「北ボルネオ」は、東南アジアの大島・ボルネオ島北端部(現在のマレーシア・サバ州とラブアン)に相当する歴史地理用語で、とくに19世紀末から第二次世界大戦後にかけて存在した英領北ボルネオ会社の統治領(British North Borneo, 1882–1946)および、その後の英直轄植民地(1946–1963)を指して用いられます。スールー王国とブルネイ王国の宗主権のはざまで発展した沿岸港市の交易圏に、イギリス資本の植民会社が入り、林産・プランテーション開発と鉄道・港湾の建設を進めたのが近代期の骨格です。第二次大戦中は日本軍が占領し、終戦後は英直轄の「北ボルネオ植民地」として再建、1963年にマラヤ連邦・サラワクとともにマレーシアを結成してサバ州となりました。現在もコタキナバル(旧ジェッセルトン)やサンダカンの都市景観、ボルネオ鉄道、森林資源や多民族社会の構成に、北ボルネオ期の遺産が刻まれています。
地理・名称と前史:ブルネイとスールーのはざまに
北ボルネオは、地理的にはキナバル山(東南アジア最高峰の一つ)を中心に、南シナ海・スールー海・セレベス海に面した沿岸と、内陸の山地・熱帯雨林から成ります。沿岸には早くから交易港市が発達し、中国・東南アジア・イスラーム世界を結ぶ香料・樹脂・蜂蝋・真珠・ラッカ・ガルー(沈香)・タバコ・米・陶磁器などの交換が行われました。近世にはブルネイ王国が西岸を、スールー王国が東北岸・島嶼部を中心に影響力を及ぼし、在地のバジャウ(海民)・ドゥスン/カダザン・ムルットなど多様な諸集団が海上移動と山地農耕・焼畑・狩猟採集を組み合わせて生活していました。
19世紀に入ると、オランダがボルネオ南部・西部で勢力を固め、イギリスはサラワクのラージャ(白人王)ブルック家の成立(1841年)やラブアン島の獲得(1846年)などを通じて、北岸への関与を深めました。北部の沿岸首長たちは、内陸への支配が限定的で、宗主権は重層的でした。この「緩い支配」の空間に、欧米商人・宣教師・探検家・会社組織が入り込み、徐々に国際政治の秩序へ組み込まれていきます。
会社統治の時代:英領北ボルネオ会社(1882–1946)
近代的な領域国家としての北ボルネオの出発点は、英領北ボルネオ会社(British North Borneo Company, BNBC)の勅許(1881)にあります。発端は、イギリス人商人アルフレッド・デントらが獲得したブルネイおよびスールーからの譲渡・租借契約で、これを基礎にロンドンで会社が設立され、翌年に勅許領としての統治権を認められました。会社は本社をロンドンに置き、現地の首都を東岸のサンダカンに定め、のちに西岸の新港ジェッセルトン(現コタキナバル)を整備して交通の結節点としました。
統治の中核は、会社が任命する総督・理事会と小規模な官僚組織でした。治安維持には警察・準軍事組織を用い、在地首長との協定や慣習法(ネイティブ・コート)を一定程度尊重しつつ、課税(人頭税・家屋税・輸出税)、土地制度(登記とコンセッション)、司法・教育・医療の制度を段階的に導入しました。宣教師団体は学校・診療所を設立し、沿岸部ではキリスト教が浸透する一方、イスラームは沿岸海民・都市の商人層に強固に根づき、内陸の諸集団は慣習信仰や後発の布教を併存させました。
経済開発の柱は、(1)森林資源の伐採・輸出(ビリアン〈鉄木〉、ラワン〈フタバガキ〉など熱帯材)、(2)プランテーション(タバコ、のちにゴム、コプラ、サゴ、少量のコーヒー・ココア)、(3)野生産物・樹脂・鳥の巣(燕窩)などの交易でした。サンダカンはタバコ・木材の積出港として繁栄し、中国・シンガポール商人が貿易金融を担い、華人移民(客家・広東・福建系)の農園労働・小商業進出が顕著になります。労働力は中国系・ジャワ系・在地諸民族を組み合わせ、契約労働(苦力)と自営小農の二極構造が広がりました。
インフラ整備では、北ボルネオ鉄道(ボルネオ鉄道)が1890年代から敷設され、内陸のパンタイ・ボーフォート—テノム—ケリャス方面と沿岸港を結びました。急峻な山地と多雨の地形条件の下、短区間ながら輸送力を備え、ゴム・タバコ・米・木材の搬出・人の移動を支えます。道路・桟橋・灯台・通信(電信)が整い、港湾ではサンダカンに加えてジェッセルトン、ラハ・ダトゥ、クダットなどが拠点化されました。
会社統治の特徴は、「軽量な官僚制+特許資本」による分権的開発でした。すなわち、広大な内陸への直接統治は限定しつつ、沿岸・河口の拠点支配とコンセッション(土地・伐採権)の付与で実業を誘導し、在地の首長層を協力者として位置づける方式です。このため、治安が不安定な地域では反乱・盗伐・海賊行為の鎮圧に苦慮し、火災・疫病・価格変動に脆弱なモノカルチャー経済のリスクも負いました。第一次世界大戦期にはゴム需要で一時的繁栄を享受したものの、世界恐慌下では価格暴落に揺さぶられ、会社財政は逼迫していきます。
日本占領・英直轄・マレーシア加入:政治秩序の転換
