五国同盟(ごこくどうめい)は、1526年に第2次イタリア戦争のさなかフランス王フランソワ1世・ローマ教皇クレメンス7世・ヴェネツィア共和国・フィレンツェ共和国・ミラノ公国の五勢力が結成した対ハプスブルク包囲網(コニャック同盟、Lega di Cognac)を指します。前年のパヴィアの戦い(1525)でフランスが大敗し、ミラノや北イタリアで神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)が覇権を強めたことへの危機感から生まれた同盟でした。名目上はイタリア半島の「自由」と勢力均衡の回復を掲げましたが、実態はフランス・教皇・諸都市国家それぞれの利害が絡み合う綱引きで、結成から数年でローマ劫略(1527)という惨劇を招き、最終的にはカンブレーの和約(1529)とボローニャ戴冠(1530)を経て、イタリアにおけるハプスブルク優位が固定化される結果に終わりました。本項では、(1)結成の背景と利害、(2)同盟の構造と戦争の経過、(3)主要事件—ローマ劫略とフィレンツェ戦争—、(4)帰結と歴史的意義を、当時の国際政治の文脈に置いてわかりやすく整理します。
結成の背景:パヴィアの衝撃、皇帝包囲網への回帰、教皇の恐怖
1519年に即位したカール5世は、スペイン・ナポリ・シチリアとハプスブルク世襲領、さらには新大陸の富をも抱え、ヨーロッパ随一の複合君主権を形成しました。対するフランス王フランソワ1世は、イタリアとくにミラノ公国の支配権をめぐって宿敵と争い、1525年のパヴィアの戦いで捕虜となる屈辱を受けます。釈放の代償として結ばれたマドリード条約(1526)は、フランスにブルゴーニュ割譲など過酷な条件を課しましたが、フランソワ1世は釈放後ただちに条約の無効を主張し、対皇帝包囲へと舵を切ります。
ローマ教皇クレメンス7世(メディチ家出身)は、ハプスブルク=スペイン勢力がナポリとミラノの両翼からローマ教会領を圧迫し、教皇権の政治的自立が脅かされることを恐れました。教皇は外交で均衡を図る伝統に従ってフランスへ接近し、ヴェネツィア・フィレンツェ・ミラノの有力者を引き入れて、1526年5月、パリ近郊のコニャックで軍事同盟を締結します。イングランド王ヘンリ8世は資金面での支援と政治的関与を試みましたが、正式な同盟国とはなりませんでした(英仏関係は離合集散を繰り返します)。
イタリア諸政体の思惑は一致していませんでした。ヴェネツィアはロンバルディア内陸とアドリア海の利権を守り、フィレンツェはメディチ支配から共和政を維持・拡張したい。ミラノではスフォルツァ家の復権を望む貴族とフランス派・帝国派が錯綜していました。それでも「皇帝の重すぎる影」に対抗する必要性は共有され、五国同盟は成立します。
同盟の構造と戦局:資金・傭兵・補給—政治の不一致が軍事を蝕む
コニャック同盟は、各国が兵力と資金を拠出して共同作戦を行う枠組みでしたが、兵站と指揮系統は脆弱でした。ルネサンス期の戦争は常備軍ではなく傭兵(ランツクネヒト、スイス傭兵等)に大きく依存し、支払いの遅延は即座に軍律の崩壊と略奪に直結します。教皇庁と諸都市の財政は豊かでも継戦能力は長く持続せず、フランスも本国防衛とイタリア出兵の両立に苦しみました。
当初、同盟軍はロンバルディアで帝国軍に対抗し、ミラノ公領の回復や要塞確保を進めます。しかしカール5世側の総司令ボルボーネ公シャルル(ブールボン公)らは、ナポリ方面からのスペイン勢・ドイツのランツクネヒト・イタリアのコンドッティエーリをまとめ、北上と中部イタリア侵入の機を窺いました。決定的だったのは、皇帝側の財政難です。兵に給料が払えず統制が効かないまま、軍は略奪によって自活しようとローマを指向します。これが未曾有の惨劇をもたらします。
頂点の事件:1527年ローマ劫略とフィレンツェの共和国化
1527年5月6日、ボルボーネ公に率いられた帝国軍はローマ外郭に殺到し、ボルボーネ自身は城壁攻撃の最中に戦死しますが、統制を失った軍勢は市内になだれ込み、数週間にわたる暴虐と略奪(サッコ・ディ・ローマ)を引き起こしました。聖職者・市民・芸術品は容赦なく蹂躙され、教皇クレメンス7世はサンタンジェロ城に籠城、最終的に屈辱的な条件で講和を余儀なくされます。文化的中心ローマの破壊は、ヨーロッパに衝撃を与え、教皇の政治的威信を決定的に低下させました。
