北ベトナム爆撃(北爆)は、ベトナム戦争期にアメリカ合衆国が主導し、北ベトナム(ベトナム民主共和国)の軍事・物流・産業・通信網などを標的として実施した大規模航空作戦の総称です。中心はジョンソン政権期の「ローリング・サンダー作戦(1965–1968)」とニクソン政権期の「ラインバッカーI・II(1972)」で、これに先行・付随する限定攻撃や機雷敷設、偵察・電子戦を含みます。目標は、(1)南ベトナムへの浸透・補給を断つ、(2)北ベトナム政権の戦意と交渉姿勢を変える、(3)南ベトナム軍(ARVN)や米軍地上戦を支援する、という三点に要約されます。しかし現実には、補給路の分散・地下化、対空網の強化(地対空ミサイルSAM・高射砲・レーダー照射)、中国・ソ連の後援、ホーチミン・ルートの柔軟な運用などにより、軍事的決定打は得られませんでした。北爆は、戦略目標と戦術・ルールの齟齬、国際政治・世論・外交の相互作用が生んだ「空からの戦争」の典型例として位置づけられます。
背景と始動:トンキン湾事件からローリング・サンダーへ
1964年8月のトンキン湾事件を契機に、米議会は大統領に武力行使の広範な権限を与える決議を可決し、段階的な報復と空爆のエスカレーションが始まりました。ジョンソン政権は全面戦争を避けつつ、圧力を高めて北側の行動変容を促す「制限戦争」の理念に立ち、標的・時期・兵器の選択をワシントンで細密に統制しました。これが、現場の柔軟性を奪い、政治的配慮が軍事効果を削ぐという構図を生みます。
1965年3月、ローリング・サンダーが本格化します。当初の標的は補給集積地、道路・鉄道・橋梁、通信施設、防空拠点などに限定され、ハノイ・ハイフォン中心部やダム・発電所など政治的に敏感な目標は長らく禁圧対象とされました。米空軍(タイ・南ベトナム基地)と米海軍航空隊(空母機動部隊)が主力となり、F-105、F-4、A-4、A-6などの攻撃機が出撃、空中給油・電子戦機・野戦救難(CSAR)体制が整備されました。北ベトナムは、ソ連供与のSA-2ガイドライン(SAM)とソ連・中国製レーダー・防空砲で迎撃態勢を急速に整え、レーダー照射に対抗するワイルド・ウィーゼル任務(対レーダー攻撃;Shrikeなど)の創設が急がれます。
ローリング・サンダーは、段階的に攻撃範囲を北上させつつ、たびたびの一時停止(ボンビング・ポーズ)や休戦提案とセットで運用されました。これは外交圧力の一環でしたが、北側に防空強化や補修・分散の時間を与える結果ともなり、効果の逓減を招きました。橋梁は代替の舟橋・フェリーで補われ、鉄道・道路は夜間・雨季の運行や側道・迂回路で維持、トラック輸送は密林・トンネル・地下倉庫によって損耗を抑えます。ホーチミン・ルート(ラオス・カンボジアを通る補給網)は枝葉のように増殖し、空爆で完全遮断することは困難でした。
攻撃と防空のせめぎ合い:技術・戦術・ルール
北爆の戦術的特徴は、攻撃側と防御側の迅速な適応競争にありました。米軍は、低高度侵入から中高度投弾、精密爆撃(レーザー誘導弾〈LGB〉の後期導入)、夜間・全天候攻撃(A-6、後にLORAN・レーダー爆撃)へと手段を拡張し、電子戦(ECMポッド、妨害機EA-6、囮発射)と対SAM戦(ARM、ワイルド・ウィーゼル)を発展させました。一方、北ベトナムは、SAM・レーダーの機動配置、擬装・デコイ、レーダー消灯・光学照準の併用、弾幕式高射砲の密度増加で対応し、ミグ戦闘機(MiG-17/19/21)による迎撃で空戦を挑みました。ハノイ・ハイフォン上空は、世界で最も高密度の対空火網のひとつへと変貌します。
ルール・オブ・エンゲージメント(ROE)は政治的制約の集積でした。学校・病院・宗教施設、都市中心部、ダム・水力発電所、港湾の一部は長期間攻撃禁止とされ、国境付近・中ソ境界への誤爆回避が厳命されました。これにより、標的選定は「軍事効果の最大化」より「政治的コストの最小化」に偏り、同一施設を繰り返し修復・再攻撃する消耗戦が常態化します。米軍の損失は、SAM・AAA・事故を合わせて増大し、救難作戦も高リスク化しました。捕虜(POW)となった搭乗員の問題は国内世論に重くのしかかり、反戦運動の象徴の一つとなります。
