「外国人の内地旅行の自由」とは、19世紀の条約体制の下で、開港場(条約港)に居留するだけでなく、外国人が内陸部へ旅行・滞在し得る権利が、一定の手続と条件付きで認められた制度・実務を指します。東アジアではとくに清と日本で重要な意味を持ちました。清では1858年の天津条約・1860年の北京条約を起点として、通行証(パスポート)携行を条件に内地旅行が認められ、宣教師の布教と商人・学者の踏査が広がりました。日本では幕末の安政条約下、外国人の居住は原則として開港場に限定され、内地旅行は許可制でしたが、条約改正を経て1899年(明治32)に治外法権の撤廃と引き換えに内地雑居(居住・旅行の自由)が実現し、外国人は国内ほぼ全域を旅行・居住できるようになりました。本稿では、①条約文言と制度の基本、②清における展開と影響、③日本における経過と帰結、④周辺地域との比較と歴史的評価、の観点から、わかりやすく整理します。
条約と制度の骨格—パスポート制、通商権との違い、警察規則
内地旅行の自由は、無条件の自由放任ではありませんでした。基本は、在外公館(公使館・領事館)が発給するパスポート(旅行証)を所持し、現地官庁が交付する通行証・護照を経て、一定の期間・ルートで旅行するという枠組みです。清では天津条約(1858)で外国人の旅行・布教・学術調査の通行が原則認められ、北京条約(1860)でキリスト教の保護・不動産の取得(教会・墓地等)と結びついて内地滞在の法的根拠が整えられました。日本では安政通商条約(1858)で開港場周辺に半径規制を設け、内地旅行は個別許可制としつつ、雇い入れ、鉱山・温泉・史跡など一定の目的での通行証発給を許す実務が形成されました。
重要なのは、内地旅行の自由が「内地通商権(内陸で自由に商売する権利)」とイコールではない点です。清では、条約港から内地へ貨物を運ぶ場合、領事の発給する通行証(パス)を通行税(厘金)と引き換えに取得し、途中の検査所で提示する制度が導入されました。これは旅行の自由と商業輸送の自由(通商権)を結びつけつつ、税負担の回避や密貿易を抑止するための仕組みでした。他方、純粋な旅行(宣教師・地理学者・軍事偵察でない探検)についても、警備・治安を理由にルートや滞在日数に制限が課されることが一般的でした。
警察・行政の側では、外国人の内地旅行に関して、宿泊者名簿(投宿届)、携行武器の制限、道中の護衛、疫病流行時の検疫、祭礼・集会・布教の届出などの規則が整備されました。規則はしばしば地方官の裁量と結びつき、一律ではありません。危険地帯・軍事施設周辺・鉱山地域・国境地帯は例外扱いとなることが多く、旅行者はしばしば現地での追加許可や役所の押印を求められました。
清における展開—宣教師・商人・探検家、地図と情報の時代
清朝の内地旅行自由は、宣教・学術・通商の三つの流れを加速しました。まず宣教では、北京条約後、カトリック・プロテスタント各派の宣教師が華北・華南・内陸(四川・陝西・湖南・雲南など)に布教拠点を築き、学校・診療所・印刷所を運営しました。教会の建設・土地取得は地方社会との摩擦の種にもなりましたが、教育・医療・印刷(活字)を通じて近代的知識や衛生観念をもたらす面もありました。
商業面では、旅行自由と内地通商権の拡大によって、条約港から長江水系や運河・街道を通じて、内陸市場へ外国製品(綿布・機械・薬品)や輸出産品の集荷(茶・生糸・薬材・皮革)が広がりました。各地に領事館・領事代理が置かれ、外国銀行の出張所・商社支店・保険代理店が内陸都市へ進出して、通行証・保険・倉荷証券などの取引実務を支えました。通商の浸透は、厘金と税関(海関)の関係調整を複雑化させ、海関は内陸測候所・統計業務・郵便と絡みながら、国家財政と国際金融の結節点として存在感を増します。
学術・地理探検では、地図作成・動植物採集・言語調査・仏教遺跡の踏査などが活発化しました。西域・チベット・四川・雲南・満洲など国境地帯への踏査は、学術的関心だけでなく地政学・軍事上の意図と結びつくことがあり、清政府はしばしば許可の厳格化や退去命令で応じました。列強の地図・測量は、後の国境交渉や軍事行動に直結するため、内地旅行の自由は、情報主権・安全保障の角度からも重大な意味を持ちました。
一方で、宣教師事件や地方治安の悪化は、内地旅行自由の負の側面を露呈させました。教会・学校の建設や宗教実践をめぐる衝突、改宗者(教民)の保護と既存社会の慣行の摩擦、司法管轄(治外法権)をめぐる紛争は、北京の公使館と地方官の間で政治問題化しやすく、義和団事件(1900)の伏線となりました。すなわち、旅行の自由は、単なる人の移動ではなく、法・宗教・通商・情報の複合回路を通じて国家主権と交錯したのです。
