国学 – 世界史用語集

国学(こくがく)は、江戸時代中期から後期にかけて日本の古典(『古事記』『日本書紀』『万葉集』『古今伝』『源氏物語』『延喜式』『祝詞』など)を、外来思想の枠組みをできる限り外して読み直そうとした学問の総称です。狙いは、漢(儒仏)や宋学的な道徳体系に先回りして「意味」を当てはめるのではなく、言葉や文献の姿そのものに即して〈古の心〉を掘り起こすことにありました。加田の厚真(荷田春満)、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤の四人がとくに著名で、各人の系譜が私塾・門人網・出版を通じて町人・武士・神職・農民にまで広がりました。方法は注釈・校勘・語彙史・かな遣いの復原・歌学・物語注釈など多岐に及び、理念面では「真(まこと)」「もののあはれ」「言霊」「大和心」「ますらをぶり/たをやめぶり」といったキーワードが中核を占めます。近代に入ると国学は、神道復興や「国体」論、尊王論の思想資源として用いられ、明治国家の形成に影響を与えましたが、同時にナショナリズムの暴走を支えた側面ゆえに批判的検討の対象ともなってきました。今日では、国学は〈江戸の文献学革命〉としての意義と、近代国家に接続される過程で生じた歪みの双方を視野に入れて再評価されています。

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起源と展開──「漢意」を退けて古典へ還る江戸の文献学革命

端緒は、近世初期からの古典注釈の刷新にあります。契沖(けいちゅう)は『万葉代匠記』で和歌を仏教・儒教の道徳枠から解放し、用字・音義・歌枕を実証的に解釈する姿勢を確立しました。荷田春満(かだのあずままろ)は『国学』の語の用い手として知られ、古代語と祝詞・神祇制度の復原に勤め、神祇官の末裔として朝廷祭祀の伝統に光を当てました。彼の門からは、歌学と古語学を鍛えた弟子たちが出て、江戸・上方・諸国に私塾をひらきます。

賀茂真淵(かものまぶち)は遠江・浜松に拠り、『万葉集』を核に「ますらをぶり」(雄健でおおらかな感情)を提唱し、『古今集』以後の技巧・観念性を相対化しました。古代語の音韻・活用・助詞の用法にこだわり、言語の運用から心性の復原を試みた点に独創がありました。伊勢松坂の医師・本居宣長(もとおりのりなが)は真淵の短期指導を受けたのち、独自の講釈法を完成させ、『古事記伝』『源氏物語玉の小櫛』『うひ山ぶみ』などで、古伝承・物語・歌の読解を横断しました。鈴屋(すずのや)と呼ばれる私塾には武士から町人・女性まで多様な学習者が集まり、貸本や往来物とともに講義のネットワークが広がります。

平田篤胤(ひらたあつたね)は宣長門の「平田国学」を形成し、霊学・神学的色彩を強め、神代学・来世観・幽冥観の体系化に踏み込みました。篤胤は外国事情や蘭学知識も吸収して宇宙観を広げ、在地の神職・農工商の信者網を組織。尊王思想・復古神道の社会的普及に寄与し、幕末の尊王攘夷運動に精神的糧を与えました。この四人に加え、伴信友、上田秋成、谷川士清、香川景樹ら、地域とジャンルを横断する注釈者群像が、注釈・辞書・史料蒐集を通じて国学を実体化させました。

国学は儒学・仏教との対立だけでなく、しばしば相互作用を伴いました。宣長は朱子学の普遍的道徳が〈古〉の具体性を覆い隠すと批判しつつも、論証の厳密さや語義の区分では宋学的技法を受け継ぎ、仏教語彙の分析も怠りませんでした。蘭学との関係でも、篤胤が西洋科学の宇宙観を参照して神学を再構成するなど、閉鎖的な排外に終始したわけではありません。要するに、国学は「漢意(からごころ)を退ける」と言いながらも、江戸学術のリソースを自在に用いて古典へ向き合った、きわめて学術的な運動でした。

学説の中身──「もののあはれ」「言霊」「まこと」と注釈の技法

本居宣長の中核概念は「もののあはれ」です。これは感傷主義ではなく、世界の事物が人の心に引き起こす不可避の感応を、飾らずに受け止める感性を指します。倫理命令で心を矯めるのではなく、心が震えるその瞬間の言葉(歌)を大切にする態度であり、『源氏物語』を古典の頂点と見たのも、その繊細な感応の記述力に理由がありました。宣長はまた、「まこと」を人為の理屈より先にある真情として捉え、道徳の外装を剥いで、言語と習俗の内部から〈古の心〉を復原しようとします。

