カルカッタ(現在の公式名:コルカタ)は、インド東部ベンガル地方に位置する大都市で、17世紀末から20世紀初頭にかけてはイギリス領インド帝国の中枢として機能した都市です。フーグリー川の中下流域に築かれた港市として、東インド会社の拠点、インド帝国の首都(1772〜1911年)、そして独立後の西ベンガル州都として、政治・経済・文化・思想の舞台を提供してきました。ジュートや茶、アヘン、綿製品などの交易、鉄道と運河の結節、印刷と教育の集積、ベンガル・ルネサンスや民族運動の拠点など、多面的な顔を持ちます。近代産業の興隆と衰退、植民支配と都市社会の矛盾、分割と難民流入、左派政治と市民文化の蓄積、そして21世紀のサービス産業・クリエイティブ産業の展開が折り重なり、インド近現代史を凝縮した都市といえる存在です。
以下では、地理と成立の背景、英領期の都市構造と経済、ベンガル・ルネサンスと民族運動、独立後の変遷と現在という流れで整理します。概要だけでも都市の輪郭はつかめますが、より詳しい理解のために続く見出しをご覧ください。
地理・成立・初期拠点—フーグリー川の港市と東インド会社
カルカッタは、ガンジス川の支流フーグリー川右岸の低湿地帯に形成されました。河川は季節的出水と潮汐の影響を受け、河港としての利点を備える一方、堆積と氾濫のリスクも併せ持ちます。17世紀末、ムガル帝国のベンガル太守のもとで欧州商人の活動が活発化し、イギリス東インド会社はスーラトやマドラス(チェンナイ)、ボンベイ(ムンバイ)と並ぶ東方交易の拠点をこの地に求めました。カルカッタの核は、しばしば「三村(スータナティ、ゴーヴィンドプル、カルカッタ)」と呼ばれる集落に遡るとされ、会社は防衛と倉庫機能を兼ねる砦(のちのフォート・ウィリアム)を築いて拠点化しました。
18世紀半ば、ベンガル・ビハール・オリッサを束ねる富裕なデルタ地帯は世界有数の手工業と農産物流通で栄え、ムスリム、ヒンドゥー、アルメニア人、ジャイナ商人、さらには中国人コミュニティなど、多様な商業ネットワークが重層的に存在していました。東インド会社は、織物(モスリンや更紗)、小麦、砂糖、塩、アヘンなどの取引を拡大し、徴税請負や領地経営へと関与を深めていきます。1757年のプラッシーの戦い、1764年のブクサールの戦いを経て、会社はベンガルの徴税権(ディーワーニー)を獲得し、カルカッタは商館都市から統治都市へ変貌しました。
18世紀の出来事の中でしばしば言及されるのが、1756年のカルカッタ陥落時の混乱に関連する「ブラックホール」事件です。史実の細部や人数に関しては研究上の検討が続き、当時のプロパガンダとの関係も指摘されていますが、いずれにせよ都市の防衛・治安・行政が急速に再編され、フォート・ウィリアムの再建と周辺地区の都市整備が進んだことは確かです。以後、カルカッタはベンガル行政の中心として、会社官僚・軍人・インド人富裕層が共存する複合社会を形づくりました。
英領期の都市構造と経済—首都、港湾、ジュートと鉄道のハブ
1772年、東インド会社のベンガル統治が進むなか、カルカッタはインド統治の実質的首都となり、総督・最高評議会・最高裁判所(のち高等法院)などが置かれました。官庁街やヨーロッパ人居住区(「ホワイト・タウン」)と、商工業や居住が混在する「ブラック・タウン」の空間分離は、植民都市特有の社会地理を生みました。19世紀には広幅員の大通り、公園、教会、劇場、競馬場、植物園などが整備され、ヴィクトリア朝の意匠を纏った公共建築が都市景観を彩りました。一方、バザール、細路地、ガート(河岸の階段)と祠の世界は生活のリズムを刻み、二つの都市が重ね合わせられるような景観が現れました。
