スエズ戦争(第2次中東戦争) – 世界史用語集

スエズ戦争(第2次中東戦争)とは、1956年にエジプト、イスラエル、イギリス、フランスが中心となって起きた軍事衝突で、スエズ運河の支配と中東の勢力図をめぐる国際政治が一気に噴き出した戦争です。一般には、エジプトのナセル政権によるスエズ運河国有化をきっかけに、イスラエルがシナイ半島へ侵攻し、それに続いて英仏が「運河の安全確保」を名目に軍事介入した一連の出来事を指します。戦闘そのものは比較的短期間で終息しましたが、結果として英仏が国際的圧力で撤退に追い込まれ、米ソ冷戦下の新しい国際秩序が中東にもくっきり刻まれた点で、戦後史の大きな転換点になりました。

この戦争は「運河をめぐる争い」に見えますが、実態はそれだけではありません。イスラエルにとっては、国境を越えた武装襲撃(フェダイーン問題)への対処や、紅海への出口であるティラン海峡封鎖など安全保障上の焦点がありました。英仏にとっては、運河の通行と中東石油輸送の生命線を守ること、さらにナセルのアラブ民族主義が自国の影響圏や植民地(特にアルジェリア戦争を抱えるフランス)へ波及することへの恐れがありました。エジプトにとっては、国有化で主権回復を示し、国家開発の財源を確保し、旧宗主国的な干渉を跳ね返すことがかかっていました。つまりスエズ戦争は、各国の異なる目的が一時的に重なって起きた、非常に政治色の濃い戦争です。

さらに重要なのは、戦争の勝敗が「戦場の優劣」だけで決まらなかった点です。英仏とイスラエルは軍事的には一定の成果を得ましたが、アメリカとソ連がそれぞれの理由で介入に強く反対し、国連の場でも圧力が高まったことで、英仏は撤退を余儀なくされます。戦後の世界では、旧来の帝国主義的軍事介入が国際的に正当化されにくくなっていたこと、そして米ソという超大国の意思が国際政治を左右する構造が固まっていたことを、この戦争は鮮やかに示しました。

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背景:国有化、民族主義、そして中東の緊張

スエズ戦争の直接の引き金は、1956年7月のエジプトによるスエズ運河国有化です。スエズ運河はエジプト領内にありながら、運営と利益配分は長く英仏を中心とするヨーロッパ側の影響が強く、エジプトから見れば主権が制限されている象徴でした。ナセル政権はアラブ民族主義と国家の自立を掲げ、運河収入を国家開発(アスワン・ハイ・ダム構想など)の財源に回す意図も含め、国有化を断行します。エジプト側は運河の通行自体を止めるのではなく、運営権と収益の主導権を取り戻す、という立場でしたが、英仏側は「国際航路の支配が脅かされる」と強く反発します。

英仏の反発には経済と安全保障の理由が重なります。運河は欧州とアジアを結ぶ近道であり、戦後は中東石油が欧州経済にとって重要性を増していました。運河の不安定化は輸送コストと供給の不確実性を高め、国内経済にも響きます。加えて、ナセルが掲げる民族主義が周辺地域の親欧派政権や、フランスが苦戦していたアルジェリアの独立運動などを刺激することへの警戒もありました。国有化を許せば「旧来の影響力が崩れる」という危機感が、軍事的選択へ傾く背景になっていきます。

イスラエル側の事情も重要です。1948年の第一次中東戦争の後、イスラエルは停戦ライン(休戦ライン)をめぐる緊張を抱え、国境地帯では武装襲撃や報復が連鎖しやすい状態が続きました。また、イスラエルにとって紅海への出口であるティラン海峡の封鎖や制限は死活問題になりやすく、エジプトとの対立を深める要因になります。こうした中で、英仏がナセルの影響力を削ぐことを望み、イスラエルが安全保障上の目的を達成したいと考えると、利害が一時的に交差します。スエズ戦争は、こうした複数の焦点が一つの戦争に束ねられていく過程として理解すると、なぜ“運河”だけでは説明しきれないのかが見えてきます。

開戦と軍事行動:イスラエル侵攻と英仏の介入

1956年10月、戦争はイスラエル軍のシナイ半島侵攻から始まります。イスラエルは機動的に進撃し、シナイを押さえることで安全保障上の圧力を緩和し、同時に国際社会で有利な条件を引き出す狙いを持ちます。これに続き、イギリスとフランスは「交戦停止と運河地帯の確保」を名目に、エジプトとイスラエル双方へ事実上受け入れ不可能な要求を突きつけ、拒否を口実に軍事介入へ進みます。実際には、運河を押さえ、国有化の既成事実化を阻止し、ナセル政権を屈服させる意図が強かったと理解されます。

英仏は空爆と上陸作戦によって運河地帯への軍事行動を展開し、ポートサイドなどで戦闘が起きます。軍事力の面では英仏は依然として高い能力を持ち、局地的には優位に立ちました。しかし、戦場での優位がそのまま政治的勝利に直結しないのが、戦後国際政治の特徴です。軍事行動が始まると、国際世論は「旧宗主国の武力介入」として英仏を批判し、国連でも停戦要求が強まります。エジプト側は運河地帯の防衛だけでなく、国際社会に対して主権侵害を訴え、政治的正当性の確保に力を注ぎます。

