十二イマーム派 – 世界史用語集

十二イマーム派(じゅうにイマームは)とは、イスラーム教シーア派の中でも最大の宗派で、「アリーとその子孫に連なる十二人のイマーム(指導者)こそが、ムハンマドの真の後継者である」と信じる立場を指します。現在のイランやイラク、アゼルバイジャン、バーレーンなどで多数派を占めるほか、レバノンやシリア、パキスタンやインド、ペルシャ湾岸諸国などにも広く信徒がいます。世界のシーア派ムスリムの大部分は、この十二イマーム派に属していると考えられます。

十二イマーム派の信仰の中心には、「イマーム」という特別な指導者像があります。預言者ムハンマドの死後、共同体の指導者を誰が継ぐべきかをめぐって、イスラーム共同体はスンナ派とシーア派に分かれましたが、十二イマーム派は「血縁と霊的な資質を備えたアリーとその子孫こそ、神が選んだ正統な指導者である」と考えます。歴代十二人のイマームは、信仰と法、神秘的な知恵において誤りのない存在とされ、最後の第十二イマームは「隠れたまま」終末の時に再臨すると信じられています。この「隠れイマーム」と「マフディー(導かれた者)」の思想が、十二イマーム派の世界観を大きく特徴づけています。

世界史の学習では、十二イマーム派はとくにサファヴィー朝がイランの国教として採用したことや、現代イラン・イラクの宗教・政治と深く関わる存在として登場します。一見すると難しそうな宗派名ですが、「アリーの系譜に連なる十二人のイマーム」「最後のイマームの隠れと再臨」「イランを中心とするシーア派世界」といったキーワードを押さえておくと、全体像が理解しやすくなります。

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十二イマーム派とは何か:シーア派最大宗派としての位置づけ

十二イマーム派を理解するためには、まずイスラーム世界におけるスンナ派とシーア派の違いから整理する必要があります。預言者ムハンマドの死後、その後継者(共同体の指導者)をめぐって意見が分かれ、共同体多数の合意で選ばれたカリフを正統とみなすのがスンナ派、一方で、預言者の従弟であり娘婿でもあるアリーとその子孫こそが本来の後継者だと主張した人びとがシーア派(「アリーの党」という意味)です。

シーア派の内部にもいくつかの流派がありますが、その中で最も大きなものが十二イマーム派です。十二イマーム派は、アリーを第一イマームとして、その後を継いだアリーの子孫を含む十二人を「イマーム」と呼び、彼らだけがムハンマドの真の後継者として霊的・政治的権威を持つと考えます。ここで言う「イマーム」は、単なる礼拝の先導者という意味をはるかに超え、「神の真意をもっともよく理解し、誤りのない形で人びとに伝える存在」として位置づけられます。

十二イマーム派は、アラブ世界だけでなく、イラン・イラクなどのペルシア系地域に強く根を下ろしてきました。とくに16世紀以降、サファヴィー朝がイランの国教として十二イマーム派シーア派を採用したことにより、イランは「シーア派国家」としての性格を強め、周辺のスンナ派諸国(オスマン帝国など)と対比される存在となります。現在もイラン・イラクの政治や宗教指導者層の多くは十二イマーム派に属しており、中東政治を理解するうえで欠かせない要素となっています。

数の上で見ると、世界のムスリムの約8〜15%ほどがシーア派とされ、その中で多数が十二イマーム派です。イラン、イラク、アゼルバイジャン、バーレーンでは人口の過半数が十二イマーム派であり、レバノンやシリア、サウジアラビア東部、パキスタンの一部などにも大きなコミュニティがあります。このように、十二イマーム派はイスラーム世界の中で少数派ながら、一つの大きな宗教文化圏を形成していると言えます。

イマーム観と十二人の歴代イマーム

十二イマーム派の核心は、「イマーム」という存在への特別な理解にあります。スンナ派では、カリフや支配者はあくまで「共同体の統治者」であり、宗教的にはウラマー(学者)が解釈を担うという構図が一般的です。これに対して、十二イマーム派は、特定の血統に属するイマームを、宗教と政治の両面で特別な権威を持つ存在とみなします。

