五胡(ごこ)とは、中国の魏晋南北朝期、とくに西晋末から十六国時代(4世紀前半)にかけて、華北で大きな政治・軍事的役割を果たした五つの周辺諸族を指す総称です。一般には匈奴(きょうど)・鮮卑(せんぴ)・羯(けつ)・氐(てい)・羌(きょう)の五族を指し、彼らは遊牧・半農牧・山地民など多様な生活基盤と文化を持ちながら、漢人(かんじん)社会と長期にわたって接触・交流し、ときに対立し、ときに同盟・混住してきました。3世紀末の八王の乱と西晋の崩壊を契機に、華北では五胡を含む諸勢力が相次いで王朝・政権を樹立し(いわゆる十六国)、中国史の地域分裂と民族的多元化が一気に表面化します。五胡は「乱」の記憶と結びつけて語られることが多いですが、実像はより複雑で、軍事・統治技術の導入、都市経済や交易の活性化、言語・風俗・宗教の往還を通じて、のちの北朝(北魏・北斉・北周)や隋唐帝国の形成に深い影響を残しました。本項では、(1)五胡の範囲と基礎情報、(2)形成・移動・混住の歴史背景、(3)西晋崩壊から十六国の展開、(4)文化変容と後世への影響、という流れで、誤解を避けながら分かりやすく整理します。
概念と構成:五つの名とその広がり
五胡という呼称は、後世の歴史叙述で定着した便宜的な総称で、同時代の人びとが常に五族を固定的に一括して認識していたわけではありません。ここでの五族は次のとおりです。
匈奴:前漢以来、北方草原を基盤とした騎馬・遊牧の大勢力です。漢代には南匈奴が内属化し、辺境防衛や交易に組み込まれ、魏晋期には華北各地に移住・駐屯する集団が存在しました。西晋崩壊後、劉淵・劉聡らの系統が漢(前趙)を樹立し、洛陽・長安を攻略したことで華北の政局を大きく動かします。
鮮卑:遼西・内モンゴル・陰山—大興安嶺方面を活動圏とした諸部族の総称で、3~4世紀にかけて勢力を拡大しました。拓跋部・宇文部・慕容部などが著名で、慕容部は前燕・後燕を、拓跋部は北魏を建て、のちの北朝の主軸となります。遊牧と定住を併せ持ち、騎射戦に強みを持ちながら、漢地の官制・律令の摂取に積極的でした。
羯:出自については学説が分かれ、匈奴系の一支や中央アジア系の交流集団とする見解などがあります。4世紀前半、石勒・石虎らが指導した後趙の中核となり、華北の広域を支配しました。商人ネットワークや傭兵集団を束ね、急速な登用と軍事機動力で台頭した点が特徴です。
氐:関中—巴蜀—涼州方面の山地・丘陵部に居住した半農牧の集団です。3世紀末以降、李特・李雄が成都に成(成漢)を樹立し、のちには苻健・苻堅の前秦が関中を中心に強国化します。農耕基盤と山地機動力を併せ持ち、漢地の行政・文化を取り入れて統治の安定化を図りました。
羌:甘粛・青海—河西—陝西方面に広く分布した多様な牧畜・山地民の総称です。前秦・後秦・夏など多くの政権で重要な戦力・住民となり、ときに自立・叛服を繰り返しました。移動と交易に長じ、関中・河西の交通を抑える場合が多かったため、政局に大きな影響を与えました。
これらの諸族はいずれも内部に多くの部族・氏族を抱え、時期・地域ごとに分裂・同盟・移動を繰り返しました。「五胡」はあくまで代表的な指標であり、匈奴や鮮卑と行動をともにした烏桓・丁零・羯以外の西域系諸集団、さらには漢人地方勢力も、この時期の政治変動に不可欠の役割を果たしています。
形成・移動・混住の背景:国境と内地が交わる環
五胡が歴史の前景に躍り出る背景には、長期にわたる接触と交流の積層があります。漢代以降、北辺の守備や互市・朝貢を通じて、周辺諸族は漢地の市場・都市・技術・官制に継続的に触れてきました。前漢の和親や屯田、後漢の郡県設置と羈縻(きび)体制、曹魏の部落移徙と都督統制など、〈統治の枠組み〉に周辺諸族が組み込まれる経験が蓄積します。内属化した集団は、関中・洛陽周辺・并州・涼州・幽州などに分住し、軍戸・辺戸・部曲として編成され、農耕・牧畜・交易を両立させました。
3世紀末、西晋は皇族間の内戦(八王の乱)で統治能力を大きく損ない、徴兵・徴糧体制が崩れ、地方軍閥が割拠します。災害や飢饉、戸籍の動揺、課税逃れと移住の連鎖が社会を不安定にし、内地に分住していた周辺諸族も生活の糧と安全保障を求めて自立化の方向へ傾きました。加えて、晋朝の戸籍整理(「土断」など)や軍団再編が、既存の居住・権益を脅かすと受け取られたことも、蜂起・離反の誘因になりました。
この時期の移動と混住は、一方向ではありません。漢人の衣冠南渡(人口・技術・文化の長江以南への移動)が起きる一方、華北では多民族の都市社会が拡大し、交易と傭兵化が進みました。遊牧的騎射、山地の軽装歩兵、漢式の工兵・攻城術、屯田・倉廩・運河の管理など、〈軍事と行政の知〉が交錯し、新たな統治の実験が繰り広げられます。仏教の僧伽・石窟や胡商のネットワーク、サカ・ソグドの商人文化は、シルクロードと内地をつなぎ、言語・信仰・美術の往還を加速させました。