この戦争で注目されやすいのは、英仏とイスラエルの関係が「同じ陣営」でも完全に一致していなかった点です。イスラエルにとっての最優先は安全保障上の具体的成果であり、英仏にとっての最優先は運河とナセルの影響力の抑制でした。目的の違いは、戦争後の交渉局面でそれぞれがどの条件を重視するかにも現れます。スエズ戦争は、単純な二陣営の戦争というより、複数の国家がそれぞれの目的を達成しようとした結果、国際的対立が爆発したケースだといえます。

国際政治の圧力:国連、米ソ、そして停戦と撤退

スエズ戦争の帰結を決めた最大の要素は、アメリカとソ連を含む国際政治の圧力です。英仏は同盟国であるアメリカが一定の理解を示すことを期待しましたが、アメリカはこの介入に同調しませんでした。戦後の国際秩序の中で、植民地主義的介入を支持すればアジア・アフリカでの反発を招き、冷戦の勢力争いでも不利になる、という計算が働きます。さらにアメリカは、戦争が拡大して中東が不安定化すれば、石油供給や世界経済にも悪影響が出ることを懸念します。こうしてアメリカは英仏に停戦と撤退を求め、金融面・外交面で圧力を強めていきます。

ソ連もまた、英仏の介入を厳しく非難し、反帝国主義の立場を掲げてエジプト支持を示します。ソ連の姿勢には、第三世界での影響力拡大を狙う冷戦上の意図があり、同時期に別の地域で起きていた危機(東欧での動揺など)も背景にありました。重要なのは、米ソが同じ方向(英仏の撤退要求)で圧力をかけたことで、英仏が孤立しやすくなった点です。英仏は軍事的には前進しながら、政治的には立場を失い、戦争継続の正当性と持続可能性を急速に失っていきます。

国連の場では停戦と撤退の要求が強まり、和平監視・緩衝の仕組みとして国連緊急軍(UNEF)が設置される流れが生まれます。これは国連平和維持活動(PKO)の初期的な展開としても注目される点で、戦争を止めるために国連が現地へ部隊を送るという発想が、現実の政策として具体化した例でもあります。英仏は最終的に撤退へ追い込まれ、イスラエルも国際的圧力の中で段階的撤退を進めることになります。こうしてスエズ戦争は、戦場の勝敗ではなく国際政治の“合意と圧力”によって決着した戦争として記憶されます。

影響:英仏の後退、ナセルの台頭、そして中東秩序の再編

スエズ戦争の最も象徴的な結果は、イギリスとフランスの国際的威信の低下です。両国は軍事介入に踏み切ったものの、アメリカの支持を得られず撤退に追い込まれ、「旧宗主国が単独で世界秩序を動かす時代は終わった」という印象を強く残しました。特にイギリスでは、世界的な軍事展開を維持する戦略の見直しが進み、のちに「スエズ以東」からの撤退など、帝国の残影を縮める方向へつながっていきます。フランスもまた、植民地戦争の重荷と国際政治の制約の中で、自国の立ち位置を再定義する課題に直面します。

エジプトのナセルは、軍事的には苦しい局面を経験しつつも、政治的には「国有化を守り抜いた指導者」として威信を高めます。スエズ戦争はアラブ民族主義の象徴的成功体験として語られやすく、アラブ世界の世論と政治を動かす力になります。ただし、民族主義の高揚は中東の対立構造を緩和するとは限らず、むしろ周辺の政権交代や地域対立を刺激する側面も持ちます。ナセルの影響力が高まるほど、中東は「民族主義の波」「親西側と反西側の対立」「冷戦の介入」が重なり、秩序はより複雑になっていきます。

イスラエルにとっては、一定期間シナイやガザを押さえたこと自体が戦術的成果である一方、最終的には国際圧力で撤退することになり、「軍事的勝利を政治的成果に固定する難しさ」も残します。ただ、ティラン海峡の通航や国境の安全に関わる条件が交渉の焦点になり、以後の中東紛争の論点が整理される面もありました。スエズ戦争はその後の第三次中東戦争などに直接つながる“未解決の焦点”を残し、緊張の火種が消えたわけではありません。

そして国際政治の面では、アメリカが中東への関与を強める流れが加速します。英仏の後退は「空白」を生みやすく、その空白を誰が埋めるかが問題になります。アメリカは共産主義拡大の阻止と石油供給の安定を意識し、中東政策をより体系化していきます。ソ連もまた、反帝国主義の言説と軍事・経済支援を通じて影響力拡大を狙い、中東は米ソの競合の舞台としての性格を強めます。スエズ戦争は、脱植民地化が進む地域に冷戦が重なり、地域紛争が国際政治の力学で増幅される典型例としても理解できます。

まとめれば、スエズ戦争は、エジプトの運河国有化を契機に、イスラエルの安全保障、英仏の帝国的利害、そして米ソ冷戦の力学が衝突した戦争です。戦闘は短期間でも、その後の中東秩序、旧宗主国の後退、国連の平和維持の試み、そして超大国主導の国際政治を明確にし、戦後史の流れを方向づけました。「第2次中東戦争」という呼び名が示す通り、これは一度きりの事件ではなく、その後も続く中東紛争の連鎖の中に位置づけられる重要な転換点です。