十二イマーム派が正統と認めるイマームは、次のような系譜を辿ります。第一イマームがアリー、第二イマームがその子のハサン、第三イマームがハサンの弟フサインです。とくにフサインは、ウマイヤ朝に対する反乱を試み、カルバラーの戦い(680年)で少数の支持者とともに討ち死にしたことで知られます。この悲劇は、シーア派にとって「殉教」と「不正義への抵抗」の象徴となり、今日に至るまでアーシューラーの儀礼として追憶され続けています。

その後も、フサインの子孫を中心にイマームが受け継がれます。第四イマーム・アリー=ザイヌル=アービディーン、第五イマーム・ムハンマド=バーキル、第六イマーム・ジャアファル=サーディク、第七イマーム・ムーサー=カーズィム、第八イマーム・アリー=リダー、第九イマーム・ムハンマド=ジャワード、第十イマーム・アリー=ハーディー、第十一イマーム・ハサン=アスカリー、そして最後が第十二イマーム・ムハンマド(通称「ムハンマド・マフディー」)です。

これらのイマームは、歴史的にはしばしば政治的には辺境に追いやられ、ウマイヤ朝やアッバース朝など支配政権の監視下に置かれていました。直接的な政治権力を握ることは少なかったものの、信徒の間では、彼らがイスラーム法の真の解釈者であり、神秘的な知恵を備えた指導者であると信じられました。イマームたちの言行は「ハディース(伝承)」として集められ、十二イマーム派独自の法学・神学の基礎資料となります。

十二イマーム派にとって重要なのは、イマームが単なる「歴史上の偉人」ではなく、「神が選び、誤りから守られた存在(マアスーム)」であるとされる点です。彼らの判断や教えは、原則として誤りがないと考えられ、信徒はそこに従うことで正しい信仰と実践を保てると理解されます。この考え方は、のちの理論家たちによってさまざまに解釈されますが、「イマームを通じて神の導きが歴史を貫いている」という信頼感が、十二イマーム派の精神的な支えとなっています。

マフディーとガイバ:隠れイマームの思想

十二イマーム派を特徴づけるもう一つの大きな要素が、「ガイバ(隠れ)」と「マフディー」の思想です。第十二イマーム・ムハンマドは、幼少のころからアッバース朝の厳しい監視下に置かれ、877年ごろに父ハサン=アスカリーの死後、まもなく姿を消したと伝えられます。十二イマーム派の伝統では、彼は殺されたのではなく、「神の意志によって人々の目から隠された」とされ、この状態をガイバ(隠遁・隠れ)と呼びます。

ガイバの教説では、第十二イマームは一時的・限定的に代理人を通じて信徒と連絡を取った「小ガイバ」の時期を経た後、完全に姿を隠す「大ガイバ」の時期に入ったとされます。大ガイバの期間中、人間の誰一人として直接イマームと接触することはできませんが、それでも彼は生きており、世界を見守り続けていると信じられます。そして、終末の時が近づくと「マフディー(導かれた者)」として再臨し、不正義に満ちた世界を正義で満たすとされます。

この「隠れイマーム」と「マフディー」の思想は、十二イマーム派の歴史観・世界観に深く浸透しています。一見すると不遇で弱い立場に立たされたシーア派の歴史も、「隠れた正統な指導者が必ず最後に正義を回復する」という希望によって支えられてきたと理解することができます。カルバラーの悲劇と、隠れイマームの再臨への期待が結びつくことで、「抑圧への忍耐」と「不正義への抵抗」が、宗教的な意味を持つようになりました。

しかし、現実の生活や政治のレベルでは、「イマームが隠れているあいだ、誰が共同体を導くのか」という問題が生じます。十二イマーム派は、この問題に対して「法学者(ウラマー)がイマームの代理として宗教法の解釈と共同体の指導にあたる」という仕組みを発展させました。とくに近世以降、イランやイラクなどの十二イマーム派社会では、高度な学識を持つウラマーが、信徒にとっての権威と相談相手となり、宗教法・社会問題・政治に関して重要な影響力を持つようになります。

