ウル第3王朝とは、前21世紀末から前20世紀初頭にかけてメソポタミア南部に成立した王朝で、しばしば「新シュメール時代」あるいは「ネオ・シュメール王国」とも呼ばれます。創始者ウル=ナンムとその子シュルギの代に行政・法・宗教・軍事の諸制度が整備され、ウルのジッグラトに象徴される大規模建築、細密な官僚文書、標準化された度量衡や課税体系が整いました。王は「諸都市の王」「スメールとアッカドの王」と称し、ウル、ウルク、ニップル、ラガシュ(ギルス)、ウマ、アダブなどの都市国家を束ねる統合政体を築きました。高度に組織化された徴税と労働動員は、運河・城壁・神殿の維持、広域交易の管理、王宮・神殿経済の拡大を支え、メソポタミア古代国家のひとつの成熟形を示しました。他方で、外圧(エラム人の侵攻)と内部の地方分権化、気候変動や塩害による生産力の不安定化が重なり、前2004年頃に崩壊へと向かいます。ウル第3王朝は、後続のバビロニアやアッシリアに継承される行政・法文化の基礎を提供し、古代西アジア史の重要な転換点をなす王朝です。
この王朝の意義は、単なる領土拡大ではなく、「書記官僚制と標準化」にあります。大量に残された楔形文字粘土板—配給表、労働日誌、家畜記録、税収・出納帳、裁判文書—は当時の社会経済を精緻に映し出し、古代経済史研究の宝庫となっています。ウル第3王朝の制度は、王が神の代理として都市神を奉じる宗教秩序と、神殿・王宮がおこなう再分配経済の枠組みの上に築かれました。そのため、王権の正当化、労働の動員、土地と水の管理、周辺部との関係が緊密に結びつき、メソポタミアに特有の「都市連邦的統合国家」を現出させたのです。
成立と展開—ウル=ナンムからイッビ=シンまで
ウル第3王朝の成立は、アッカド帝国の崩壊後、グティ人の支配を経て政治的空白が生じたメソポタミア南部で、ウルクのウートゥヘンガルが一時的に覇権を握り、その後継者的にウルの将帥ウル=ナンムが即位したことに始まります。彼はウルを王都と定め、ニップルの至高神エンリルの権威を取り込みつつ、諸都市に対する支配を正当化しました。治世の初期に法制を整え、運河・城壁・神殿の整備に着手し、度量衡の統一や税負担の規格化を進めました。彼の名を冠する「ウル=ナンム法典」は、現存する最古級の成文法として知られ、補償原理に基づく罰金規定や、弱者保護の理念を掲げました。
ウル=ナンムの後を継いだシュルギは、長期にわたる統治で王権の制度化を推し進めました。彼は自らを神格化し、宗教儀礼と王権を密接に結びつけ、巡幸や祭儀を通じて諸都市の統合を演出しました。軍事面では北方・東方への遠征を行い、ディヤラ川流域やエラムへの圧力を強め、交易路の掌握に努めました。行政面では、州(地方)と州都を中心に総督(エンシ)を配置し、王直属の監察官(シャッキナッティ)や徴税官を通じて中央集権化を図りました。大量の行政文書は、この時代の官僚機構が高度に機能していたことを物語ります。
第三代アマル=スエナ、第四代シュ・シンの治世には、外圧や内政課題への対応として城壁建設と要害整備が進みました。シュ・シンは「アムル人(西方セム系遊牧民)」の侵入に対抗するため、ときに「アモリ人の壁」と呼ばれる長城的防塁を築いたと伝えられます。こうした防衛政策は、遊牧—定住の境界が政治的緊張の焦点であったことを示します。
最後の王イッビ=シンの時代、王朝は干ばつや塩害の深刻化、穀物価格の高騰、徴発の過重化など、構造的な困難に直面しました。周辺の従属王や総督が離反し、東方のエラム勢力が台頭するなか、ウルは包囲され、前2004年頃、ウルは陥落します。イッビ=シンは捕縛され、王朝は滅亡しました。この崩壊は、環境要因と政治経済の過負荷が結びついた複合危機の典型例とされています。
