サン=キュロット – 世界史用語集

「サン=キュロット」とは、フランス革命期、とくに1792~94年にパリや主要都市で街頭政治の主役となった都市下層から中間層の人びとを指す呼称です。語義は文字どおり「膝丈の半ズボン(キュロット)を着けない者」で、貴族や富裕市民の正装から距離を置く長ズボン・木靴・赤いフリギア帽・三色章といった装いで象徴されました。彼らはパンの値下げと配給、投機の取り締まり、普通選挙と代議の監視、王政打倒と共和国化、徴募と反乱鎮圧など、革命の最前線で行動しました。サン=キュロットは均質な階級ではなく、職人・小商人・徒弟・日雇い・家内工業従事者・一部の俸給生活者を含む多様な共同体でしたが、共通して「生存の権利」「民衆の主権」「政治家の責任」を強く意識し、議会と街頭をつなぐ圧力団体として機能したのが特徴です。以下では、用語の由来と社会的背景、政治文化と象徴、主要な行動と要求、ジャコバン派・政府との関係、衰退と遺産をわかりやすく整理します。

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由来と社会的背景――半ズボンをはかない人びと

「サン=キュロット」という言葉は、革命初期にはやや軽蔑的なニュアンスを伴って登場しました。旧体制の上流男性が着る短い絹の半ズボン(キュロット)に対して、職人や労働者が実用本位で履いた長ズボン(パンタロン)を標識化し、「民衆らしさ」を視覚的に打ち出したのです。のちにこの呼称は誇りの称号となり、パリ区(セクシオン)の集会やクラブ、義勇兵部隊、革命委員会の文書にも自称として現れます。

社会構成は多様でした。パン職人、金属・木工の職人、印刷工、石工、帽子屋、小商人や居酒屋の店主、荷運び、洗濯女、家内工業の紡ぎ手、下級役人、失業者などが核をなし、家族や隣人ネットワーク、職能組合の残滓、教区・市場・工房単位で連帯が形成されました。彼らの日常は価格・供給・賃金・家賃に敏感で、革命の大義と同時に「毎日のパン」を揺るがす政策に即応する現実感覚を持っていました。

思想的には、啓蒙の抽象理性というより、素朴だが一貫した政治倫理に支えられていました。すなわち、国家は民衆の生存を守るべきであり、代議士は委任者(人民)の監督下にあるべきであり、富と投機が共同体を破壊するならば公共善のために制限できる、という直感です。この倫理は、教会・市場・工房・酒場での口論、パンフレットの朗読、壁新聞、区の集会で育ちました。

政治文化と象徴――装い・言葉・区(セクシオン)が作る民衆の公共圏

サン=キュロットの政治文化は、視覚と言葉の両面で強力でした。赤いフリギア帽(自由帽)と三色章、長ズボン、木靴、粗い布の上着は、身分秩序の逆転を示す制服のように機能しました。呼称の上でも、「市民(シトワイヤン/シトワイエンヌ)」「同志」「共和国」「公共の敵」など、平等と監視を同時に呼びかける語彙が広まりました。

行動の基盤はパリ48区の区(セクシオン)です。区の常設総会、監視委員会、革命委員会、国民衛兵の小隊は、請願・デモ・徴発・家宅捜索・パスポート発給・価格監視などを実務として担い、議会やコミューン(市参事会)へ圧力をかけました。区はしばしば女性や徒弟にも発言の機会を開き、読み書きの苦手な者には代読や象徴の演出で参加を促しました。

新聞・パンフレット・ポスターも重要でした。マラー『人民の友』、エベール『ペール・デュシェーヌ』などは、腐敗告発と辛辣な諷刺で民衆の怒りを可視化し、街頭の気分と議会の議題を連結しました。ここで形成された「声の政治」は、拍手・口笛・嘲笑・沈黙を使い分け、発言者に責任と勇気を求める厳しい空気を生みました。

主要な行動と要求――王政打倒から最高価格令、非常時体制へ

サン=キュロットが歴史舞台に大きく躍り出た局面はいくつもあります。まず1792年8月10日、王宮テュイルリーを襲撃して国王の実権を無力化した蜂起は、彼らの武装と区の動員、義勇兵(連盟兵)の参加が決定的でした。こののち王政は停止され、9月の国民公会選挙で共和政への転換が始まります。同年9月の「九月虐殺」は、対外戦争と反革命の恐怖が暴力を引き出した暗い側面ですが、サン=キュロットの一部が司法の外で敵を排除しようとした事実は、革命が抱えた緊張を物語ります。

