商業革命 – 世界史用語集

「商業革命(しょうぎょうかくめい)」とは、おもに15〜17世紀ごろのヨーロッパで起こった、大航海時代以降の海外貿易の急拡大と、それにともなう経済構造の大きな変化を指す言葉です。新航路の開拓によってヨーロッパ・アジア・アフリカ・アメリカ大陸が一体の貿易ネットワークで結びつけられ、香辛料・銀・砂糖・綿花などの取引が爆発的に増えました。その結果、商人や金融業者の力が強まり、国際的な商業都市が栄え、貨幣経済や価格の変動が人びとの生活を左右するようになっていきます。世界史では、「中世的な在来商業」から「近代的な世界商業」への転換を表すキーワードとして登場します。

商業革命は、単に貿易量が増えただけではなく、銀行・為替・株式会社(特許会社)・保険といった新しい金融・商業の仕組みを発達させました。また、スペインにもたらされた大量のアメリカ銀が物価を押し上げる「価格革命」、オランダやイギリスのような商業・金融で富を蓄えた国が台頭していく過程など、政治・社会にも大きな影響を与えました。一方、アメリカ先住民の社会の破壊やアフリカからの黒人奴隷貿易など、負の側面も非常に大きな動きでした。

この解説では、まず中世ヨーロッパの商業のあり方と、なぜ「商業革命」と呼ばれるような変化が必要になったのか、その背景を整理します。つぎに、大航海時代による新航路の開拓と、銀や香辛料などをめぐる国際商業の拡大を見ていきます。そのうえで、「価格革命」や新しい商業・金融制度の発達、オランダ・イギリスの台頭など、商業革命の具体的な内容を説明し、最後に、世界規模の貿易ネットワークがどのように人びとの生活や社会構造を変えていったのかをまとめます。概要だけ読んでも、「商業革命=大航海時代を背景にしたヨーロッパの商業・金融の大変化」とイメージできるようにしつつ、詳しい中身は各見出しで理解できる構成にします。

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中世ヨーロッパの商業と「商業革命」前夜

商業革命を「革命」と呼ぶのは、それ以前の商業のあり方とは質的に異なる変化が起こったからです。そこでまず、中世ヨーロッパにおける商業の特徴を、簡単に押さえておきます。

中世前半のヨーロッパでは、封建社会が支配的であり、農奴が領主の土地を耕し、その一部を地代として納める「荘園制」が広がっていました。この社会では、経済の中心は自給自足の農業であり、領主の館や修道院、村の中で生活に必要なものの多くがまかなわれていました。もちろん、都市や市場は存在し、塩・鉄・毛織物などの交易はありましたが、それは社会全体から見れば限定的なものでした。

中世盛期(11〜13世紀)になると、農業生産の向上や人口増加、十字軍遠征などを背景に、商業活動は活発化します。北イタリアの都市(ヴェネツィア・ジェノヴァ・フィレンツェなど)は地中海交易の中心として繁栄し、北ドイツ・バルト海沿岸ではハンザ同盟都市が北方貿易をにぎりました。シャンパーニュの定期市など、国際的な商人が集まる市場も生まれます。

しかし、この時代の国際商業は、主として「ヨーロッパとイスラーム世界・インドを結ぶ旧来のルート」に依存していました。香辛料や絹織物などの高級品は、アラブ商人やヴェネツィア商人を介して、インド洋・地中海を通る陸海路でヨーロッパにもたらされていました。このルートは長く複雑であり、中継地点ごとに利潤が上乗せされるため、物資はとても高価になりました。

14世紀に入ると、ヨーロッパはペストの大流行や戦争による人口減少と混乱を経験しますが、15世紀にかけて徐々に回復し、各地で王権の強化と都市経済の再生が進みます。特にイベリア半島のポルトガル・スペイン、フランス・イギリスなどでは、王が財政と軍事力を集中し、「近代国家」の芽生えともいえる動きが現れます。こうした国ぐにが、新しい貿易ルートを求めて海へ乗り出していったことが、やがて商業革命へとつながっていきました。

大航海時代と世界規模の貿易ネットワークの形成

15世紀後半から16世紀にかけて、ポルトガルとスペインを中心に「大航海時代」が展開されました。彼らはアフリカ西岸から喜望峰を回ってインドへ至る航路、そして大西洋を横断してアメリカ大陸に至る航路を次々に切り開きます。これにより、それまで主として陸路・地中海ルートに頼っていた香辛料貿易は、喜望峰回りのインド航路へと大きくシフトしました。

ポルトガルはアフリカ沿岸に拠点を築き、やがてインドや東南アジアへ進出して香辛料貿易を掌握しようとしました。一方スペインは、コロンブスの航海をきっかけにアメリカ大陸に進出し、メキシコやペルーの先住民国家を征服して銀山や金山を支配します。これにより、膨大な銀がヨーロッパにもたらされ、さらにアジアとの交易にも使われるようになりました。

16世紀後半以降、オランダやイギリスも参入し、アジアとの貿易をめぐる競争は激しさを増します。オランダ東インド会社・イギリス東インド会社のような特許会社(株式会社)が設立され、香辛料・綿織物・茶などを扱う貿易が組織的に運営されました。これらの会社は、国家から特許状を得て独占的な貿易権や準軍事的な権限を持ち、現地に商館や要塞を築き、時に戦争も行いました。

このような動きの結果、ヨーロッパ・アフリカ・アメリカ・アジアを結ぶ「世界規模の三角貿易」のような構図が生まれます。ヨーロッパの工業製品や金属がアフリカへ送られ、アフリカからは黒人奴隷がアメリカのプランテーションへ連れて行かれ、アメリカの砂糖・綿花・タバコ・銀などがヨーロッパへ逆輸入される。そして、その銀の一部は、アジアから絹や陶磁器・茶などを買うために使われる、といった一連の流れです。

