オランダ領東インドは、インドネシア諸島におけるオランダの支配を指す名称で、17世紀初頭のオランダ東インド会社(VOC)による商業帝国から、19世紀以降のオランダ王国の植民地政府へと性格を変えながら、1949年の主権移譲に至るまで続いた統治の総体を意味します。香辛料・砂糖・コーヒー・ゴム・錫・石油などの資源と海上交通の要衝をめぐる利害が絡み、アジア海域の都市やイスラーム学術網、華人商人、在地王侯、ヨーロッパ列強が交差する舞台でした。日本史では長崎出島の上位機関としてバタヴィア政庁がたびたび登場し、近代史では強制栽培制度や「倫理政策」、アチェ戦争や民族運動、そして日本軍占領と独立戦争が教科書の重要項目として扱われます。オランダ領東インドという枠組みを理解することは、会社帝国と近代国家のあいだで揺れ動く植民地支配の仕組み、在地社会の統合と抵抗、世界経済の変動が生活をどう変えたかを読み解く手がかりになります。
成立と展開—VOCの会社支配から王国の植民地へ
1602年に設立されたオランダ東インド会社(VOC)は、アジアにおける貿易独占・要塞建設・開戦講和・貨幣鋳造といった準国家的権限を与えられた株式会社でした。1619年、総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンがジャワ島のジャヤカルタを攻略・再編してバタヴィア(現ジャカルタ)を建設し、以後ここが政庁・海軍基地・会計の中枢となりました。VOC支配の重点は、モルッカのナツメグ・メース、バンダの香辛料、スマトラの胡椒、ジャワの砂糖と米、スラウェシの米や木材、インドの綿布、台湾の砂糖、日本の銀・銅などを、契約・専売・封鎖・武力で結び付ける「海上ネットワーク」の掌握にありました。
VOCは在地の王権(マタラム、バンテン、バリ、ゴワ、ティドレ・テルナテなど)と婚姻・条約・戦争を通じて関係を築き、都市や港に商館・要塞を置いて交易を統制しました。台湾のゼーランディア城(1620年代〜1662年)や長崎の平戸・出島商館も、バタヴィアの指揮下にありました。しかし18世紀後半、英仏との戦争や腐敗・負債の累積で会社は疲弊し、1799年に解散、領地と債務はオランダ国家に移管されます。ナポレオン期を経てオランダ王国が再建されると、19世紀前半には行政区画の整備、常備軍(蘭領東インド陸軍=KNIL)の創設、裁判・税制の再編が進み、会社支配から国家植民地へと性格が転換しました。
こうした国家統治の象徴が、1830年代からジャワを中心に導入された「強制栽培制度(Cultuurstelsel)」です。農村は地租負担の代わりに輸出作物(コーヒー、砂糖、藍、茶、タバコなど)を政府指定の面積で栽培し、低価格で政庁に納入させられました。制度はオランダ本国の財政を潤し、鉄道・運河・堤防・教育への投資を支えましたが、ジャワ農村の負担は過重で、飢饉や債務、土地の荒廃を招きました。19世紀後半には自由主義の潮流のもと民間プランテーションや鉱山が拡大し、北スマトラやボルネオではタバコ・ゴム・ヤシ油・錫などの大農園・鉱山が広がります。契約移民(苦力)や監督制度が導入され、労働と衛生の問題が深刻化しました。
20世紀初頭、オランダは批判に応えて「倫理政策」を掲げ、教育・灌漑・移住(トランスミグラシ)を柱に統治の道徳的正当化を図りました。師範学校・法学校・医学校が整備され、灌漑事業や道路・鉄道・港湾の近代化が進みましたが、高等教育と高級官吏への登用はなお限定的で、政治参加は厳しく制限されました。皮肉にも、この近代化が都市中間層と民族運動の担い手を育て、イスラーム系のサレカット・イスラーム、知識人団体ブディ・ウトモ、さらには共産党や国民党(スカルノ)など多様な運動の台頭につながっていきます。
統治機構と社会—間接統治、二重法制、人種・宗教・商業の力学
植民地政府の頂点には、バタヴィアの総督(Governor-General)と諮問評議会が置かれ、各地にはレジデンシ(県)・アフデリング(郡)単位でオランダ人官吏が配置されました。統治の基本は「間接統治」で、在地の王侯・貴族(プリアイ)・郡長・村長といった在来エリートを行政の末端に組み込み、徴税・治安・労役動員に従事させました。司法制度は欧人・外国東洋人(華人・アラブ)・在地住民で別建ての裁判所を擁する「二重法制」となり、居住区分や通行・営業許可も人種カテゴリに依存しました。これにより、都市社会は「欧人(オランダ人・インド系欧人=インド)/華人/土着」の階層分化が固定化し、賃金・教育・居住・衛生で格差が拡大しました。