西晋崩壊から十六国へ:諸政権の興亡と秩序の模索
304年ごろから、匈奴系の劉淵が平陽で漢(前趙)を称し、のちの劉聡期には洛陽(311年)、長安(316年)が相次いで陥落しました。これにより西晋は実質的に崩壊し、江南へ逃れた司馬睿が建康で東晋を立てて〈南北分立〉が始まります。華北では、匈奴・羯・鮮卑・氐・羌などの諸勢力が、漢(前趙)—後趙—前燕/後燕—前涼/後涼—前秦—後秦—夏—北涼—南涼—西涼など、短命から中寿命まで多様な政権を樹立し、都市・関中・河洛・河北・河西といった要地をめぐって盛衰を繰り返しました。
後趙(羯の石勒・石虎)は、商賈と傭兵を動員する機動力と、苛烈ながらも実務的な統治で華北の大半を制圧しました。石虎の治下では長安・邯鄲・鄴などの大都市が整備され、宮殿・仏教施設・運河・苑囿が建設されますが、後継争いと圧政で瓦解します。
前秦(氐の苻堅)は、関中を基盤に法制・官制の整備と漢文化の積極採用を進め、苻堅自身も儒・仏に通じた名君として評価されます。383年、江南の東晋に対する南征(淝水の戦い)で大敗し、広域支配は崩れますが、統一に迫った経験は、〈多民族・多地域の統治〉の可能性と難しさを同時に示しました。
鮮卑系では、慕容氏が遼西・河北に前燕・後燕を立て、拓跋氏は雲中—平城(晋陽・大同)を基盤に勢力を伸ばし、5世紀初頭に北魏として華北を再統合します。北魏の孝文帝期(5世紀後半)には洛陽への遷都、姓氏・服制・言語の漢風化、律令の整備、均田制・三長制などの制度改革が進み、北朝国家の骨格が固まります。これは、五胡を含む多様な出自の人びとが、〈漢地の制度〉を再設計して新たな帝国秩序へと昇華させた劇的な局面でした。
一方、江南の東晋—南朝は、流民の受け入れ、軍事的な北伐・防衛、江南の開発・水利・市民文化の繁栄を通じて、もう一つの中国世界を形成しました。南北の〈相互牽制〉と〈文化交流〉は、最終的に隋唐による再統合へ道をつけます。
文化変容・統治技術・後世への影響:混淆から新しい中国へ
五胡とその時代の最大の特徴は、〈混淆(こんこう)〉によって新しい制度と文化が生まれたことです。いくつかの側面を挙げます。
軍事と社会:騎馬弓騎兵・山地機動戦・傭兵制の組み合わせは、晋代以前の重装歩兵中心の戦法に変化をもたらし、都城間の長距離機動・迅速な包囲・追撃が常態化しました。退役兵・部曲・部落の再定住と屯田が進み、軍戸・民戸・客戸の区分、戸調・租庸調の再編など、〈軍事—社会—財政〉の連結が強化されます。
法と行政:前秦・北魏などでは、法制の整備と官制の標準化が推し進められました。北魏の均田制と三長制は、土地と戸籍に基づく課税・兵役・治安の三位一体管理を試み、のちの隋唐律令体制の基層となります。多民族の共住を前提とした法秩序は、〈出自を越えた戸籍と身分〉の統合へ向かいました。
文化・宗教:仏教は、胡僧・インド僧・漢僧の往来と王権の庇護を受け、華北の石窟(雲岡・龍門など)、大寺院、経典翻訳のネットワークを広げました。胡商の美術趣味、ソグド系の楽舞、胡服や騎射の普及、漢文化の礼制・法制の受容が交差し、胡漢の二項対立では捉えきれない新しい都市文化が醸成されます。鮮卑の姓氏漢風化(拓跋→元など)は、政治統合と文化融合の象徴的な出来事でした。
言語・人の移動:多言語環境が生まれ、通訳・書記・商人・僧侶が社会を横断しました。婚姻・養子・臣籍降下を通じてエリート層は相互に混淆し、姓氏・氏族譜が再編成されます。南北間の移住は、稲作・手工業・書画・音楽・学芸の伝播をもたらし、地域間の文化差も新たなバランスに向かいます。
後世への影響としては、第一に、〈北朝—隋唐国家の形成〉における制度継承が挙げられます。均田制・府兵制(後代)・三省六部の前史・軍事と戸籍の結合は、この時代の経験を通じて鍛えられました。第二に、〈中国=多民族帝国〉という持続的な前提が可視化されます。五胡・漢人・西域・南方の多様な集団が政治と社会の担い手となり、文化的アイデンティティは固定ではなく歴史的に構成されるものだという理解が広がりました。第三に、「乱華」という言葉に象徴される否定的記憶の見直しです。暴力と破壊の側面は確かに存在しましたが、同時に新制度・新文化の胚胎期でもあったことを、史料の再検討と考古学・歴史言語学の成果が示しつつあります。
まとめとして、五胡は単なる外来勢力の〈侵入〉ではなく、長期にわたる接触・混住・相互学習の帰結として、華北に新しい政治社会をつくり出した当事者でした。乱の記憶の背後には、交易と移住、宗教と法、軍事と財政の実務が折り重なっています。五胡を理解することは、中国史を〈単一民族の連続〉としてではなく、複数の人びとが関わり合うダイナミックな過程として読み直すことにつながります。その視点に立つと、魏晋南北朝という一見断絶の時代が、むしろ「隋唐の成熟」に向けた創造的な準備期であったことが、より鮮明に見えてきます。