統治・経済・社会—神殿王宮経済と標準化の力学
ウル第3王朝の統治は、宗教—行政—経済が一体化した体系でした。王は都市神の代理者として神殿を保護し、神殿経済は土地・家畜・工房・労働力を保有して生産と再分配を担いました。王宮は軍事・外交・大型公共事業の統括機関として機能し、双方の枢要部には書記官が配置されました。彼らは楔形文字で粘土板に詳細な記録を残し、物資の入出、工房の生産高、配給の割当、運河工事の労役動員、家畜の繁殖率まで数値化しました。
経済の特徴は、度量衡と会計単位の標準化にあります。穀物は「シラ」、銀は「シェケル」、体積・重量・面積の基準が王令で統一され、課税や配給はこれに基づいて計算されました。労働は「ギン(労働日)」単位で把握され、神殿・王宮は季節労働者や囚人、従属民を動員して、運河浚渫、堤防補修、城壁建設、ジッグラトの改修などの公共事業を遂行しました。配給経済は、パン・ビール・織物などの基本口糧・衣料を労働対価として分配する仕組みで、再分配経済の典型として注目されます。
社会構成は、貴族・神官・書記・兵士・工匠・農民・家畜管理人・奴隷(戦俘)など多様でしたが、法と会計の枠組みが身分横断的に作用し、日常行為を記録可能な取引に変換しました。婚姻契約や養子縁組、土地の賃貸、借金と抵当、訴訟の和解条項などが粘土板に残され、法秩序の下で私的経済が展開していたことがわかります。都市は、神殿を中心とした宗教空間と、工房・市場・倉庫の経済空間、城壁と門、運河と波止場の物流空間から成り、各々が書記の管理下で組織化されていました。
農業では、灌漑技術が国家の生命線でした。チグリス・ユーフラテス川と支流の水を分配する運河網の整備は、塩害を防ぎ収量を安定させるために不可欠で、王はしばしば運河の掘削・修復を王権の徳の証として記録しました。家畜では、羊・山羊・牛・ロバが重要で、とくに羊毛は織物産業の基盤として、工房での大量生産に結びつきました。織物は税や贈与の重要品であり、広域交易でも価値を持ちました。
宗教・法・文化—ジッグラトと法典、書記教育
宗教面で象徴的なのが、ウルの月神ナンナ(シン)を祀るジッグラトです。階段状の巨大基壇は、都市と神殿の威信を示すモニュメントであり、王の建設事業の頂点でした。ジッグラトは単なる宗教施設ではなく、倉庫・祭儀・行政の複合機能を持つ神殿複合体と結びつき、都市の中心を構成しました。王碑文は、神殿修復の記録と王徳の宣揚を兼ね、王が神々の命を受けて秩序を保つ「正義の具現者」であることを強調します。
法制では、ウル=ナンム法典が特筆されます。のちの「ハンムラビ法典」に比べれば条文は少ないものの、暴力・身体損傷・婚姻・奴隷・財産に関する規定が整い、刑罰の指針と賠償の水準を示しました。原則として「補償(罰金)による是正」を重視し、過剰報復を抑制する傾向がうかがえます。裁判は都市の長老や神殿関係者、王の代理人によって行われ、判決・証言・契約は粘土板に刻まれて保管されました。法典の存在は、王朝の統治理念と実務行政が文書によって結びついていたことを象徴します。
文化面では、書記教育の制度化が重要です。書記学校では、楔形文字の字形・音価・語彙、シュメール語とアッカド語の二言語運用、数学(度量衡・面積体積計算)、文学作品(賛歌・叙事詩)、ことわざ集などが教授されました。教育用の標準テキストが存在し、学習用粘土板には教師の手本と学生の臨書が並びます。こうした教育体系は、官僚制を支える人的基盤であると同時に、文学・宗教・歴史観の継承装置でもありました。賛歌や王の詩は、王権の神聖性を強調し、都市神と王の関係を言語化しました。