同じ1527年、ローマの混乱とメディチ家の失勢を受けて、フィレンツェでは共和国政体が復活します。サヴォナローラ以後の宗教的緊張を引きずりつつも、市民はメディチ追放を支持し、対皇帝同盟の一翼として抵抗を継続しました。しかし、教皇自身がメディチ家出身であるため、クレメンス7世はやがて皇帝と和解してメディチ支配の回復を図る立場へ転じます。これがのちのフィレンツェ包囲戦(1529–30)につながり、共和国は陥落、メディチ家の世襲公国化(のちのトスカーナ大公国)に道が開かれました。
ローマ劫略は、コニャック同盟の求心力を奪い、諸勢力を皇帝との個別妥協へと押しやりました。フランソワ1世はイングランドやドイツ諸侯へ働きかけて反皇帝陣営拡大を試みる一方、本国の財政と国内政治のしがらみからイタリアで主導権を維持できません。これに対し、カール5世は事態収拾と自らの威信回復のため、外交で一気に形勢を整えます。
帰結:カンブレーの和約とボローニャ戴冠—ハプスブルク優位の固定
1529年8月、フランスと神聖ローマ/スペインはブルゴーニュのカンブレーで講和(通称「婦人たちの和約」—フランス王母ルイーズ・ド・サヴォワと皇帝伯母マルガレーテ・フォン・エスターライヒが仲介)を結びます。フランスはイタリアでの権利主張を大幅に後退させる代わりに、フランソワ王の息子(人質)の解放と一部領土の保全を確保しました。これに合わせて、教皇クレメンス7世は皇帝と和解し、皇帝は教皇を支持してイタリアの秩序再建に関与します。
1530年、ボローニャにおいて教皇クレメンス7世はカール5世に帝冠を授け(神聖ローマ皇帝としての対面戴冠—ローマの混乱ゆえ異例の地で実施)、皇帝のイタリアにおける覇権を象徴的かつ実質的に承認しました。ミラノ公国はスフォルツァ家の名目回復を経つつも、実質的にはスペインの影響下に置かれ、ナポリは確固としたスペイン王権の支配下にありました。フィレンツェはメディチの世襲支配へ、ヴェネツィアは内陸での拡張を停止しつつも海上帝国を維持、教皇領の政治的自立は皇帝との協調を前提に再編されます。
こうしてコニャック同盟は、イタリアの「自由」を掲げながら、逆にハプスブルク優位の構造を固める転機となりました。以後のイタリア戦争は、仏皇—帝国—オスマン—諸侯という広域競合の下で続くものの、イタリア半島の主導権は長期にわたりスペイン・ハプスブルクに握られ、17世紀半ばまでつづく「スペインの世紀」の重要な柱となります。
意義と評価:均衡外交の挫折、宗教改革期の政治、文化への影響
第一に、五国同盟は均衡外交の限界を示しました。諸勢力の利害一致が短期的・局地的にしか成立せず、資金・兵站・指揮の分裂が軍事行動を弱体化させ、逆に皇帝軍の略奪を招くという逆効果を生みました。都市国家の政治文化は外交手腕に長けていましたが、傭兵依存と財政の浅さは、集中君主制を進めるハプスブルクやフランスに比して脆弱でした。
第二に、宗教改革期の政治という文脈で見ると、1520年代の帝国・フランス・教皇の三者関係は、ルター派・ツヴィングリ派の拡大と絡み合います。ローマ劫略は教皇権威を傷つけ、ドイツ諸侯の宗教的自立の空気を強めました。他方、皇帝は宗教統一を優先課題としながらも、対仏・対オスマンの二正面に備える必要があり、政治的妥協と抑圧のバランスに苦慮します。コニャック同盟は、宗教と領土の問題が絡みあう「複合危機」の一断面です。
第三に、文化史的影響として、ローマ劫略は芸術家や学者の散逸を促し、ローマを中心とした盛期ルネサンスの拠点は一時的に衰えます。多くの工房が北イタリア・フランス・スペインへ拠点を移し、パトロンの地理的分散が進みました。フィレンツェではメディチ支配の復帰が文化政策の方向を変え、宮廷・祭礼・建築の様式が変容します。政治の暴力が文化の地図を書き換えた象徴的事件でもありました。
第四に、国際秩序の形成という視点では、カンブレーの和約やボローニャ戴冠に見られるように、外交の「場」と人物(王母・皇叔母、教皇)による調停が強い効果を発揮し、同時に〈条約—婚姻—戴冠—都市包囲〉が複合するルネサンス型国際政治の典型が現れます。コニャック同盟は、後世のウェストファリア体制以前の「ヨーロッパ国際社会」の実験場として読むことができます。
要するに、五国同盟(コニャック同盟)は、イタリアの自由と均衡を掲げたにもかかわらず、ローマ劫略と皇帝戴冠という逆説的な帰結を通じて、ハプスブルクの覇権をむしろ固めた転換点でした。パヴィア—コニャック—ローマ劫略—カンブレー—ボローニャという連鎖を押さえることで、16世紀前半のイタリア戦争が単なる「仏皇と皇帝の決闘」ではなく、都市国家・教皇・金融・傭兵・宗教・文化が絡み合う巨大な連動装置であったことがよく見えてきます。五国同盟という一語の背後には、危機の中で均衡を求めた人びとの試行錯誤と、その代償が鮮烈に刻まれているのです。