賀茂真淵の「ますらをぶり/たをやめぶり」は、万葉的な雄健さと平安的な繊細さの対照概念で、歌風の時代差を説明する枠組みでした。彼は助詞・助動詞の用法、語尾の韻律、枕詞・序詞の働きに注目し、言葉の運用から時代精神を読み出す、今日の言語史・文学史に通じる方法を提示しました。荷田春満は仮名遣い・古語音を重視し、祝詞の語法・神名の表記を精査して、神祇制度の古層に迫りました。

平田篤胤は「言霊」に新しい神学的位相を与え、言葉の響きに霊的効力が宿るという観念を体系化しました。同時に、霊魂観・死生観・他界観を『霊能真柱』『古道大意』などで論じ、神代に始まる日本の道(古道)を普遍宗教として提示しようとしました。これらは在地の神社祭祀・講社・民間信仰と結びつき、庶民の宗教実践と国家意識の層を交差させます。

技法面では、国学は徹底した文献学の学でした。異本比較(校勘)、旧仮名遣いの復原、連歌以前の和歌語法の再建、地名・歌枕・年中行事の実地調査、祭祀文(祝詞)と律令文書の比較などの方法が磨かれました。宣長の『古事記伝』は、本文の切り分け・語義解説・神名の由来・地名比定を丹念に積み上げる注釈で、叙述の理路は近代的注釈学に通じます。国学は情緒の学というより、精密な言語・史料の学でもあったのです。

社会的広がりとネットワーク──私塾・出版・祭祀・女性の参与

国学が江戸社会に浸透した背景には、都市と在郷をつなぐ私塾ネットワークと出版文化の発達がありました。鈴屋・春満門・真淵門・篤胤門の塾は、往来物・貸本屋・往復書簡を介して知を循環させ、地方の神職・郷士・豪商の家々に「学びの場」を形成しました。門人の中には、地誌・地名辞典・祭祀手引・古語辞書を編む者も多く、地域史と国学が融合する動きが活発化します。祭礼や年中行事の復原は、村落共同体の凝集に働き、神社の修理や社殿再建への寄進・動員を促しました。

女性の参与も見落とせません。宣長は女性読者を想定した講釈を多く残し、恋歌・物語の読解で性差を抑圧する道徳を退けました。上田秋成は『雨月物語』のように古典世界を怪異譚へ翻案する創作で、国学的教養を文学的に結晶させます。国学の成果は、和本の挿絵・版本体裁・仮名の表記にも反映し、視覚文化の領域でも「古の日本らしさ」を刷新しました。

一方で、武家政権との関係は均一ではありません。幕府儒学(朱子学)との緊張は続きましたが、国学者が藩校の教官や神祇行政の助言者として登用される例も増え、〈公〉の学としての顔も帯びました。下級武士や神官層にとって、国学は身分的停滞を突破する文化資本であり、尊王思想と接続すると政治動員の言語にもなります。

影響と評価──尊王攘夷から国家神道、そして再評価へ

幕末には、国学は尊王攘夷の思想的支柱の一つとして作用しました。とりわけ篤胤門や水戸学(史学系の尊王論)との交差が現場の運動を活性化し、勤王の志士・神職・郷士のネットワークが形成されます。明治維新後、神祇官の再編、神社制度の整備、祝祭日の制定、教育勅語の徳目形成に、国学の語彙が投入されました。国家神道が制度化される過程では、宣長や篤胤のテクストが選択的に引用され、「国体」「大和心」「万世一系」などのフレーズが政治的機能を帯びます。

しかし、この近代化の接続は多くの問題も孕みました。注釈学としての複眼性や言語の多様性は、国家理念の下で単線化され、他宗教・他者への排除や植民地支配の正当化に国学語彙が援用される局面も生じます。近代以降の国学受容は、その創造性と危険の両面を視野に入れて検討されるべきだとされ、戦後の研究は文献学・語彙史・宗教史・政治思想史の横断で国学を読み替えてきました。

比較の視点に立てば、国学はヨーロッパの古典復興・国民文化の発見(人文主義やロマン主義)と通じる面を持ちます。近世の印刷・学校・書誌学の成熟が古典回帰を可能にしたという点、言語・民俗・神話の研究が〈国〉の想像に寄与したという点で、同時代的な現象でした。他方、日本固有の神道祭祀・和歌文芸・仮名文化の厚みが、国学の独自性を形づくっています。

今日、国学の成果は、古典本文の校定、古語辞典・地名辞典・祝詞集成、歌学の基本枠組みなどとして学術の基盤を支え続けています。同時に、国学が近代国家に取り込まれる過程で生じた問題(排外性・性別役割の固定・植民地主義との共鳴)は批判的に検証され、古典を〈固定観念の資源〉にしない読みの工夫が試みられています。国学は、江戸という都市・出版・私塾のダイナミズムが生んだ文献学革命であり、その後の政治的運用の歴史と切り離さずに読むことで、多面的な姿が見えてきます。