経済面では、フーグリー川の河港は茶、ジュート、石炭、鉄鋼、綿製品、アヘンなどの積出・積替の拠点です。特に19世紀後半から20世紀前半にかけて、カルカッタはジュート工業の世界的中心地となり、河岸沿いに延びるジュート工場群が雇用と輸出を支えました。アッサムやダージリン方面の茶、ビハールの石炭、内陸の綿と穀物が鉄道で集まり、港湾から世界へ運ばれていきます。カルカッタ証券取引所や商社、保険、銀行が集積し、マルワーリー(北西インド出身の商人資本家)などのインド人資本と、イギリス資本が重なり合う金融構造が形づくられました。
交通では、インド最古級の鉄道網がカルカッタを起点に広がり、ハウラー橋(のちのビダスガル・セトゥ)で川を跨いでハウラー駅と連絡しました。市内交通には馬車、路面電車(現在もインドで唯一のトラム網)、のちに地下鉄(インド初、1984年開業)が加わり、都市圏の拡大を支えました。港湾は河口の砂州と堆積に対処するため、ドックと航路浚渫が繰り返され、フーグリー川の気難しい地形と格闘を続けました。
英領期のカルカッタはまた、統治・教育・印刷の中枢です。プレジデンシー・カレッジ、カルカッタ大学(1857年設立)、医学校、工学学校、博物館、動植物園などが近代教育と研究の基盤を提供し、新聞・雑誌・印刷所が言論空間を賑わせました。ヒンドゥー法改正や社会改革(サティーの廃止、未亡人再婚の議論、女子教育)もカルカッタを舞台に進み、都市は伝統と改革の交差点になりました。
ベンガル・ルネサンスと民族運動—思想・文学・音楽、スワデーシーと分割撤回
19世紀から20世紀初頭にかけて、カルカッタは「ベンガル・ルネサンス」と称される知的・文化的覚醒の中心でした。ラーム・モーハン・ローイ、イーシュワル・チャンドラ・ヴィディヤーサーガルら社会改革者、バンクイムチャンドラ・チャットーパーディヤーイやシャラトチャンドラなどの文学者、ジェイムズ・プリンセプら東洋学者、そしてタゴール家を筆頭とする芸術・音楽の名家が活動し、ベンガル語の近代文学、詩、戯曲、絵画、音楽が花開きました。ノーベル文学賞受賞者ラビンドラナート・タゴールの作品は、ベンガル語圏の感性と普遍的な人間主義の結節点として、都市文化の象徴的存在です。
政治面では、インド国民会議の初期活動にカルカッタの知識人・実業家が深く関わり、1905年のベンガル分割に対しては強い反発が起きました。分割は行政効率を名目にしつつ、民族運動の分断を狙ったと解され、カルカッタではスワデーシー(国産品奨励)運動、英貨ボイコット、国産工業の育成、国民教育の拡充が展開されます。集会・デモ・出版・演説は都市空間を政治の舞台へと変え、やがて分割は1911年に撤回されました。同年、帝国首都はデリーに移され、カルカッタは経済・文化の中心であり続けながらも、政治の第一舞台からは退きます。
都市の影の側面も見逃せません。1919年のローラット法を前後する抑圧、労働運動の高揚、コミュナル緊張、そして1943年のベンガル飢饉は、都市と農村、戦時経済と供給の断絶、統治の不全を露わにしました。戦後の1946年にはカルカッタ暴動(グレート・カリカタ・キリング)と呼ばれる大規模な宗派衝突が発生し、翌年のインド・パキスタン分離独立は、東ベンガル(のち東パキスタン、さらに1971年の独立でバングラデシュへ)との境界を挟んで大量の避難民・移民の流入を引き起こしました。都市は難民の定住と生活再建、住居・衛生・雇用の課題に長く向き合うことになります。