こうして、地球規模で商品と人と金が循環するネットワークが形づくられました。これは、後の「世界経済」や「資本主義経済」の前段階として、商業革命の重要な側面と位置づけられます。とはいえ、このネットワークはすべての地域に利益をもたらしたわけではなく、植民地支配と奴隷制を通じて多くの人びとの生活を破壊するものであったことも忘れてはならない点です。

価格革命と新しい商業・金融の仕組み

商業革命の時期には、「価格革命」と呼ばれる現象がヨーロッパで起こりました。これは、おおよそ16世紀を中心に、穀物など生活必需品の価格が長期的に上昇し、人びとの生活に大きな影響を与えた出来事です。物価上昇の原因としては、アメリカからスペインにもたらされた大量の銀がヨーロッパに流入し、貨幣の量が増えたこと、人口の回復と都市の発展により需要が高まったことなどが挙げられます。

物価が上昇すると、地主は貨幣地代を取ることで利益を得る一方、固定された地代や給料で暮らす人びとは生活が苦しくなります。特に、農村の小作人や都市の労働者は、賃金の上昇が物価に追いつかないことで困窮しました。一方で、商人や金融業者、国家財政に関わる人びとは、物価上昇を利用して利潤や税収を増やすことができました。こうした変化は、社会階層の再編や貧富の差の拡大にもつながりました。

商業革命の時期には、取引の規模と範囲が拡大したことにより、新しい商業・金融の仕組みが必要になりました。まず、銀行と為替の役割が重要になります。イタリアのメディチ家など中世以来の銀行家たちは、手形や為替証書を用いて、遠隔地間での資金移動を円滑にしました。商人は大量の金銀を実際に運ばなくても、手形を通じて支払い・決済ができるようになり、取引の安全性が向上しました。

さらに、リスクの大きい海外貿易を支えるために、「保険」の仕組みも発達します。船が難破したり海賊に襲われたりする危険に備えて、商人たちは共同で保険に加入し、事故が起きた際には損失を分担するようになりました。ロンドンのロイズ(保険組合)の起源などは、このような海上保険の発展と関わっています。

特に重要なのが、オランダやイギリスで発達した「株式会社(株式投資)」です。東インド会社などの特許会社は、多額の資金を必要とする遠隔地貿易に対して、多くの投資家から資金を集める仕組みを持っていました。投資家(株主)は、出資額に応じた配当を受け取り、リスクも分担します。この形は、現代の株式会社制度の原型であり、「商業革命=近代的な商業資本・金融資本の出発点」と言われるゆえんとなっています。

オランダのアムステルダムやイギリスのロンドンでは、証券取引所や国立銀行が設立され、国家財政と民間金融が密接に結びついた「金融センター」が形成されました。これにより、商業だけでなく、戦争や植民地経営も、金融の力を借りて進められるようになっていきます。

商業革命とヨーロッパ諸国の台頭・社会変化

商業革命は、ヨーロッパ諸国の勢力図にも大きな影響を与えました。最初に海外進出で先行したのはスペインとポルトガルでしたが、16世紀後半以降、商業と金融で力をつけたオランダやイギリスが台頭します。

オランダは、スペインから独立した後、海運・商業・金融で急速に力をつけ、「17世紀の覇者」とも呼ばれるほど国際貿易を支配しました。アムステルダムはヨーロッパ有数の商業・金融センターとなり、オランダ東インド会社はアジア貿易で大きな利益を上げました。オランダの商人ブルジョワジーは、共和政のもとで政治にも大きな影響力を持ち、「商人の共和国」としての姿を見せました。

イギリスも、毛織物輸出を基盤にしつつ、17〜18世紀にかけて海軍力と海上貿易を拡大し、やがて「世界の工場」として産業革命を先導していきます。商業革命で蓄えた資本や海上支配の経験は、後の産業革命や大英帝国の形成につながりました。フランスも植民地経営と商業に力を入れますが、度重なる戦争や国内の対立もあって、最終的にはイギリスに海上覇権を譲ることになります。

社会的には、商人・銀行家・株主などの「商業資本家層」が力を増し、中世の封建領主や騎士とは異なる新しいエリート層が登場しました。都市のブルジョワジーは、しだいに政治的発言力を求めるようになり、絶対王政との間には協力と緊張が入り混じる関係が生まれます。絶対王政は、戦争と宮廷を維持するために商業・金融の力を必要とし、商業革命で成長した財政力を背景に中央集権を進めることができました。

一方、農村では、価格革命による物価上昇と地代変動が農民層に打撃を与えました。とくに東欧では、穀物輸出の増加に対応するために地主が農奴への支配を強める「再版農奴制」の動きが見られ、西欧との間で社会構造の差が広がりました。商業革命は、すべてを「近代化」へと一方的に進めたわけではなく、地域によってさまざまな歪みや逆行も生み出したのです。

世界史の文脈で「商業革命」という用語に出会ったときには、大航海時代の新航路開拓を背景に、ヨーロッパと世界が一体の貿易ネットワークで結びつけられたこと、そのなかで価格革命・銀行・株式会社・保険などの制度が発達し、スペイン・ポルトガルからオランダ・イギリスへと海上覇権の中心が移っていったことをセットで思い浮かべると理解しやすくなります。そして、その裏側に、植民地支配や奴隷貿易といった暗い側面があったことも意識すると、商業革命が単なる経済の発展ではなく、世界の構造を大きく作り替えた出来事だったことがより立体的に見えてくるはずです。