五・三○運動 – 世界史用語集

五・三〇運動は、1925年5月30日に上海の英租界で起きた労働者・学生のデモに対して警察が発砲し多数の死傷者を出した事件を契機に、中国各地へ広がった大規模な反帝国主義・反植民地的抗議運動の総称です。背後には、列強が治外法権と租界支配で中国の主権を侵食していた現実と、工業都市で蓄積していた労働争議の高まりがありました。運動は上海の追悼・抗議から始まり、全国のストライキ、ボイコット、デモ、さらには広州・香港を結ぶ長期の大罷工と海上封鎖へと連動し、1925年から1926年にかけて国政と外交を大きく揺さぶりました。

この運動には、中国国民党と中国共産党が第一次国共合作のもとで協力して関与し、都市の労働者と学生、商人団体、知識人が結びつきました。他方、列強側は租界治安の強化、海防の展開、外交的圧力で応戦し、北京政府と地方軍閥の利害も絡み合いました。五・三〇運動は単発の流血事件ではなく、都市社会の成熟と民族主義の高揚、国民政党の組織化、世界的な反植民地運動の波が重なった結果として理解されます。本稿では、発端と背景、運動の展開、社会的基盤と組織、そして政治・外交への波及の順に整理して説明します。

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発端と背景——上海の労働都市化と列強の支配

20世紀初頭の上海は、条約体制下の租界が重なり合う国際都市として急速に工業化が進み、紡績・機械・印刷などの工場が集中しました。農村から流入した若年労働者は長時間労働と低賃金に苦しみ、労働条件の改善と組織化の試みが繰り返されます。1919年の五四運動以降、学生と知識人が民族主義と社会改革を掲げるなかで、労働運動との連携が生まれ、新聞・講演・夜間学校などを通じて都市社会に新しい政治文化が広がりました。

列強の租界は治外法権に守られ、租界警察と外国人自治会が大きな権限を握っていました。中国人住民は租界の経済的恩恵を受ける一方、司法・警察権から排除される屈辱を味わいます。1925年春、日系紡績工場での労働争議で射殺者が出たことを契機に、民族ボイコットと労働者連帯の機運が高まり、5月下旬には学生・労働者・商人の連合行動が準備されました。こうして5月30日、反帝国主義と労働者保護を訴えるデモが英租界の南京路周辺で展開され、逮捕者の釈放を求める群衆と警察が衝突します。

混乱のなかで英租界の警察が発砲し、多数の死傷者を出しました(一般に「五・三〇惨案」と呼称)。流血が全国に報じられると、帝国主義の暴虐と植民地的秩序への怒りが一気に噴出し、追悼集会と抗議デモは翌日以降も拡大します。事件の背景には、租界の治安維持を名目とした警察権の強権化、司法の二重構造、外国企業の労務管理と在地社会の摩擦など、構造的問題が横たわっていました。

運動の展開——上海から全国へ、そして広州・香港の大罷工

上海では、学生連合と労働組織、商業公会が「罷市・罷課・罷工」を合言葉に共同行動を組み、追悼集会、街頭演説、ビラ配布、募金活動が相次ぎました。印刷業・紡績・電車・船舶・ドックなど基幹産業のストが連鎖し、都市機能はまひ状態に近づきます。租界当局は結社規制と検閲を強化し、指導者の逮捕や結社の解散命令で対抗しましたが、商人団体がスト基金を支え、夜間学校や工人倶楽部が情報拠点となることで、運動は持続力を得ました。

運動は蘇州・杭州・寧波など長江下流域へ波及し、さらに天津・漢口(武漢)・青島・広州へと広がりました。各地で外国租界・関税・鉄道・鉱山をめぐる抗議が結びつき、デモとストが連鎖的に起こります。6月23日には広州の沙面(英仏租界)付近でデモ隊に対する発砲事件が発生し、多数の犠牲者を出しました(いわゆる「沙面惨案」)。この出来事は香港・広州一帯での長期的な大罷工と海上ボイコットの引き金となり、海運と港湾労働が停止、香港経済は深刻な打撃を受けます。

広州では、国民党のもとに成立していた広東国民政府が罷工委員会を支援し、香港への物資搬入を遮断する「封港」運動が組織されました。労働者の帰郷船団や難民救済、スト基金の配分、宣伝工作が体系化され、海員・電車・ドック・印刷などの職種別に委員会が設置されます。運動は1年以上続き、1926年後半まで影響を及ぼしました。これに対し、英植民地当局は警備強化と一部の譲歩策(賃上げや労働条件の改善)を組み合わせ、企業側もロックアウトや外国人雇用の拡大で対抗しました。