1793年春、戦局悪化と物価高騰のなかで、サン=キュロットはパン価格の引き下げ、投機の取り締まり、反革命の告発を強め、5〜6月の蜂起でジロンド派を議会から一掃させました。これは山岳派(ジャコバン派)政権の成立に直結し、のちの非常時体制(いわゆる「恐怖政治」)の制度化を後押しします。同年秋には、穀物・必需品の最高価格令(メクサンマム)、革命軍の派遣(地方での徴発・取締り)、容疑者法(監視と逮捕の法的枠組み)といった政策が採用され、サン=キュロットの要求が国家政策に反映されました。

ただし、民衆の望みは一枚岩ではありませんでした。急進的なエベール派(さらなる物価統制と宗教攻撃を唱える)と、寛容を求めるダントン派の対立のなかで、公安委員会の中枢(ロベスピエールら)は両派を粛清します(1794年春)。これは街頭の力の自壊を招き、区の活動は統制下に置かれ、民衆の自発的圧力は鎮静化へ向かいました。

国家との関係――ジャコバン政権を押し上げ、そして抑え込まれる

サン=キュロットと国家(とくに山岳派政権)の関係は、相互依存と相互警戒の連鎖でした。街頭は議会を押し上げ、非常時体制の正統性を与えましたが、国家は一旦非常体制を稼働させると、地方派遣代表や革命裁判所、公安・保安委員会を通じて、街頭を代替できる装置を手に入れました。結果として、1793年末から94年には、国家が「民衆の名」を用いて民衆の自発性を管理するという逆説が生じます。

この緊張はテルミドール9日(1794年7月)の政変で決定的に反転します。ロベスピエール派が失脚すると、ジャコバン・クラブは閉鎖され、最高価格令は緩められ、革命軍は解散します。1795年春(ジャコバン暦ジェルミナル・プレリアール)には、パン不足に怒る民衆が再び議会を押し寄せますが、すでに常備軍と市民軍は彼らを弾圧する側に立っており、サン=キュロットの再蜂起は鎮圧・処罰されました。この時点で「サン=キュロット」という政治的主体はほぼ歴史舞台から退きます。

生活とジェンダー――パン、家賃、女性の参加、日常の抵抗

サン=キュロットの政治を理解するには、生活のディテールを無視できません。パンの価格と重さ、配給の順番、パン屋の営業時間、薪や石炭の入手、家賃の猶予、戦時の徴発――これらはすべて政治そのものでした。区の委員はパン屋の秤を検査し、投機を告発し、家主と借家人の調停を行い、兵站のために倉庫を管理しました。民衆にとって、抽象的な自由は「今日の食糧」と不可分だったのです。

女性の役割も重要です。市場の行商や洗濯、家事と賃労働を両立しつつ、行進・請願・区の傍聴に積極的に参加しました。裁縫工・洗濯女の団体は賃上げや食糧の確保を訴え、兵士の妻たちは配給と扶助を求めて区役所へ足を運びました。劇場の桟敷で編み物をしながら議論を見守る「トリコテーズ(編み物をする女たち)」のイメージは誇張も含みますが、女性が公共圏に深く関与した事実を示します。他方、女性クラブの閉鎖や参政権の否認は、革命の限界でもありました。

評価と遺産――民衆主権の実験、社会政策の萌芽、そして矛盾

サン=キュロットは、19世紀にはしばしば「暴力的群衆」や「貧民の嫉妬」として描かれましたが、20世紀の社会史研究は、彼らを生活の論理と共同体の倫理を持つ政治主体として再評価しました。普通選挙の理念、代議士のリコール(罷免)志向、最低生活の保障と価格統制、労働時間短縮の発想、徴兵と救貧の結合など、近代の社会政策と民主主義の源流はサン=キュロットの要求に明確に見て取れます。

同時に、司法の外に敵を置く言説、異論に対する非寛容、道徳と政治を短絡させる傾向は、革命の暴力化に寄与しました。サン=キュロットのなかにも富の層差があり、すべてが貧民ではないという事実、地方ごとの文化差、宗教や地域共同体との複雑な関係も見落とせません。彼らは英雄であると同時に、恐怖と欠乏の時代を生きた市井の人びとであり、その行動は道徳的白黒で割り切れない厚みを持ちます。

まとめ――街頭と議会をつなぐ「生存の政治」

サン=キュロットとは、革命の理念を街路の言葉に翻訳し、議会に圧力をかけ、日々のパンの問題を国家の課題へ引き上げた人びとでした。長ズボンと自由帽は、身分社会の逆転だけでなく、政治参加の可視化そのものを意味しました。彼らは山岳派政権を押し上げ、同時にその統制の対象となり、テルミドール以後に沈黙を強いられましたが、民衆主権と社会的権利をめぐる語彙、公共圏の作法、価格統制や配給といった政策の発想は、19世紀以降の政治に深く刻まれます。サン=キュロットを学ぶことは、自由・平等・生存という三つの基軸が交差するとき、街頭と国家の力がどのように交渉し、どこで緊張し、どのような制度が生まれるのかを理解することにほかなりません。