「四書大全」 – 世界史用語集

「四書大全(ししょたいぜん)」は、明代初期に朝廷が主導して編纂・刊行した四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)の標準注釈集成で、朱子学(程朱学)の解釈を国家的に定本化し、科挙と学校教育で用いることを目的とした大型テキストです。永楽帝の号令のもと胡広(ここう)らが中心となって編集し、15世紀前半に完成・頒布されました。以後、明清を通じて受験者と授業現場の必携書として広く読まれ、四書の読み方・引用の仕方・論証の作法を事実上「公定化」する役割を果たしました。要するに四書大全は、古典の理解を国家が制度として整えた教科書であり、思想と試験、印刷と教育が結びつく近世東アジアの学知形成を象徴する文献です。

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成立と背景――永楽朝の国家編纂事業と朱子学の「公定化」

四書大全は、永楽帝(在位1402〜1424)が推進した一連の国家編纂事業の中核として構想されました。洪武・永楽期の明王朝は、天下の典籍を収攬し、学術の基準を示すことで皇朝の正統を可視化しようとしました。百科全書的事業『永楽大典』と並行して、経書の標準注釈を整えるプロジェクトが動き、『四書大全』『五経大全』『性理大全』という「大全」三部作が相次いで編まれます。編纂の中心には、翰林・礼部の高官で儒学に通じた胡広・陳循・楊士奇らが位置し、宋元以来の注釈・議論を渉猟して、朱子(朱熹)の集注体系を骨格としつつ、用字・典拠・語釈を揃える作業を進めました。

政治的意図は明快でした。第一に、学校と科挙のテキストを統一して学問の混乱を防ぐこと、第二に、程朱学を公式の教義として定着させ、異説・奇説を排除または周縁化すること、第三に、学問の権威を朝廷が掌握することです。元末の動乱を経て新王朝を打ち立てた明は、統治秩序の再建にあたり、経学の標準化を求めました。四書大全はその基準書として、各地の官学・書院・私塾へ頒布され、教官任用や試験命題の根拠として機能しました。

朱子の『四書集注』はすでに宋代から広く流通していましたが、四書大全はそれを「国家版」に仕立て直したと言えます。朱子の章句解釈を中核に置きながら、先行注の採否・語彙の統一・参照文献の配列を整理し、地方や学派による読みの揺れを許さない安定度を付与しました。結果として、明代の学問空間では「朱子の読み」が実質的に唯一の正解として扱われる傾向が強まり、後代の王陽明(王学)などの挑戦に対する基準点もここに置かれることになります。

構成と内容――本文・集注・語釈・類考の層を重ねる教科書設計

四書大全の紙面は、古典本文、朱子集注の抄録、諸家説の選択、語釈・音注、典拠の出典明記といった層で構成されます。版面は多欄構成を採ることが多く、中央に本文と主注、周囲に小字で語釈や典拠を回す設計で、読者は一目で原文・基本解釈・根拠資料を往還できるようになっています。難語には音(読み)を与え、地名・人名には出典を付し、故事の由来を明らかにするなど、授業と自学に向けた配慮が徹底しています。

注釈の骨格はあくまで朱子であり、朱子が引く古注(何晏『論語集解』、趙岐『孟子章句』など)や自注(『中庸章句』『大学章句』)が軸です。その上で、宋元以降の学者の意見が部分的に採録されますが、選択の基準は朱子の立場に整合的であることです。対立的な解釈は「異説」として短く触れられるか、あるいは黙殺されます。これは編纂書としての性格上、統一的な教授・出題を想定した結果であり、学術的多様性よりも制度的安定が優先されました。

四書大全のもう一つの特徴は「用例の整備」です。引用の仕方、論旨の立て方、命題の切り方といったレトリックの雛形が、注釈と併走するかたちで提示されます。これは明代の試験作文(制義・八股文)に直結し、受験者は四書大全の言い回しや典拠配置を模倣することで、短時間で整った答案を作る術を身につけました。すなわち、四書大全は内容の定本であるだけでなく、書き方の教科書でもあったのです。

書誌的には、初印本(官刻)を嚆矢に、地方官・民間書肆による翻刻が相次ぎました。字書的な索引、条目見出し、行押しの記号など、反復学習を助ける印刷上の工夫が蓄積され、書棚で摩耗する実用書として流通します。清代に入っても再刻は止まず、康熙・乾隆期の勅修叢書においても、四書大全は参照の出典として頻繁に顔を出します。