外交面では、列強が共同で北京政府に秩序回復を求め、軍艦の示威や租界警備の増派を行いました。北京政府は財政難と軍閥抗争のなかで統制力を欠き、地方の軍政長官や警務当局が独自に弾圧や交渉に動く事態が続きます。こうした中央の弱体は、都市の社会運動と地方政権の力学をさらに複雑化させました。

社会的基盤と組織——労働者・学生・商人、そして国共合作

五・三〇運動の持続性を支えたのは、労働者・学生・商人の横断的な連帯でした。都市の工業労働者は夜間学校や工人倶楽部、同郷会を通じて組織化が進み、スト基金の積み立てや互助が機能しました。学生は宣伝・編集・医療救護・市街地の情報連絡で重要な役割を果たし、文学サークルや新聞社の若手が論陣を張りました。商業公会は当初、政治化への慎重姿勢を見せつつも、民族資本の利害から対外ボイコットに賛同し、休市や募金で支援しました。

第一次国共合作(1924年〜)は、運動の政治的枠組みを提供しました。中国国民党は「連ソ・容共・扶助工農」の方針で党の大衆基盤拡大を図り、中国共産党は都市労働運動と宣伝工作の実務で力を発揮しました。党学校・青年団・労働組合は相互に人材を供給し、追悼大会の動員、ストライキの指導、交渉窓口の設定が連携して行われます。他方で、運動の高揚は各都市の秩序に緊張を生み、暴力的衝突や破壊行為への懸念から、商人・地主層の一部に離反も生じました。外国企業と在華商社は、労働条件の譲歩と警備強化の二正面で対応し、新聞・通信社を通じた舆論戦も活発化します。

社会政策面では、労働時間の短縮、賃金の改善、女工・少年工の保護、労組の承認、仲裁制度の確立が掲げられ、いくつかの業種で部分的に実現しました。印刷・紡績・海運などで締結された協定は、運動の成果として記録されますが、その履行は地域と企業によってばらつきがありました。教育・文化の領域でも、講演会、追悼文集、壁新聞、歌や劇などが普及し、都市の公共空間に新たな表現があふれました。

政治・外交への波及——北伐、分岐、そして運動の終息

五・三〇運動の高揚は、国民革命の政治日程を前進させました。広東の国民政府は大衆的支持を背景に北伐準備を加速し、ソ連軍事顧問の助力で黄埔軍官学校出身の将校を核とする国民革命軍を整備します。1926年に北伐が開始されると、長江流域の都市では労働者・学生のネットワークが情報と兵站を支え、軍政の受け入れを促しました。五・三〇以来の抗英・抗日感情は、租界・関税・関所の回復要求と結びつき、外交交渉でも列強に譲歩を迫る材料となります。

しかし、運動で形成された広範な連帯は、1927年に大きく分岐します。上海で国民党右派(蒋介石)が共産勢力の排除に踏み切ると(一般に「四・一二事件」と呼ばれる弾圧)、労働運動は大打撃を受け、国共の協力体制は崩壊しました。以後、都市の労組と学生運動は厳しい抑圧下に置かれ、五・三〇運動の時期に見られた公開的・大衆的動員は難しくなります。他方、広州・香港の大罷工は徐々に終息し、海上交通と貿易は回復へ向かいました。

国際的には、五・三〇運動とそれに続く諸事件は、列強に対して租界制度や二十一カ条の延長線上にある不平等条約の再検討を迫る世論を形成しました。英米などは経済的利害の維持を図りつつも、通商と治安の安定のために一部譲歩へ傾き、関税自主権の回復交渉や治外法権の縮小に向けた協議が進みます。こうして、運動は直接に制度を一掃したわけではないものの、条約改正と主権回復の長期的プロセスに具体的な圧力を与えました。

都市の現場に目を向けると、五・三〇運動は労働者の組織経験と交渉技術、宣伝・救護・財政管理のノウハウを蓄積し、後年の市民運動や党組織の基礎を形づくりました。犠牲者の追悼は記念碑・墓所・年忌行事として地域社会に刻まれ、事件の語りは新聞・回想録・文学作品に受け継がれます。これらの記憶は、上海や広州の都市空間に残る地名や施設とも重なり、近代中国の都市史を読み解く鍵となっています。