駅伝制(オリエント) – 世界史用語集

オリエントにおける駅伝制とは、王権や国家が管理する公用通信・輸送のための中継網を指し、道路・駅舎・人馬・文書制度を一体化して、広大な領域を素早く結ぶ仕組みのことです。最も有名なのはアケメネス朝ペルシアの「王の道」と騎馬急使(ギリシア語でアンガロス/アンガリオン、古代ペルシア語でピルラダジシュに当たる用語)ですが、前史として新アッシリアや新バビロニア、ヒッタイト、エジプト新王国でも公的伝令の中継体制が運用されました。駅伝制は、征服帝国が多民族・多言語の領域をまとめるうえで不可欠で、王令・軍令・税務・裁判・情報収集を迅速化し、同時に道路・宿営地・倉庫・馬匹の標準を整える国家技術でもありました。古代オリエントの駅伝制を理解するうえでは、①起源と広がり、②アケメネス朝の制度設計、③運用の具体と文書・度量衡・地理の連携、④他地域・後代への継承という四つの視点が大切です。

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起源と広がり:オリエント帝国の「つなぐ技術」

駅伝制の思想は、古代オリエントにおける王の移動と軍隊の行進を支える「道の管理」から生まれました。肥沃な三日月地帯では、河川の季節変動や荒野の横断が移動のボトルネックで、王権は軍用路の整備、関所・倉庫・井戸・橋梁の維持を重視しました。ヒッタイトでは王令の伝達のための道と駅が文書で確認され、エジプト新王国はシナイ半島やレバント沿岸へ通じる軍用路に宿営地と井戸を配置しました。これらはのちの「駅伝制」と同質の中継思想で、王に奉仕する伝令・走者・荷駄隊が、一定間隔で補給・交代をしながら移動する仕組みを採りました。

新アッシリア帝国(前9〜前7世紀)は、広域行政のモデルケースです。王都ニネヴェと属州中心の間を結ぶ幹線が組織され、州太守(ベール・ペハ)に属する伝令が、王の書簡・布告・徴発命令を運びました。粘土板書簡には、伝令の到着時刻や遅延の弁明、通行許可(パス)に関する記述が見られ、道路沿いの宿営・厩・倉庫の存在をうかがわせます。ここで確立された「公用路を国家が占有し、通行と補給を役所が保証する」という原理が、次代のペルシアで一層洗練されました。

新バビロニアも、灌漑路・堤防・運河に沿って管理された動線を持ち、王の使者は城門・関門で検印を受けて通行しました。これらの前段階的制度が、アケメネス朝の巨大な帝国空間に適用されることで、駅伝制は古代オリエント史上きわめて完成度の高い形に到達します。

アケメネス朝の駅伝制:王の道と騎馬急使

アケメネス朝ペルシア(前6〜前4世紀)は、駅伝制を国家の神経系として制度化しました。ギリシア人はこの広域幹線を「王の道(Royal Road)」と呼び、都スサから小アジアのサルディスまでを結ぶ幹線の途中に、中継駅(駅舎・厩舎・倉庫・宿泊所)をほぼ等間隔で設置したと伝えます。各駅には新鮮な馬と職員が常備され、官用の表符を持つ伝令は、駅ごとに馬を乗り継いで昼夜兼行で疾走しました。これが「騎馬急使(アンガロス)」です。春夏秋冬・雨雪・夜昼を問わず走るという表現は、制度の自負と宣伝でもあり、実際に平時よりは戦時・非常時に最大の効果を発揮しました。

王の道は一本ではなく、帝都と諸サトラピー(総督領)を結ぶ複数の幹線と、その支線・連絡路のネットワークでした。小アジアではリュディア以来の道路資産が活用され、メソポタミアでは土堤・堤防上の直線路、イラン高原では峠・渓谷・オアシスをつなぐルートが選定されました。中継駅の間隔は、地形や水利に応じて調整され、平野部では短く、山岳・砂漠では井戸と気象に合わせて延ばされました。駅の標準装備は厩舎・飼葉・器具・薪・水甕・倉、職員として駅長・書記・厩務・警備が想定され、王室・サトラップの経費で維持されました。

制度面で重要なのは、官用郵便の独占と、強制使用権(アンガリア)に近い特権です。駅伝路・駅舎・馬は原則として公用に限定され、私用・商用が許される場合も、料金や許可制が敷かれました。軍隊の行軍・徴税の輸送・裁判の召喚・王の詔勅の伝達が優先され、緊急時には民間の馬車・船舶に徴用がかかる仕組みが働きました。地方では、サトラップの府(州都)から属州都市へ枝分かれした連絡路に、同種の小規模駅が設置され、州内行政と王都との双方を結びました。

言語と筆記の多様性に対応するため、駅伝制は文書の標準化とも結びつきました。楔形文字文書とアラム語文書(帝国の共通行政語)の併用は、伝達の迅速化に寄与し、簡便な素材(皮・パピルス・薄板)に書かれた命令書・通行証・領収書が駅で確認・更新されました。封泥(ブッラ)・印章の押捺は真正性の担保であり、駅長は押印済みの札で伝令の身分と荷の正当性を確認したと考えられます。