科挙・教育・東アジアへの波及――「読む基準」と「書く作法」の標準化

四書大全は、明代科挙の実務に深く組み込まれました。郷試・会試・殿試で問われる経義は、四書の章句を素材に命題され、出題者・採点者は四書大全の解釈を暗黙の標準としました。受験生は、まず本文章句を暗誦し、次に大全の注を「言語資本」として吸収し、最後にその語彙と論理で八股文を組み立てます。採点の側も、独創性よりも「正確な準拠」を好み、誤りの少なさ・典拠の整合・文体の整斉を評価しました。こうして、四書大全は学問の入口から出口までの全工程を貫く「共通言語」と化しました。

教育現場でも、官学・書院・私塾を通じて四書大全が基本教科書として用いられました。授業では、先生が本文を読み、注を講じ、生徒が板書と素読で追随するという形式が一般化します。各地の書院では、朱子学の道統を掲げつつも、しばしば政治・社会問題に発言する実学派・陽明学派が現れ、四書大全との距離感を調整しました。王陽明以降の心学は、良知・致良知の実践を重視し、朱子の格物致知に異議を唱えますが、制度側の教材は長く四書大全が主でした。この緊張は、晩明の思想的多様性の背景でもあります。

四書大全の規範は、中国の外へも広がりました。朝鮮王朝では科挙と官学の骨格が中国に近く、四書大全は標準教科書として重視され、訓点・音注が付された朝鮮版が刊行されました。日本でも、室町末から江戸期にかけて、林羅山ら朱子学者の学統で四書大全は基本テキストとして読まれ、寺子屋・郷校・藩校での初学者用にも使われました。和刻本には日本語の送り仮名・訓点が付され、素読・講釈・試験(郷学試)に適した形に整えられます。ベトナムの阮朝においても、科挙制度の中核に四書が据えられ、大全的な注釈の枠で解釈が運用されました。このように、四書大全は東アジアに共通する「学びと言語の規格」を提供したのです。

ただし、標準化の影響は光と影を持ちました。光は、学問の基準が共有され、地域や階層を超えて一定の教育水準が担保されたことです。影は、創造的な読みや異端的探究が抑制され、文章が「八股」化しやすくなったことです。とりわけ清代に入ると、八股文の形式主義と相まって、四書の言葉はしばしば「正解を言い当てるための符号」に矮小化され、思索の広がりを欠くと批判されました。

評価と意義――知の制度化、印刷文化、規範化の功罪

四書大全の意義は三層に整理できます。第一に、「知の制度化」です。古典の読みが統一されることで、国家の人材選抜と官僚教育が安定し、行政の共通言語が確立しました。これは、広大な帝国を官僚機構で運営するための最低限の基盤として有効でした。第二に、「印刷文化の成熟」です。官刻・私刻が相互に補完し、標準テキストが大量に流通することで、学習のコストが下がり、識字と学習の裾野が広がりました。索引・欄外注・見出しなどの編集技法は、後世の教科書・参考書のデザインにも影響を与えます。第三に、「規範化の功罪の可視化」です。学問の自由度は低下し、既成の権威が再生産される一方、社会全体の討議に共通の前提が共有されたことで、公共圏の成立にも寄与しました。

批判的視点から言えば、四書大全は「知の均質化」を進め、異説の可能性を狭めました。朱子学の枠外にある実学や心学、仏老との対話は、しばしば周縁化されます。とはいえ、晩明の書院運動や陽明学・泰州学派などの反撥が示すように、規範に対する現場からの創意も絶えませんでした。むしろ、四書大全という強固な基準があるからこそ、それを相対化する試みが輪郭を得たとも言えます。清代考証学が経書の文字を徹底的に検討し直し、「大全的」な注の権威に対して文献学的チェックを加えたことは、その典型です。

現代の歴史学の眼で四書大全を見るとき、私たちは「正解を与える本」としてだけでなく、「制度が知をどのように形づくるか」を考える材料として読むべきです。教科書化は、内容だけでなく、紙面設計・編集・索引・配本体制・価格・読者像といった周辺の実務を含みます。四書大全は、そのすべてが組み合わさって初めて機能しました。たとえば、地方の書肆が版木を持って安価な再刻を供給できたこと、郷里の有力者が子弟に購入して配ったこと、学校制度が素読と講釈の稽古を日課に組み込んだこと——こうした社会的・物的条件が、学問の「空気」を作ったのです。

総じて、四書大全は、明清東アジアの知の風景を規定した「制度としての本」でした。四書の言葉を誰もが同じように引用し、同じように論証することを可能にした功績は大きい一方、その頑健さゆえに思考の柔らかさを失わせる危険も孕みました。ゆえに、四書大全を学ぶことは、古典そのものの意味に加えて、知の標準化・教育の政治・印刷文化の技法を読み解く作業でもあります。国家と学校と書物が結びつくとき、学問はどのように変わるのか——四書大全は、その問いに具体的なかたちで答えてくれる歴史的テキストなのです。