独立後の変遷と現在—工業の変調、左派政治、文化都市の持久力
独立後のカルカッタ(コルカタ)は、港湾の土砂堆積、ジュート・紅茶・石炭輸送の構造的変化、内陸工業の台頭、労働争議、資本逃避などの複合要因で重工業の停滞に直面しました。1970年代にはナクサライト運動や政治暴力、停電やインフラ不全が都市のイメージを損ない、企業の撤退も目立ちました。他方で、左派連合(レフト・フロント)による長期政権は土地改革や農村教育で一定の成果をあげ、都市では路面電車の維持、公共文化施設の運営、書店と映画館、劇場のネットワークが市民文化を支えました。文学祭、映画祭、演劇祭、クラブ文化、サッカー(モフン・バガン、イースト・ベンガルなど)の熱狂は、困難の中でも都市の生活力を映し出しました。
1990年代以降の自由化の波のなかで、塩湖地帯(ソルトレイク)やニュータウン・ラジャールハットにはIT・BPOの拠点が整備され、教育・医療サービス、デザイン、メディア、スタートアップの集積が生まれました。地下鉄網は延伸され、橋梁(ビダスガル・セトゥ、二層構造のヴィヴェーカナンダ・セトゥなど)や空港の改修が進み、都市圏の交通は再編されています。世界遺産級の歴史建築—ヴィクトリア・メモリアル、作家や政治家ゆかりの邸宅、大学の講堂、旧庁舎群—は修復・活用が試みられ、観光と市民利用の両立が模索されています。
宗教と祭礼では、秋のドゥルガー・プージャーが都市最大の祭として知られ、職人街クマールトゥリの像作りから、パンダル(仮殿)の創意工夫、行列と音楽、灯りの演出まで、地域コミュニティとスポンサー、アーティストが共に作り上げる催事です。近年、この祭は国際的にも評価され、都市アイデンティティを世界に発信する媒体となっています。食文化では、ベンガル菓子(ロッショゴッラ、サンデーシュ)、魚料理(イリッシュ)、軽食(カティ・ロール、テレブジャ、フフカ)などが日常の喜びを彩ります。
文化・教育の伝統は今も健在です。カルカッタ大学、ジャダプール大学、インド統計研究所、インド科学教育研究院、インド博物館、アカデミー・オブ・ファインアーツ、ナンダン(映画複合施設)といった機関は、研究と表現の場を提供しています。書店街コレッジ・ストリートの古書店群、新聞社の編集室、ギャラリーと小劇場、音楽学校は、市民が学び語るための公共圏を支えています。ベンガル語の詩と歌、バウルの旋律、現代音楽の実験、インディー映画の台頭—これらは「思索と批評」の都市というカルカッタの評判を今も裏打ちしています。
都市の課題も続きます。郊外の無秩序な拡大、低地の浸水、廃棄物処理、古い上下水道の更新、渋滞、公園と水辺の保全、歴史建築の維持、貧困と非正規労働の問題など、都市経営は難題の連続です。その一方で、住民自治のイニシアチブ、コミュニティによる文化イベント、非営利の教育・福祉活動、スタートアップと社会的企業が、粘り強く都市を支えています。カルカッタの魅力は、歴史と人の層の厚さ、議論好きな市民社会、そしてゆっくりとした時間の流れのなかで育まれる創造性にあります。
最後に名称について触れておきます。都市名は長らく「カルカッタ(Calcutta)」が国際的呼称でしたが、1990年代末から現地語発音に近い「コルカタ(Kolkata)」が公式に採用されました。名称の変更は、植民期の遺産に対する距離の取り方と、地域言語・文化への誇りを反映する動きとして理解されます。呼称が変わっても、港と河、書物と音楽、祭とサッカー、議論とお茶—それらが織りなす「カルカッタらしさ」は、今日も変わらず息づいています。

