オランダ・ベルギー侵入(ドイツ) – 世界史用語集

「オランダ・ベルギー侵入(ドイツ)」とは、第二次世界大戦中の1940年5月10日にドイツ国防軍が中立国オランダ・ベルギー(およびルクセンブルク)へ同時侵攻した出来事を指します。英仏連合軍を北部低地へ引き寄せる陽動(作戦ドルト:いわゆる「シックルカット=鎌の一撃」の前段)としての意味と、オランダを短期で屈服させ北海岸を確保するという戦略目的が重なっていました。空挺部隊と滑空機、機甲部隊と急降下爆撃、無線と機動の連携で従来の要塞・中立外交を一気に突破し、5月14日のロッテルダム爆撃と降伏勧告、5月15日のオランダ本土の降伏、5月28日のベルギー降伏、続く英仏軍のダンケルク撤退(5月26日〜6月4日)へと雪崩を打つように戦局が進みました。中立と堅陣に依拠した戦間期の安全保障観が、電撃的な結合兵科戦術の前に崩れた象徴的事件です。

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背景と作戦構想—シュリーフェンの影と「鎌の一撃」、中立破りの決断

第一次世界大戦でドイツはベルギー中立を破ってフランスに侵攻し、連合国の対独認識とベルギーの国土破壊を招きました。戦間期、ベルギーとオランダは中立を再確認し、ベルギーは1936年に仏との軍事同盟から距離を置き「厳正中立」を採用します。フランスはマジノ線を整備し、アルデンヌの森林地帯は「機甲には不適」と見なされました。ドイツ側ではポーランド侵攻(1939年)後に西方攻勢が検討され、当初は第一次大戦型の北方主攻(低地諸国経由)案が優勢でしたが、マンシュタインがアルデンヌ経由でセダンに突破口を開き、側面から連合軍主力を包囲する「シックルシュニット(鎌の一撃)」案を提唱し、ヒトラーの採用するところとなりました。

この主計画(作戦「黄」=Fall Gelb)において、オランダ・ベルギー侵入は二重の役割を担いました。第一に、英仏連合軍をベルギー平野に誘い出す「磁石」となって北上させ、主力をパリ方面から遠ざけること。第二に、北海岸とオランダの飛行場・港湾を掌握し、英本土や仏北部への航空・海上拠点を得ることです。ベルギーの要塞エーベン・エメール(リエージュ近郊)はアルベール運河の要衝で、これを迅速に制圧して橋梁を確保すること、オランダでは首都圏・ロッテルダム周辺の橋梁・飛行場を空挺で奇襲し政府と王室の退避・指揮を麻痺させることが、最初の焦点となりました。

侵攻の開始とオランダの戦い—空挺奇襲、ロッテルダム爆撃、5月15日の降伏

1940年5月10日未明、ドイツは宣戦布告なしにオランダ・ベルギー・ルクセンブルクへ侵入しました。オランダでは第7航空師団と第22歩兵師団(空輸)が、ワッセナール、ヴァールハーフェン、ヴァールブルフ、スヒープホール、イーペンブルフなどの飛行場や橋梁を奇襲し、ハーグの政府・王宮地区への空挺降下も試みられました。オランダ軍は頑強に反撃し、ハーグ周辺の空挺部隊は多くが孤立・捕虜となりますが、マース川下流域やロッテルダムの橋梁はたびたび争奪され、都市部での市街戦と交渉が続きました。

北と東では、ドイツ第18軍がグレーベ線・イーゼルメーア沿岸・フローニンゲン方向から圧力を強め、オランダの国境陣地は航空支援と砲兵の集中で徐々に崩れます。5月13日にはドイツ装甲先鋒が南方でフランス国境へ達し(セダン突破)、オランダに対する圧迫も心理的に増幅されました。5月14日、ロッテルダムで交渉が難航する中、ドイツ空軍は市中心部に急降下爆撃を加え、大火災が旧市街を焼き尽くしました(ロッテルダム爆撃)。この示威は、ユトレヒトなど他都市への爆撃警告と結び付けられ、被害拡大を恐れたオランダ司令部は翌15日早朝、ワーヘニンゲンで降伏文書に調印しました(ただしゼーラント州の一部と海外植民地は継戦)。女王ウィルヘルミナはすでに英国へ亡命し、亡命政府がロンドンで活動を開始します。

ベルギー戦線—エーベン・エメール、アルベール運河、沿岸からフランドルへ、5月28日の降伏

ベルギーでも5月10日、ドイツ空挺部隊が要塞エーベン・エメールの砲座・通気孔を滑空機で奇襲し、携行成形炸薬や爆薬で制圧、アルベール運河の橋梁障害を素早く無力化しました。これは世界初級の滑空奇襲の成功例として知られ、背後の機甲・歩兵が迅速に渡河・展開する決定的な条件を整えました。ベルギー陸軍と英仏連合軍はディル川線(ルーヴェン〜メヘレン〜アントウェルペン)で防御態勢をとり、英空軍は上空で奮戦しましたが、主力はフランス北部へ誘導されつつあり、アルデンヌ経由でセダンに集中したドイツ装甲集団の側面機動には対応が遅れました。

