イギリス病 – 世界史用語集

「イギリス病(British disease/英国病)」とは、主として1960~70年代に顕在化したイギリスの経済・産業・労使関係・政策運営の総合的機能不全を示す言い回しです。低い生産性上昇率、慢性的な貿易赤字とポンドの不安、二桁インフレ、労働争議の頻発、国有部門の非効率、いわゆる“スト型ガバナンス”の蔓延など、複数の症状が同時進行で重なった状態を指します。政権交代のたびに「脱・英国病」がスローガン化し、1976年のIMF支援、1978~79年の「不満の冬」を経て、1980年代のサッチャー改革が「英国病克服」の代名詞となりました。ただし、現象は単純な自堕落や文化論では説明できず、帝国後の構造調整、世界景気の変動、制度設計の継ぎはぎ、政策の時間軸の不整合が絡み合って生じた長期的課題でした。

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定義と時代範囲:何が「病」と呼ばれたのか

イギリス病という俗称は、特定の一件ではなく、複数のマクロ・ミクロ指標の組合せに付けられた総称です。代表的には、(1)戦後西欧の中で相対的に低い生産性成長と投資率、(2)賃金上昇が生産性を上回る「コスト・プッシュ」型インフレ、(3)輸出競争力の低下による恒常的国際収支の脆弱性、(4)賃金・雇用・労働時間をめぐる労使紛争とストの多発、(5)「止めたり進めたり(Stop-Go)」と形容された景気運営の反復ブレーキ、(6)国有企業・規制産業の低効率、(7)政治の合意形成の遅さ、などが挙げられます。時代範囲は1950年代末から80年代初頭にかけてが中核で、とりわけ1967年のポンド切り下げ、1973年の第一次石油危機、1976年のIMF危機、1978~79年の賃金抑制破綻と公共部門ストが象徴的節目です。

他方、用語は歴史教科書や経済記事のレトリックとしても使われ、19世紀の「相対的停滞」や、近年では生産性伸び悩みや地域格差を指して比喩的に再登場することがあります。本稿では狭義に、1960~70年代を中心とした戦後の構造的停滞を主対象として整理します。

背景と原因:構造・制度・政策の絡み合い

第一に、産業構造の時代遅れです。英国は世界初の工業化の後発性利益を持ちながら、20世紀半ばには鉄鋼・造船・石炭・繊維など重厚長大型・伝統産業の比重が依然として高く、資本装備と設備更新が遅れました。小規模で分散した工場群、老朽資産の維持、水平的カルテルや慣行の温存が新陳代謝を鈍らせ、研究開発投資や品質管理の体系化で独・仏に見劣りしました。

第二に、帝国後遺症と市場選択の遅延です。スターリング・エリアや英連邦向けの保護的市場に依存した戦後初期の輸出構造は、欧州大陸の関税同盟化・技術革新とともに相対競争力を失い、EEC(欧州共同体)加盟の遅れ(1973年ようやく加盟)が市場統合の果実を得るタイミングを後ろ倒しにしました。旧帝国向けの慣性が、品種転換・品質革新・サプライチェーン刷新のインセンティブを弱めた側面があります。

第三に、マクロ経済運営の「止めたり進めたり(Stop-Go)」です。外貨準備とポンド相場を守るための引き締め→景気失速→失業政治圧力→拡張→再び外圧、という短周期の政策反転が繰り返され、長期投資の見通しと信認を損ないました。1967年にはポンドが1ポンド=2.80ドルから2.40ドルへと切り下げられ、通貨の威信低下がさらなる物価圧力を招きます。賃金・物価・為替の三角形は、国際競争力の改善を難しくしました。

第四に、労使関係の制度疲労です。イギリスの労組は産業別よりも職能別に分かれ、工場内の細分化された交渉単位(ショップ・ステュワード制)を通じて現場レベルの停止が頻発しました。賃金決定は全社的・産業横断的な調整と現場の現物妥協が混在し、全体最適より「最も声の大きい集団」に引きずられやすい構図でした。政府は「所得政策(賃金ガイドライン)」でインフレと賃金スパイラルの抑制を試みますが、強制的担保が乏しく、政治的反発も大きかったため、遵守は脆弱でした。

第五に、福祉国家と財政制約です。戦後の国民保健サービス(NHS)と社会保障は、生活安定と人的資本の基盤を整えた一方、潜在成長率を超える賃金・物価圧力の局面では、税・借入・マネーの組合せで賄う必要に迫られ、財政規律と景気安定化のジレンマが深まりました。国有企業は雇用緩衝としても機能したため、赤字補填と投資停滞が同時に進む「硬直化」が生じます。