ウラマーの中でも、とくに高い権威を持つ法学者は「マルジャ・タクリード(模倣の源泉)」と呼ばれ、信徒は自らの宗教実践について、このマルジャの見解に従う(タクリードする)ことが奨励されます。こうして、「隠れイマーム」と「ウラマーの指導」が組み合わさることで、十二イマーム派の共同体は歴史を通じて存続してきました。現代イランのイスラーム共和国で見られる「法学者の統治(ヴェラーヤト・エ・ファキーフ)」という考え方も、この長い伝統の上に築かれています。

歴史的展開:サファヴィー朝から現代の十二イマーム派世界へ

十二イマーム派が、イスラーム世界の中で大きな政治的・地理的存在感を持つようになったのは、16世紀にイランで成立したサファヴィー朝の時代です。サファヴィー朝の王イスマーイール1世は、もともとスーフィー教団の指導者でしたが、政治権力を握るとイラン全域にわたって十二イマーム派シーア派を国教として広めました。それまでイラン地域ではスンナ派が主流でしたが、サファヴィー朝の政策によって、次第に住民の大部分が十二イマーム派に改宗していきます。

この結果、イランはイスラーム世界のなかで「シーア派国家」としての性格を強め、スンナ派のオスマン帝国やウズベク勢力と対立する構図が形成されました。宗派の違いは、単なる教義上の差異を超えて、国家間の対立や地域アイデンティティの要素ともなります。サファヴィー朝期には、多くのシーア派学者がイランに招かれ、神学・法学・哲学の研究が発展しました。聖地としてのナジャフやカルバラー(現在のイラク)、マシュハド(イラン)の重要性も高まり、巡礼や宗教教育の中心地として機能するようになります。

近世以降、十二イマーム派の信仰は、アラブ・ペルシア・トルコ・インドなどの境界を越えて広がり、インド亜大陸ではムガル帝国やデカン地方の一部政権にも受け入れられました。インドやパキスタン、アフガニスタンには、現在も十二イマーム派の共同体が存在し、とくにアーシュラーの行列やフサインの殉教を悼む儀礼が広く行われています。

20世紀に入ると、十二イマーム派の宗教指導者と政治の関係は新たな局面を迎えます。イランでは、立憲革命(1905〜11年)の過程で、ウラマーの一部が議会制政治や立憲主義を支持し、専制的な王権に対して批判的な役割を果たしました。第二次世界大戦後には、石油国有化運動などで宗教勢力と世俗政治勢力が複雑に絡み合い、1979年のイラン革命に至ります。

イラン革命では、ホメイニー師を中心とする十二イマーム派ウラマーが指導的役割を担い、王制(パフラヴィー朝)を打倒して「イスラーム共和国」を樹立しました。この体制では、「隠れイマームの代理」として、最高指導者(法学者)が国家の最高権威を持つ仕組みが採用されました。これは伝統的なシーア派法学の発展形であり、十二イマーム派の教義が直接国家体制に反映された例として、世界史でも重要視されています。

イラクでは、ナジャフやカルバラーといったシーア派の聖地を中心に、古くから十二イマーム派の宗教教育と巡礼の文化が続いてきました。サッダーム・フセイン政権時代には、シーア派はしばしば政治的抑圧を受けましたが、2003年以降の体制変化のなかで、シーア派政党や宗教指導者が大きな政治的影響力を持つようになっています。レバノンでも、十二イマーム派を信仰基盤とする組織が政治・軍事面で重要な役割を果たしており、中東の宗派間関係や地域紛争を語るうえで、十二イマーム派シーア派の存在は欠かせません。

このように、十二イマーム派は、単なる宗教教義の一形態にとどまらず、地域社会や国家、国際政治と深く関わる「宗教文化圏」として展開してきました。世界史で十二イマーム派にふれるときには、「アリーと十二イマームへの敬意」「隠れイマームとマフディーへの信仰」「ウラマーによる指導」という思想的な中核とともに、サファヴィー朝イラン以来の歴史的展開、現代イラン・イラクなどにおける社会・政治との結びつきをあわせて意識しておくと、理解がぐっと立体的になります。