ウルグ・ベクは、ティムール朝の王族でありながら、サマルカンドに巨大な天文台と高等教育機関を築き、15世紀前半のイスラーム世界で屈指の天文学・数学研究を主導した「学者君主」です。彼の統治は軍事的拡張よりも学術振興に重心があり、レギスタン広場のマドラサ建設、観測機器の整備、広域から学者を招聘するなど、都市サマルカンドを知の中心地へと変貌させました。彼の命によって作られた恒星表や暦法は、後世のオスマン帝国やムガル帝国、さらにはヨーロッパにも影響を与えました。政治闘争に敗れて短い生涯を閉じますが、その残した観測値と教育制度は、近世ユーラシアの科学文化に長い影を落とし続けます。
「征服のカリスマ」で知られる祖父ティムールのイメージに比べ、ウルグ・ベクの関心は学芸・都市・制度の整備にありました。レギスタンのマドラサやブハラの教育施設、そして巨大な壁面象限儀を備えた天文台は、当時の世界でも突出した規模と精度を誇りました。彼の周囲には、カーディーザーデ・ルーミー、ジャムシード・アル=カーシー、アリー・クシュジーといった一流学者が集い、観測と計算、理論と教材整備が体系的に進められました。こうした営みは、王権の威信を「征服」ではなく「知」の形式で示した稀有な事例として注目されます。
出自・時代背景とサマルカンド統治
ウルグ・ベク(1394–1449)は、ティムールの孫で、父はティムールの後継政権を担ったシャー・ルフです。ティムールの死後、帝国は広大な領域を抱えつつも内的な調整が必要となり、東方ではヘラート(現在のアフガニスタン西部)が政治文化の中心として再編されました。若きウルグ・ベクはトランスオクサニア(マーワラーアンナフル)の統治を任され、首都サマルカンドの振興に注力しました。彼の時代、陸上の交易路は依然として重要で、ペルシア語文化圏、テュルク系遊牧勢力、中国世界、ロシア草原など、多方向から人・物・情報が流れ込み、サマルカンドはそれらを受け止める「結節点」として繁栄しました。
彼の統治スタイルは、武功よりも都市の秩序と学術・宗教施設の整備に重きを置く点に特徴があります。レギスタン広場には壮麗なマドラサを建て、幾何学文様とクーフィー書体のタイル装飾で学知の権威を可視化しました。ブハラにも同様の施設を造営し、地域の教育ネットワークを強化しました。マドラサは単なる宗教学校ではなく、数学、天文学、哲学、文法などの諸学を教授し、王権の庇護の下で学派と教材が整えられました。こうして、サマルカンドは学問の都市としてのアイデンティティを確立します。
天文学事業—天文台・観測機器・恒星表
ウルグ・ベクの名を世界史に刻んだ最大の理由は、サマルカンドに建設された天文台とその観測成果です。15世紀前半に完成したこの施設は、石造の巨大な壁面象限儀(メリディアンサーク)を地下に半ば埋設する独創的な構造を持ち、長大な半径により角度計測の分解能を高めました。大径の固定式観測器は、天体の通過高度や赤緯の測定に極めて有利で、季節ごとの気象や昼夜の条件に左右されにくい安定した観測を可能にしました。併設の観測室や図書館、作業棟では、観測記録の整理、表計算、暦算のための数学的作業が日々行われました。
この天文台の運営には、各地から集められた学者たちが中心的な役割を果たしました。アナトリア出身のカーディーザーデ・ルーミーは理論天文学と数学の権威で、観測値の理論的補正や教材編纂に寄与しました。イランの数学者ジャムシード・アル=カーシーは、高精度の円周率計算や、位取り小数の運用、正多角形の近似法などで知られ、観測データの数値処理を担いました。若い学者アリー・クシュジーは、のちにティムール朝の動乱を避けてティムール系の他地域やオスマン帝国に活躍の場を移し、サマルカンドで蓄積された知識を広域へ伝える橋渡し役となります。
ウルグ・ベクの命によって編纂された天文暦書(一般に『ズィージュ・イ・スルターニー』として知られます)は、当時として最高水準の星表と暦算法を備えました。収録された恒星の数は約一千に達し、位置データの精度は先行のプトレマイオス系星表を上回る水準に迫りました。歳差運動や黄道傾斜角、恒星年の長さなど、基礎定数の見積りもきわめて精密で、現代値と比較しても驚くほど小さな誤差に収まっています。これらは巨大観測器による累積観測と、反復計算に耐える計算法の組合せがもたらした成果でした。
星表は観測だけでなく、航海・占星・暦法・宗教行事の調整など、当時の社会実用とも密接に関わりました。ラマダーン月の始まりを確定する新月観測の補助、祈りの方向や時刻の計算、農業や課税の季節運用など、天文学は行政・宗教・経済の諸領域を支える公共知でした。王がその整備を主導することは、王権が天と時間の秩序を掌握する象徴行為でもありました。
教育制度と〈知の都〉—マドラサ、書物、学派
ウルグ・ベクは、観測施設の整備と並行して、人材養成とテキスト編纂の制度化を進めました。レギスタンのマドラサは、講義・注釈・演習の三層構造を持ち、基礎科目から高等科目まで段階的に学べるカリキュラムを備えました。数学ではユークリッド幾何学と代数学、三角法、天文学では観測実習と暦算、哲学・神学では論理学と神学的議論、文法ではアラビア語とペルシア語の作文・修辞が教授されました。学位に相当する教授許可(イジャーザ)の付与や、学派ごとの教科書・注釈書の整備は、学問共同体を持続させる仕組みとして機能しました。