1941年末、日本軍は英領ボルネオ・サラワク・北ボルネオに侵攻し、1942年初頭までに占領を完了しました。北ボルネオではサンダカン・ジェッセルトンが掌握され、資源(石油は主にブルネイ・ミリ側だが、木材・ゴム・食糧)は戦時経済に組み込まれました。住民は徴用・配給・統制の下に置かれ、反日蜂起(例:ジェッセルトン近郊の抵抗)も発生しました。連合軍は終盤に豪軍が中心となってボルネオ上陸作戦を展開し、1945年に解放されますが、戦闘と焦土化、飢餓と疫病は地域社会に深い傷を残しました。
戦後、英領北ボルネオ会社は疲弊と再建費用の負担から統治継続を断念し、1946年にロンドン政府に領土を移譲、北ボルネオは英直轄の「クラウン・コロニー(北ボルネオ植民地)」となりました。同年、ラブアン島もこの植民地に編入され、行政の効率化が図られます。英植民地政府は戦災復旧と行政組織の再建、教育・医療・土木の近代化、ゴム・木材の輸出回復に注力し、地方評議会・立法評議会の段階的拡充を通じて住民参加を広げました。宗教・慣習法の尊重と近代法の併存は継続され、内陸道路の改良、鉄道の復旧、港湾の拡張などが進みます。
1963年、北ボルネオはサラワク・マラヤ連邦・シンガポールとともにマレーシア連邦を結成し、「サバ州」として編入されました(シンガポールは1965年離脱)。編入に際しては「20項目合意」と総称される自治・宗教・言語・移民管理・土地権益に関する特則が整理され、連邦制の下での地域自律が約されました。他方、フィリピンは歴史的にスールー王国の宗主権を根拠にサバに対する主張を保ち、今日まで外交上の懸案として残っています。1960年代半ばにはインドネシアが「マレーシア対決(コンフロンタシ)」を仕掛け、ボルネオ島国境で武力・宣伝戦が展開されましたが、最終的に収束しました。
マレーシア加入後、サバ州は多民族・多宗教の州として、石油・ガス(主産出はサラワク側だがサバ近海にも資源)、林産、畜産・農業(パーム油、カカオ)、観光(キナバル山、ダイビング、自然保護区)を基幹とする経済に移行しました。急速な開発の一方で、森林減少・先住民の土地権・移民の定住と市民権など、社会・環境の課題も顕在化しています。
社会・経済・文化の像と遺産:北ボルネオが残したもの
北ボルネオ期の社会構成は、在地系(カダザン=ドゥスン、ムルット、ルングス等)、沿岸の海民(バジャウ、イランウン等)、マレー系、華人(客家・広東・福建)、少数の欧州系・印僑から成る多層社会でした。宗教はイスラーム、キリスト教(カトリック・プロテスタント)、伝統信仰が共存し、言語もマレー語・英語・華語・在地諸語が混在しました。会社・植民地政府は学校網(英語・マレー語教育)と医療・衛生制度を整備し、宣教団体は病院・孤児院・師範学校を運営しました。慣習法を扱うネイティブ・コートと近代裁判所の二系統は、土地・婚姻・相続をめぐる紛争処理に機能しました。
経済面では、タバコ—ゴム—パーム油という作物転換、木材輸出の拡大と規制、港湾・鉄道・道路の整備が地域空間を再編しました。サンダカンは一時「東洋の小香港」と呼ばれるほど交易が活発化し、ジェッセルトン(のちコタキナバル)は行政・交通の中心に成長しました。ボルネオ鉄道は区間こそ短いものの、内陸農村を外洋に結ぶ生命線となり、今日には観光鉄道としても活用されています。電信・郵便・気象観測の導入は、海難防止と交易の安定化に寄与しました。
一方、会社統治・植民地統治の負の側面として、在地の土地慣行と近代登記制度の齟齬、モノカルチャー経済の価格変動への脆弱性、伐採の過剰と森林減少、労働者管理の硬直性、都市と辺境の格差が挙げられます。第二次大戦の占領と戦闘は、都市インフラと人的資本に深刻な損害を与え、戦後の再建は長期に及びました。それでも、統治の枠組み(官僚制・地方評議会)、インフラ(港・鉄道・道路)、教育医療の制度、法文化(慣習法の位置づけ)は、サバ州の行政文化に濃く影を落とし続けています。
文化・記憶の領域では、キナバル山をめぐる信仰や在地の口承伝承、海民の航海術、木彫・織物・料理(米酒リヒン、海産物)など、多彩な遺産が継承されました。都市部ではコロニアル様式の公共建築、教会・モスク、華人会館・市場、桟橋群が、移行期の都市景観として残存・再生されています。博物館・アーカイブは北ボルネオ会社時代の地図・契約書・写真・標本を保存し、観光と教育の資源となっています。
外交・法的には、サバの地位をめぐるフィリピンの歴史的主張、連邦—州の財政分配、移民と市民権、環境保護・先住民土地権(NCR: Native Customary Rights)などが、北ボルネオ期に淵源をもつ課題として続いています。多民族の共存と資源開発、自治と連邦の均衡をいかに設計するかは、19世紀末から一貫するガバナンスのテーマであり、北ボルネオを理解することは、植民会社統治から国家建設へ至る東南アジア近現代史の縮図を読み解く手がかりになります。
要するに、「北ボルネオ」とは、ブルネイ—スールーの伝統秩序と、英帝国の会社統治—植民地統治、そして戦後の国家形成が層をなして重なった時間と空間の名称です。港市と森林、海民と山地民、イスラームとキリスト教、英語とマレー語が交差するその歴史は、今日のサバ州の社会を理解するための背骨であり、東南アジアの海域世界が近代世界システムに接続されていく過程を雄弁に物語っています。