対外関係と崩壊—エラム、アムル人、環境の重圧
対外的には、東方のエラム(現在のイラン南西部)との緊張が続きました。エラムは時に従属し、時に独立勢力として台頭し、王朝末期にはウル攻撃の主力となりました。北西方面では、上メソポタミアの都市国家群やディヤラ流域の勢力との関係調整が求められ、交易路の保護と関所の管理が不可欠でした。西方からはアムル人の移動が継続し、境界地帯での紛争と労働力・兵士の流入という二面性をもたらしました。
崩壊要因としては、環境と経済の複合ストレスが挙げられます。長期的な灌漑は土壌の塩分集積を招き、収量低下が進むと、課税増と徴発の強化が必要になり、地方の反発と無力化を招きました。干ばつや気候揺らぎが重なると、穀価が急騰し、配給制度が逼迫します。財政の硬直化は軍事力の低下につながり、外圧に脆弱になりました。イッビ=シン期には、従属王の離反とエラム軍の侵攻が決定的となり、ウルの陥落で王朝の幕が下りました。
王朝滅亡後、メソポタミアは地方政権の併存期を経て、やがて古バビロニア(アムル人王朝)が台頭します。ウル第3王朝で整備された官僚的・法的伝統は、バビロニアの宮廷・神殿に吸収され、ハンムラビの法律や行政慣行に影響を与えました。また、地理的に離れたアッシリアも、書記実務や行政技法において、ウル第3王朝期の蓄積を参照しました。つまり、ウル第3王朝は滅んでも、その制度遺産はメソポタミア文明の「共通知」として生き続けたのです。
史料と研究—粘土板が語る日常と国家
ウル第3王朝の研究は、発掘と文書解読に大きく依存しています。ウル、ウルク、ニップル、タルビース、ギルス(古ラガシュ)などから出土した膨大な楔形文字粘土板は、経済台帳、配給表、裁判記録、手紙、宗教儀礼の指示書など多岐にわたり、行政機構の実像を生々しく伝えます。考古学は、ジッグラトや城壁、運河遺構、住居層の分析を通じて、都市計画と社会階層、消費のパターンを復元します。数理的な会計分析や社会ネットワーク分析を応用した研究も進み、官僚の人事異動や工房間の資源配分、地方と中央の物資フローが可視化されつつあります。
言語面では、シュメール語とアッカド語の併用が研究の鍵です。儀礼や文学はシュメール語、行政や外交はアッカド語という機能分担が見られ、二言語運用は書記教育の核心でした。法的文書の定型句、会計文書の数式、地名・人名学の分析は、政治地理と社会構造の理解を深めます。さらに、花粉・種子・同位体分析など環境考古学の成果は、灌漑農業の負荷、作物選択の変化、気候変動の影響を数量的に示し、崩壊の要因に科学的根拠を与えています。
こうした学際的研究の蓄積により、ウル第3王朝は単なる「中央集権の成功例」でも「硬直官僚制の失敗例」でもない、動的で複合的な政体として理解されるようになりました。王権の正当化、書記の実務、宗教儀礼の政治的機能、労働と配給の制度、交易と軍事の相互作用、環境ストレスへの対応など、諸要素の接点にこそ、この王朝の独自性が現れます。
総じて、ウル第3王朝は、都市国家の伝統を継ぎながら、それらを官僚制・標準化・記録主義で束ねた「メソポタミア的帝国」の完成形の一つでした。神殿と王宮の二重権力は、宗教的正統性と社会経済の実務を結び、書記と粘土板は国家運営を目に見える形で支えました。崩壊はその制度が抱える脆弱性を露わにしましたが、同時に、その遺産は後世の国家に受け継がれ、古代西アジアの歴史を貫く「記録にもとづく統治」の系譜を作り上げました。ウルのジッグラトが今日まで語り継がれるのは、石と泥の記憶だけでなく、制度と文書が残した長い影が、私たちの古代理解の基盤となっているからです。