日本における経過—許可制から内地雑居へ、1899年の転換
日本では、安政通商条約(1858)に基づき、外国人の居住は開港場(横浜・長崎・箱館・神戸・新潟など)とその周辺の一定半径内に限定され、内地旅行は原則として外務(奉行・のち外務省)が発行する通行証による許可制でした。学術調査・温泉療養・鉱山視察・通商の下見・伝道などの目的で、個々の願書に基づき期限付の許可が発給され、宿泊地ごとに投宿届・警察のチェックが行われました。鉄道の開通、郵便・電信の普及により移動は容易になりましたが、鉄道の利用にも身分証・通行証の提示が求められることがあり、地方官の裁量や地元の反応によって「行ける所/行けない所」が事実上分かれていました。
明治政府が進めた条約改正交渉では、内地旅行・居住の扱いが大きな争点でした。日本側は治外法権の撤廃(領事裁判権の廃止)と関税自主権の回復を目標とし、列強側はその代価として「内地の自由旅行・居住(内地雑居)」を求めました。結果として、1894年の日英通商航海条約を皮切りに新条約が結ばれ、1899年(明治32)に一斉実施されると、外国人は日本全国で警察規則の範囲内で自由に旅行・居住・営業が可能となりました(軍事機密地帯・要塞地帯などの例外は存続)。
この転換には三つの帰結がありました。第一に、司法権の一元化です。治外法権が廃され、外国人も日本の裁判所・法典(刑法・民法・商法・民訴・刑訴)に服することで、旅行・居住の自由と引き換えに「法の下の統一」が実現しました。第二に、都市・観光・産業への波及です。京都・奈良・日光・箱根・別府などへの観光が盛んになり、ホテル・ガイド・鉄道・土産・地図出版が近代観光産業として伸びました。第三に、警察・衛生・検疫の近代化です。外国人旅行者の増加に対応して、警察は住居届・旅券照合・外国語対応を整備し、検疫所・衛生局が国際基準に近づきました。
反面、内地雑居の実施は、国内世論に複雑な感情を呼びました。地価・家賃の高騰、娯楽産業や花柳界との接触に対する道徳的懸念、軍事・鉱業・交通施設への接近をめぐる安全保障上の不安が語られ、外国人嫌悪や排外的風潮が一部で強まりました。政府は要塞地帯・要塞司令部の周辺・鉱山・軍港などで写真撮影・測量・立入を規制し、違反には退去・罰金を科しました。すなわち、日本の「旅行の自由」は、主権的警察権の枠内で運用された限定的自由でもありました。
比較と評価—朝鮮・東南アジア、自由の恩恵と不平等の影
朝鮮でも、1876年の江華条約以降、釜山・元山・仁川などの開港とともに、外国人の内地旅行は通行証・警察規則の下で部分的に認められました。宣教師・医師・商人は首都漢城および地方都市で活動を広げ、学校・病院・印刷所が設立されます。東南アジアの王国や植民地でも、条約や租界・コンセッションを通じて外国人の移動・居住は制度化され、自由港や鉄道建設の進展とともに「旅する植民地社会」が形成されました。
総じて、外国人の内地旅行の自由は、知識・技術・資本・観光の移動を活性化し、地誌・民族誌・言語学・考古学・博物学の成果をもたらしました。地図やガイドブック、統計・郵便・電信網の整備は、近代国家の情報インフラを押し上げ、衛生と医療の標準化、観光・宿泊産業の誕生に寄与しました。他方で、この「自由」はしばしば不平等条約の産物であり、治外法権と結びつく場面では主権の制約と社会摩擦を生みました。宗教・慣習・土地制度への介入、測量・写真・採集・買い付けをめぐる紛争は、近代的権利と在来秩序の衝突を露わにしました。
20世紀に入り、条約改正や独立運動、国民国家の再編が進むと、外国人の内地旅行は一般的な旅券制度と出入国管理の枠内へと収斂していきます。清末・民国期の中国では、義和団後の厳格化と例外許可、国共内戦・戦時の制限を経て、主権国家としての統一的管理が原則となりました。日本でも、戦時にはスパイ防止と国防保安法制のもとで外国人の移動が厳格化し、戦後は国際民間航空・観光の時代に再び自由化されました。
歴史的に見ると、外国人の内地旅行の自由は、「世界の接続」と「主権の管理」がぶつかる臨界面で成立・運用された制度でした。列強の利害・布教・学術・観光が内陸へ浸透することで、港市だけでなく地方の村落・市場・鉱山・宗教空間までが国際政治の網目に巻き込まれます。そこには、教育・医療・技術移転の恩恵と、治外法権・不平等・安全保障不安の影が並存しました。この両義性を理解することが、19世紀アジアの条約体制を具体的に掴むための鍵になります。