書物の流通も重視されました。観測成果は表や図をふんだんに含む文献として編集され、写本工房で増し刷りされて諸都市に流通しました。イスラーム世界の学術は、口頭伝授と書物文化の相補関係に支えられており、権威あるテキストに対して注釈(ハーシュヤ)や概説(ムフタサル)が層をなして蓄積されます。サマルカンドで作られた教材は、ヘラート、タブリーズ、ブハラ、さらにはアナトリアやカイロ、インド亜大陸へと伝播し、地域ごとに受容と改作が繰り返されました。
また、宗教的権威との関係も繊細でした。ウラマー(宗教学者層)とマドラサの基盤を共有しつつ、哲学や天文学はしばしば議論の対象となり、学術と信仰の均衡が模索されました。ウルグ・ベクは学芸保護を掲げたものの、彼の時代の宗教・政治状況は一枚岩ではありません。神秘主義の教団や在地の宗教指導者たちとの緊張や、王族内の勢力争いが、学術プロジェクトの持続に影を落とす局面もありました。
権力闘争、最期とその後—遺産の拡散
ウルグ・ベクの晩年は、王族内の対立と政治的圧力に彩られます。彼は軍事と行政において必ずしも強硬ではなく、宗教・在地勢力との調整も難航しました。最終的に彼は親族・子息との権力抗争に敗れ、1449年に非業の死を遂げます。政治的挫折の直後、サマルカンドの天文台は破壊され、膨大な設備は失われました。これは、王権によって支えられた学術が、守護者を失えば脆弱であるという、前近代の制度的限界を象徴する出来事でした。
しかし、知は形を変えて生き延びます。ウルグ・ベクの星表と暦書は写本として各地に残り、彼の弟子や関係者は別の宮廷や都市に移って活動を続けました。アリー・クシュジーはオスマン帝国に招かれ、コンスタンティノープル(イスタンブル)で教育と著述を行い、サマルカンドで培われた計算法や教材をトルコ語圏に移植しました。こうして、サマルカンドの成果はオスマン帝国の学術体系の中に吸収され、さらにムガル帝国やサファヴィー朝の知識人世界にも波及しました。
ヨーロッパへの影響も、直接・間接のルートで及びました。15~16世紀、ラテン語圏ではプトレマイオス的宇宙像の再評価と実測の重視が進みますが、イスラーム世界で蓄積された天文表や三角法は、その基盤を支える重要な資源でした。サマルカンド系の星表や三角表は、翻訳・抜粋・改作の過程でヨーロッパの学者の手に渡り、航海や暦法、占星術の実務にも活用されました。近世天文学の発展は、単線的な「西洋内部の覚醒」ではなく、広域的な知の交換と受容によって促進されたのです。
サマルカンドの天文台跡は、近代に入って遺構として再発見され、半地下に残る巨大な測角器の痕跡が調査・保存されました。今日、レギスタンのマドラサ群とともに、ウルグ・ベクの事業を物語る文化遺産として世界の研究者や旅行者を惹きつけています。考古学と科学史の共同研究は、文献記述と遺構データを突き合わせ、観測機器の実際の寸法や精度、運用体制の復元に挑んでいます。
歴史的評価—「学者君主」のモデル
ウルグ・ベクの評価は、王権と知の関係をどう捉えるかによって多面的です。彼は征服よりも制度整備を重んじ、軍事的成功を誇らなかったため、王としては弱いと評されることがあります。しかし、都市と教育のインフラを整え、測定と計算に資源を注ぎ、学術共同体を保護したという点で、彼は「知を通じて秩序を築く」新しい王権像を提示しました。観測機器の大型化と恒星表の高精度化は、単に科学技術の進歩を表すだけでなく、王の威信と公共性の結びつきを象徴します。
また、彼のプロジェクトは、学問が特定の宗教や文化圏の内部に閉じないことを示しました。アナトリア、イラン、中央アジア、アラブ地域の学者が共同で作業し、テキストはペルシア語やアラビア語で書かれ、やがてトルコ語や他言語に翻訳されました。この越境性は、知の普遍性と地域的多様性を両立させるイスラーム世界の学術生態系の特質をよく表しています。ウルグ・ベクが用意した制度と場は、その生態系を中央アジアに再配置したに等しく、15世紀前半のサマルカンドを、ヘラートやタブリーズに比肩し得る〈知の都〉に押し上げました。
その意味で、ウルグ・ベクは「科学革命」の直接の先駆者ではなくとも、観測の精度と制度の持続性を重視する姿勢によって、のちの時代の学問が依拠するデータと方法を提供しました。彼の星表が後世の天文学者に参照され続けた事実は、王権の興亡を越えて、計測と記録という営みがいかに長期的な価値を持つかを教えてくれます。ウルグ・ベクを学ぶことは、ユーラシア規模で知が移動し、翻訳され、再配置される過程を具体的に追うことでもあります。
総じて、ウルグ・ベクは、戦場ではなく観測台と講壇で王の威信を示そうとした希有な統治者でした。彼が築いた天文台とマドラサ、そこに集った学者たち、そして編まれたテキスト群は、政治が知の制度設計にかかわるときに何が可能になり、また何が脆弱であるかを、鮮やかに物語っています。サマルカンドという都市空間に刻まれた建築と遺構、写本として残る表や注釈、他地域での継承と変容は、彼の短い生涯をはるかに超えて、今日まで参照され続ける歴史の資源であり続けます。