他方、北側の被害は軽くはありませんでした。道路・橋梁・燃料タンク・倉庫・発電設備・工場・港湾施設の破壊は物流に痛打を与え、都市周辺の避難・分散が進みました。住宅被害・民間人死傷も生じ、国内宣伝と国際世論戦で大きく取り上げられます。しかし、社会主義圏からの援助(資材・機材・技術者・防空兵器)と国内の動員体制により、修復速度はしばしば米側の想定を上回りました。結果として、北爆は「高いコストで限定的効果」という評価を免れず、1968年の爆撃停止とパリ和平交渉への移行へつながっていきます。
転機と再開:ラインバッカーI・IIと機雷敷設
1972年、北ベトナム軍の大攻勢(イースター攻勢)を受け、ニクソン政権は北爆を質的に再構成しました。ラインバッカーIでは、ハイフォン港の機雷敷設(海上交通遮断)と、鉄道・道路の結節点、発電所、貯油施設、操車場、橋梁など戦略的標的への大規模・継続的攻撃が実施されました。ここでレーザー誘導爆弾や精密誘導兵器の実戦投入が本格化し、タン・ホア橋など従来破壊困難だった堅固目標の破壊に成功します。電子戦の練度も上がり、SAMサイトへの抑圧(SEAD)が体系化されました。
同年末、和平交渉が暗礁に乗り上げると、ラインバッカーII(「クリスマス爆撃」)が発動され、B-52戦略爆撃機によるハノイ・ハイフォンへの集中的夜間爆撃が11日間にわたって行われました。B-52は重火網下で一定の損失を被りつつも、鉄道ヤード・発電所・防空司令通信などの中枢に打撃を与え、北側を再交渉に引き戻す効果を狙いました。作戦後、停戦合意(1973年パリ和平協定)に至り、米軍はベトナムから撤退します。ただし、北側の戦争継続能力・意志を根底から折るには至らず、1975年に南ベトナムが崩壊して統一が実現しました。
ラインバッカー期の新要素は、(1)港湾封鎖による外部支援の遮断、(2)精密誘導による要害破壊と付随被害の軽減、(3)ROEの相対的緩和による軍事効果の優先、でした。これにより、補給線に対する圧迫はローリング・サンダー期より高い効果を上げましたが、決定的な戦略的転換には届かず、最終的な帰趨は南側政権の政治・軍事的脆弱性に左右されました。
国際政治・世論と評価:空からの圧力は何をもたらしたか
北爆は、米国内外の政治・世論に強い反作用を生みました。国内では、反戦運動・報道・議会監視が政府の作戦権限に制約をかけ、徴兵制や戦費問題と絡んで大統領権力の再定義へとつながります。メディアは爆撃の映像・捕虜問題・民間被害を伝え、国民の分断が深まりました。国際的には、非同盟諸国や欧州の一部で批判が強まり、ソ連・中国は軍事・経済支援を拡大しました。一方、南ベトナムや周辺の反共国にとっては、北爆は一時的な軍事緩圧と心理的支えであり、米国のコミットメントの象徴でもありました。
戦略的評価は二分されます。否定的評価は、(a)政治主導の細かな統制が軍事効果を弱めた、(b)補給路の分散・地下化で遮断は困難、(c)北の戦意・能力を過小評価した、(d)付随被害・捕虜・損耗が政治的コストとなり、交渉力をむしろ相殺した、と指摘します。肯定的評価は、(e)ラインバッカー期に港湾封鎖と精密攻撃で交渉進展を引き出す圧力が機能した、(f)北側のインフラ・防空への損害が戦争遂行のコストを上げ、短期的に南側の防衛を支えた、などを挙げます。総合的には、「空爆のみで政治目標を達成することの難しさ」と「空爆を外交・封鎖・地上戦と連動させる統合戦の重要性」を示した事例といえます。
技術史的には、北爆は現代空戦の転換点でした。SEAD/DEAD(防空網制圧)、電子戦、精密誘導兵器、空中給油・CSARのコンバインド運用は、その後の湾岸戦争以降の空爆ドクトリンの基礎になります。防空側の分散・擬装・機動SAM・地下化も、以後の非対称防衛のテンプレートとなりました。戦時国際法・非戦闘員保護の議論も活発化し、目標選定・比例性・付随被害の評価手法が整備されていきます。
総じて、北ベトナム爆撃は、軍事テクノロジーと政治・外交が複雑に絡む総合事例でした。空からの力は、一定の圧力と軍事的効果を生みつつも、補給網の適応と国民動員、外部支援、交渉戦術に直面して単独では決着をつけられませんでした。制限戦争下のROE、世論・同盟・大国間関係への配慮、精密誘導兵器の導入、機雷封鎖の活用といった多くの要素が重なり合い、空爆は最後まで「政治の延長」として揺れ続けたのです。北爆を理解することは、現代の空からの介入の可能性と限界、エスカレーション管理と交渉の同期化、そして技術と倫理のせめぎ合いを考える手がかりとなります。