第六に、外生ショックです。1973年の第一次石油危機、1979年の第二次石油危機は、輸入価格の上昇と賃金交渉の強化を通じて「スタグフレーション」をもたらしました。北海油田の開発は80年代以降の緩衝材となりますが、70年代の混乱期にはまだ効果が限定的でした。

症状と主要局面:デフレ・インフレの揺れ、通貨危機、スト多発

1960年代のウィルソン政権期、技術・産業政策(省庁の新設や合併促進)と「賃金節度」を組み合わせた調整が試みられましたが、外貨不足と輸入物価上昇が綱渡りを強い、1967年のポンド切り下げに至ります。その後も賃金と物価のせめぎ合いは続き、1970年代初頭のヒース政権は所得政策の法的枠づけ(賃金上限)に踏み込み、1972年・1974年の炭鉱夫ストに直面しました。

1973年の石油危機は、エネルギー節約のための「スリーデー・ウィーク(週3日操業)」という異常事態をもたらし、電力供給制限と生産縮小が実体経済を直撃しました。1974年の総選挙では「誰が統治するのか(Who governs?)」が争点化し、保守党は政権を失います。労働党政権は労組との「ソーシャル・コントラクト(社会的合意)」で賃金抑制と政策協調を図りますが、景気後退と物価上昇が同時進行する中で合意は崩れがちでした。

1976年、ポンド安と外貨流出が加速し、政府は国際通貨基金(IMF)に大型支援を要請します。緊縮と財政規模の見直しが条件となり、公共支出の削減と通貨防衛が優先されました。短期的にはインフレ圧力が和らぐ一方、失業の上昇と投資の低迷が続き、政治的疲弊が深まります。

1978~79年には公共部門の賃金抑制に対する反発が広がり、「不満の冬(Winter of Discontent)」と呼ばれる波状ストが発生しました。ごみ収集や病院、交通など生活インフラが麻痺し、政府の統治能力への不信が高まります。1979年の総選挙を経てサッチャー政権が発足し、以後は「英国病の根治」を掲げる構造改革が前面に出ます。

対応と転換:所得政策から制度改革へ—効果と後遺症

サッチャー政権は、(1)金融引締めとマネー供給管理を柱にインフレを抑制し、(2)国有企業の民営化と競争導入、(3)労働組合法の改正(事前投票の義務化、セカンダリーピケの制限、閉鎖ショップの是正など)で交渉単位と争議手段を再設計し、(4)税制の見直しと市場参入規制の緩和、(5)金融市場の自由化(1986年の「ビッグバン」)を断行しました。これに北海油田収入が追い風として加わり、1980年代半ばにはインフレが沈静化し、為替・財政の安定が回復、ロンドンの金融サービスが国際競争力を高めます。

他方、産業転換のコストは高く、石炭・鉄鋼・造船などの地域産業は急速に縮小し、失業と地域格差が拡大しました。1984~85年の炭鉱夫大ストは、労使関係の力学を大きく塗り替えつつ、共同体の亀裂を深めました。経済全体としては、製造からサービス(とくに金融)へのシフトが進み、「英国病」は鎮静化したものの、「金融化」と地域の空洞化という新たな課題が露呈します。

1990年代以降、為替相場や財政ルールの見直し、独立的金融政策(イングランド銀行の目標型運営)などが制度に組み込まれ、マクロの安定性は向上しました。EU単一市場の深化は製造・サービス双方の生産性向上を促しましたが、2008年以降は金融危機と生産性停滞(いわゆる「生産性パズル」)が課題となり、用語としての「イギリス病」が比喩的に再浮上する文脈も見られます。ただし、これは1970年代型のインフレと労使紛争の複合体とは性格が異なります。

総じて言えば、イギリス病は「怠慢」や「文化」では説明できない、制度・構造・外生ショックの相互作用の結果でした。賃金形成や交渉制度がマクロの制約(通貨・外貨・物価)と衝突し、短期政治のインセンティブが長期投資と不整合を起こしたとき、経済は「止めたり進めたり」に陥ります。1970年代の経験は、通貨・財政・労使・産業の政策領域を個別にではなく体系として設計する必要を示した、と要約できます。

用語上の注意と史料の見方:数字・地域差・長期比較

第一に、イギリス病は西欧の中での「相対的停滞」を指す用語です。実質賃金や教育・医療の水準そのものは高かった一方で、主要ライバル(西独・仏・北欧)との比較での遅れが強調されました。第二に、地域差が大きいことに留意が必要です。南東部のサービス・ハイテクは相対的に強く、北部・スコットランド・ウェールズの旧産業地帯の停滞が平均値を押し下げました。第三に、争議日数やインフレ率などの統計は年ごとの振れが大きく、単年の極値のみで全体像を語らない慎重さが求められます。第四に、1970年代の「病理」を治した政策の副作用—地域格差や技能形成の遅れ—も、長期の課題として並行して検討されるべきです。