華人共同体は、商業・金融・中間搾取の担い手として重要でした。政庁はカピタン・シナ(華人頭)制度を通じて納税・治安・通商を管理し、米・砂糖・酒の専売や農産物流通に関与しました。一方、イスラームは社会統合の要で、メッカ巡礼やアズハル留学のネットワークを通じて思想・書籍・人材が往還し、近代教育・婦人運動・反植民地主義の潮流と結び合わさっていきます。キリスト教会やミッション系学校も医療と教育を通じて一定の役割を果たしましたが、宗教と民族の線引きはときに排外主義や暴力を誘発しました。
都市文化は多言語の坩堝でした。行政や高等教育ではオランダ語、商業や日常ではマレー語(後のインドネシア語)がリンガ・フランカとなり、ジャワ語・スンダ語・バリ語など在地言語と併存しました。新聞・パンフレット・演説は政治動員の媒体となり、検閲と地下出版のせめぎ合いが続きます。映画・ラジオといった新メディアは大衆文化を広げ、民族運動の感性を育てました。
経済・インフラ・文化—プランテーションと鉱業、鉄道と灌漑、学知と表象
経済は輸出一次産品に大きく依存していました。ジャワの砂糖・コーヒー・茶、スマトラのタバコ・ゴム・パーム油、バンカ島・ビリトン島の錫、東カリマンタンの石炭、スマトラ北部や東部の石油(ロイヤル・ダッチ=シェル系)が外貨を稼ぎ、アムステルダムやロッテルダムの商社・保険・船会社と結びつきました。港湾(タンジュンプリオク、スラバヤ、メダン)や鉄道・道路、電信・電話が整備され、都市の卸売市場・公設市場・倉庫・銀行が結節点となりました。灌漑網は稲作と砂糖の二毛作を可能にし、農村社会の季節リズムを変えましたが、水利の支配と地代・小作をめぐる紛争も生みました。
教育・学知の領域では、法学校や技術学校、師範学校が官吏・技術者・教師を育て、地理・民族誌・言語学・植物学の研究が欧州学界と連動して蓄積されました。博物館・植物園・動物園・統計年鑑は、植民地を「見える化」する装置であり、同時に在地の知と自然を編成・収集する権力でもありました。文学や絵画、写真や旅行記は、熱帯の風土を異国趣味と近代の進歩の両義性で描き出しました。こうした表象は、後のナショナル・アイデンティティ形成でも参照され、批判の対象ともなります。
衛生・医療では、コレラ・マラリア・ペスト・腸チフスなどへの対策が進み、上水道・下水・ごみ収集・検疫が都市インフラに組み込まれました。プランテーションの労働環境改善は遅れ、労働争議や移民労働の待遇をめぐる国際批判が高まりました。社会政策としての低所得住宅や市場整備、米価の安定化策なども試みられましたが、都市と農村、階層間の格差は根強く残りました。
占領と独立—日本軍支配、民族革命、主権移譲へ
1942年、日本軍は太平洋戦争の一環として蘭領東インドを占領し、資源(石油・ゴム・錫)の確保と軍政を実施しました。オランダ人官吏・民間人は抑留され、インド系欧人や華人も打撃を受けました。日本軍は青年組織(郷土防衛義勇軍PETAなど)や宣伝、教育を通じて民族主義者との協働を試み、スカルノやハッタの政治的影響力は拡大します。一方、強制労働(ロームシャ)や食糧徴発、検閲と弾圧は住民に深刻な被害を与えました。
1945年8月の日本の降伏直後、スカルノとハッタは独立を宣言し、インドネシア共和国の成立を発表します。オランダは復帰を図りますが、四年にわたる独立戦争(共和国側の「革命」、オランダ側の「警察行動」と称した二度の大規模作戦を含む)が展開され、国際世論と米英の圧力、国連の仲介の中で交渉が進みました。1949年12月、ハーグ円卓会議を経て主権移譲が実現し、オランダ領東インドは終焉を迎えます(西イリアン=西パプアの帰属は1960年代まで持ち越し)。
主権移譲は、植民地期に形成された制度・人材・インフラの多くを引き継ぎながら、民族的枠組みへの再編を意味しました。官僚・軍・企業はオランダ語からインドネシア語へと行政言語を切り替え、教育制度や法律の改正が進みます。オランダ側では混血・欧人層(インド)やユダヤ人、在地に根ざしたオランダ人の多くが本国へ移住し、記憶とアイデンティティの問題が戦後社会に持ち込まれました。インドネシア側では、地方・宗教・民族の多様性を抱えつつ、言語(インドネシア語)と教育が統合の軸を担うことになりました。
総じて、オランダ領東インドは、海のネットワークが会社・国家・在地社会を結び替え、近代世界経済の変動が生活を揺らすなかで形成された「帝国の実験場」でした。収奪と近代化、抑圧と協働、統合と抵抗が重なり合う経験は、インドネシアの国家形成と地域社会の記憶に深く刻まれています。制度やインフラ、教育や言語といった遺産の読み替えと、暴力と差別の記憶の継承—その両面を併せて捉えることで、この歴史の全体像が見えてきます。