5月13〜14日のセダン突破で、ドイツの機甲先鋒はマース河を越えて一気に英仏軍の背後に回り込み、アラスの反撃(5月21日)も限定的成果にとどまると、連合軍はフランドル沿岸へ圧縮されていきます。ベルギー国王レオポルド3世は軍の統帥権を保持したまま、英仏との協同に苦心しましたが、補給・士気・包囲の圧迫は限界に達し、ダンケルクからの撤退作戦(ダイナモ)発動と並行して、ベルギー軍の戦線は崩壊の瀬戸際に立たされました。5月28日、国王は単独でドイツへの降伏を決断し、ベルギーは占領下に入ります(これに抗議して政府は亡命)。この決断は戦後政治でも深い亀裂を残すことになりました。

戦術・技術・情報—結合兵科の実演、宣伝と心理戦、補給の影

オランダ・ベルギー侵入の軍事史的意義は、空・陸の結合兵科運用が要塞と中立を無力化した点にあります。滑空機・空挺で橋梁と要塞の「キー」を無血に近い形で奪い、直ちに急降下爆撃と砲兵集中で周辺の抵抗を粉砕、無線・オートバイ伝令・装甲偵察で先頭の判断が後方より速く回る「指揮の循環短縮」を実現しました。ロッテルダム爆撃のような都市破壊と降伏勧告の結合は、物理的打撃と心理的威嚇を同時に狙う方式で、以後の総力戦を画する手段となります。

ただし、電撃戦は無敵ではありませんでした。オランダでのハーグ空挺作戦は地上反撃により多くが失敗し、航空輸送機(Ju 52)の損失はドイツ空輸能力に痛手を与えました。ベルギーでも、要塞群の多くは正面攻撃では高いコストを強いたはずで、エーベン・エメールのような奇襲成功が作戦全体を大きく左右したことは、偶発と準備の綱引きを示します。補給・道路・橋梁能力の制約も明確で、セダン以西の「追撃」が泥濘・渋滞で鈍れば、連合軍の再結集を許した可能性もありました。すなわち、速度は偶然性と紙一重で、その綻びを埋めたのが現地の即興性と指揮の裁量だったのです。

結果と占領—ダンケルク、フランス崩壊への連鎖、占領統治とレジスタンス

低地諸国への侵入は、ダンケルク撤退という歴史的作戦を誘発し、30万超の兵士が英本土へ退避することを可能にしました。人的コアが保全されたことでイギリスは戦い続ける基盤を維持し、バトル・オブ・ブリテンへと続きます。他方で、フランス本土防衛の主力が北へ引き出された結果、セーヌ以南の防備は手薄となり、6月14日にパリ陥落、22日にフランス休戦と、欧州大陸の勢力図は劇的に書き換えられました。

オランダ・ベルギーは占領下に置かれ、行政・経済・社会はドイツの統制に組み込まれます。ユダヤ人迫害・強制労働動員・検閲・配給などが進み、オランダでは鉄道ストや地下新聞、亡命政府の呼びかけによる抵抗が組織され、ベルギーでも連絡網や破壊工作、亡命軍の形成が続きました。協力と抵抗の間で揺れる日常は、人々の選択と恐怖、利害が複雑に絡む「占領の社会史」を形づくります。解放は1944年以降、連合軍の進撃(ノルマンディー上陸、マーケット・ガーデン作戦)とともに段階的に進み、1945年春に欧州戦争が終結しました。

位置づけ—中立の終焉と近代戦の総合、記憶の継承

1940年5月の侵入は、戦間期に構築された「中立で戦争を回避できる」という希望を打ち砕き、航空・機甲・空挺・砲兵・通信・宣伝を束ねた近代戦の総合が政治・外交・都市生活を直撃する時代の到来を示しました。エーベン・エメール、ロッテルダム、ダンケルクという固有名詞は、堅固な要塞や古都の街区が意思決定の遅さの前に脆弱であること、同時に撤退や救出が戦略的勝利となり得ることを象徴します。敗北の速度は、行政・補給・通信・避難の準備の差によって増幅され、災害対応にも通じる教訓を残しました。

今日、オランダとベルギーでは、戦没者追悼と都市の復興計画、博物館や記念碑、学校教育で侵入と占領の記憶が継承されています。ロッテルダムのモダンな都市景観は、破壊後の再生が形に残った例であり、橋梁・水路・港湾の重要性は、戦時と平時を貫くインフラの価値を語ります。中立・同盟・抑止・避難・レジリエンスといった概念を結び付けて考えるとき、1940年のオランダ・ベルギー侵入は、過去の事件であると同時に、現在の私たちの制度選択に問いを投げかける鏡でもあるのです。