け継がれました。元の崩壊後のモンゴル高原では、オイラトや東モンゴル諸氏族が覇を競い、清朝の台頭とともに盟旗体制に再編されますが、ここでも旗(旗分け)という家産的・軍事的単位が、ウルスの記憶を思わせます。
言語文化の面でも、ウルスは長い影響を残しました。ペルシア語は西方ウルスの宮廷語・行政語として威信を高め、モンゴル語・テュルク語との混淆の中で新たな宮廷文学を生みました。東方ではモンゴル語と漢語が行政文書で並存し、色目人やウイグル人書記官の実務能力が重用されました。交易・移動・翻訳が日常化したウルスの世界は、地中海から中国海域に至るまで、知識・技術・疫病までもが急速に移動する「パクス・モンゴリカ」的環境を作り出しました。
用語の拡張—近世・近代におけるウルス
早くから述べたように、ウルスは時代が下るにつれ意味領域が広がりました。西アジア・中央アジアのテュルク語圏では、「国家」「民衆」一般を指す普通名詞として定着し、オスマン語やチュヴァシ、カザフ・キルギス・ウズベクなどの語彙にも残りました。トルコ共和国期の標準トルコ語でも「ulus=国民」の語が一般化し、首都アンカラには「ウルス」と呼ばれる地区名が残っています。これは、遊牧帝国期の政治単位の名が、国民国家の言語へと意味変化した好例です。
ロシア帝国とソ連のシベリア行政では、サハ(ヤクート)語の「ウルース」が下位行政単位(地区)や共同体の呼称として用いられ、今日のサハ共和国でも行政地名に残ります。これは、帝国的支配の下で先住民社会の伝統的共同体単位が行政語彙に取り込まれる過程を物語ります。つまり、ウルスという語は、単に中世モンゴルの歴史用語に閉じず、ユーラシア北方の長期的な制度言語の層をなしています。
学術上の用法では、近代史学・文献学がモンゴル帝国史を再構成する過程で、「ジョチ・ウルス」「チャガタイ・ウルス」「フレグ・ウルス」「トゥルイ・ウルス」などの用語が整理され、各ウルスの地理範囲・家系・首都・財政基盤・宗教政策が詳細に検討されてきました。考古学・文書学・地名学・遺伝学・環境史の成果が重ねられ、ウルスの実像は、単なる「分割統治」以上の複雑性を持つことが明らかになっています。
まとめ—可変的な「国家」概念としてのウルス
ウルスは、固定国境を前提とする近代国家のイメージでは捉えにくい、遊牧世界特有の可変的・重層的な政治単位でした。王族家産と軍団、移動宮廷と都市、草原とオアシス・農耕地が、季節と交易のリズムに応じて結び直されるダイナミックな構造こそが、ウルスの実体です。その柔軟性は帝国の急拡大を可能にしましたが、同時に王家内の相続・分与や家門間の競合によって分裂も生みました。
それでもなお、ウルスの語は、共同体と政治秩序を一体として捉える視点を私たちに提供します。中世ユーラシアの歴史を理解する上で、ウルスという枠組みは、軍事征服だけでなく、分配と再分配、異文化の接続、宗教多元主義、移動と都市の共存といった要素を見通す「鍵」になります。ウルスの記憶は、のちのテュルク=モンゴル諸王朝、ロシア帝国の辺境統治、さらには近代の「国民(ウルス)」概念に至るまで、長期の時間をかけて形を変えながら受け継がれてきました。