運用の具体:道路・度量衡・馬と人、そして情報の流れ

駅伝制は、単なる「速い走者」ではなく、道路・測量・時間管理・動物管理・人事・会計の総合システムでした。道路は雨季の冠水・乾季の砂塵・日較差の激しい気候に耐える必要があり、堤防の嵩上げ、砕石・敷砂・木橋・渡し船の配置、雪解け期の仮設橋など、地形ごとの工夫が求められました。川の横断点には渡河装置と徴税所が設けられ、駅伝の通過は免除・割引・優先通行の規則で保護されました。

距離と時間の管理には、古代イラン・ギリシア圏で一般的な距離単位(パラサング=およそ数キロメートル単位)や、日行程・宿駅間の平均走破時間の標準が用いられました。平時の馬車・徒歩に比べ、駅伝の騎馬は同日中に数駅を跨ぐことができ、王都から周辺州都へ数日〜十数日単位で命令が到達しました。駅ごとの台帳には、出立・到着の時刻、走者の氏名・所属、馬匹の交換記録、飼葉の支出、修繕費用、緊急利用の記録が残され、監査の対象となりました。

馬匹は制度の生命線です。山岳・草原・半乾燥地に適した品種が選ばれ、飼葉(大麦・藁)・水の配分、蹄鉄・馬具の補修、厩舎の清潔の維持が規定化されました。中継駅では走者が鞍具ごと馬を乗り換え、数分で再出発する「ホットスワップ」方式が実現していました。走者には階層があり、最速の急使(緊急の王命)、通常の官用書状運搬、物資や徴税袋の小規模輸送など、任務の性格によって速度・警備の要件が異なりました。武装護衛が付く場合もあり、匪賊・反乱・戦時の遮断に備えて駅舎自体が簡易の防御設備(柵・土塁)を持つ例も想定されます。

情報の流れは一方向に限られません。王都からの下向命令だけでなく、地方官からの報告・統計・徴税記録・反乱情報・裁判上訴・物価・気象・疫病の報知が、駅伝で逆送されました。これにより、王権は広域な「状況認識(シチュエーショナル・アウェアネス)」を獲得し、軍の機動・配備、道路の改修、物資の再配分を決定できました。駅伝制はまた、王家の巡幸・査察・徴発隊の移動の安全も支え、道路沿線に市場・宿舎・鍛冶・皮革業などのサービス経済を派生させました。

制度を運用するには、法と罰則が不可欠です。虚偽の通行証の行使、駅舎財の横領、馬匹の私用、遅延や命令の改竄は重罰の対象で、駅長や地方官の責任が問われました。他方で、自然災害や戦乱で路線が寸断された際の代替ルート、冬季閉鎖区間の迂回、砂嵐・雪害時の運行停止・再開の基準など、経験に基づく運用の柔軟性も用意されました。

比較と継承:他地域・後代の駅伝と「帝国のインフラ」

オリエントの駅伝制は、後代の諸文明の公用郵便に強い影響を与えました。アケメネス朝の後、セレウコス朝やローマはそれぞれ自前の中継網を整備し、ローマのクルスス・プブリクス(公用駅伝)は駅(マンサー)と休憩所(ムタティオ)を区別して、皇帝命令の伝達と役人・軍人の移動を支えました。サーサーン朝ペルシアでは、王の書簡を運ぶ走者と駅舎(後世イスラームの「バリード」制度に連なる)が継承され、イスラーム帝国の郵驛制度は行政・情報・治安を統合する通信網として機能します。

東アジアでも、秦漢以降の伝馬・驛丞・伝舍の制度が整い、唐の驛伝・駅驛制度、モンゴル帝国の駅站(ジャム)に至って、騎馬文化を背景にした広域駅伝が頂点に達します。これらはいずれも、国家が道路・駅舎・人馬を直轄・監督し、優先通行権と補給を保障するという、オリエント以来の原理を共有しています。技術差はあれど、帝国はどこでも「情報と人の高速移動」を最重要の公共財と見なし、財政・法・軍事を支える背骨として駅伝を設計したのです。

考古学的には、駅舎跡・厩舎の柱穴・飼葉槽・水槽、道路の敷砂層・側溝、境界標・里程標、封泥の出土などが、駅伝の実在を裏づけます。文献学的には、アラム語・ギリシア語・楔形文字の行政文書、碑文の距離表記、都市間の日程記録が相互補完し、地理情報システム(GIS)を用いた復元が進んでいます。経済史の視点からは、駅伝路が市場・税関・軍事基地・港湾と連動し、帝国の物流ネットワークを形成して価格・賃金・貨幣流通の統合を促したことが指摘されます。

一方で、駅伝制には影の側面もあります。強制輸送(アンガリア)に近い動員が地方社会に負担を与え、駅の維持経費・馬匹の供出・宿の提供・労働奉仕が農民や町人に課せられました。緊急時には民間の交通が制限され、通行税・検問が経済活動を阻害することもありました。駅伝制は帝国の効率を高めると同時に、権力の浸透と統制を強化する道具でもあったのです。

総じて、オリエントの駅伝制は、地理・気候・多民族性という制約の下で、道路・駅舎・文書・馬・人を結んだ「インフラの総合設計」でした。アケメネス朝の王の道と騎馬急使はその象徴であり、古代帝国がどのように「広さ」を統治可能な範囲へ変換したのかを雄弁に物語ります。駅伝制は王の権威の演出に留まらず、日々の行政と軍事の実務を支える現実の仕組みであり、その思想は後の世界帝国の通信・交通体制に連綿と受け継がれていきました。