サータヴァーハナ朝 – 世界史用語集

サータヴァーハナ朝(Satavahana, c.前2世紀末〜後3世紀頃)は、デカン高原からインド西海岸・東海岸にかけて勢力を伸ばした在地王朝で、古代インドの政治・交易・宗教文化の結節点を担った存在です。首都は時期によりプラティシュターナ(現パイタン/Paithan)とダーニャカタカ(現アマラーヴァティ近郊)などが用いられ、プラクリット語銘文と独特の貨幣、そして仏教石窟・ストゥーパへの寄進で知られます。彼らは北西のシャカ系「西クシャトラパ」と幾度も抗争しつつ、内陸の農牧世界とインド洋の海上交易を結び、ガンジス流域と半島部を橋渡しした王権でした。ゾロ目の英雄のような単線的な物語ではなく、地域・交易・宗教・言語が重なりあう複雑な王朝だと理解すると、古代インドの立体的な姿が見えてくるはずです。

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成立・領域・統治の基礎:デカンの在地力を束ねる

サータヴァーハナ朝の起源は、デカン西部の在地首長層に求められます。初期王としてシムカ(Simuka)やサータカルニ(Satakarni)が挙げられ、前1世紀にはナルマダー川—ゴーダーヴァリー川の交通軸を押さえ、内陸の穀倉地帯と高原の牧地を接続しました。王権は早くから「マハーラージャ(大王)」を称し、同時に地方の氏族・首長を取り込みながら重層的な支配を展開したと考えられます。行政単位としてアーハーラ(県に近い区分)やラージャ(属王)・マハータラ(高官)などの肩書が銘文に現れ、統治は中央直轄と地方権力の併走というデカン的特徴を示します。

この王朝の言語運用は実務的でした。儀礼的・銘文的言語としてプラクリット(中期インド・アーリヤ語)を多用し、ブラーフミー文字で刻んだ短い寄進銘や土地付与文が各地の石窟・ストゥーパから出土します。王名に母系の名を組み込む慣行(例:〈ゴータミプトラ〉=“ゴータミーの子”)はサータヴァーハナ固有の特色で、王位継承や王母の権威を可視化しました。これは、婚姻ネットワークを政治資源としたデカン王権の柔軟さを物語ります。

領域は時期により伸縮しましたが、核心はデカン高原とその西岸・東岸への通路でした。西はコーンカン沿岸の港市(カリヤーン、ソーパーラ等)へ、東はクリシュナー川・ゴーダーヴァリー川を下ってコロマンダル海岸(アマラーヴァティ周辺やクシラパタナ等)へと手を伸ばし、内陸—海岸—海上を貫くネットワークを形成しました。これにより、アラビア海の海商・紅海経由のローマ世界とも接続が生まれます。

政治史のリズム:対西クシャトラパ戦と中期の最盛、そして分裂

サータヴァーハナ朝の政治史は、概ね三つのリズムで把握できます。第一は成立から前1世紀末にかけての拡張と建制化、第二は1〜2世紀の最盛、第三は2〜3世紀の分裂と縮退です。

拡張期には、河川交通の掌握が鍵でした。デカン高原を東西に横切る河谷路を押さえることで、穀物・塩・木材・金属資源の流れを制御し、港市へのアクセス権を確立します。初期王サータカルニの時代には祭祀(アシュヴァメーダ:馬祭)を挙行したと伝えられ、王権の宗教的正統性を印象づけました。

最盛期を象徴するのは、〈ゴータミプトラ・サータカルニ(Gautamiputra Satakarni)〉とその子〈ヴァシシュティプトラ・プルミッヴィ(Vasisthiputra Pulumavi)〉です。前者は2世紀初頭にかけて西クシャトラパ(サカ系のシャトラパ:副王)勢力を撃退し、デカン—西岸の要地を回復したことで名高いです。後者の治世には内陸と海岸の結節が安定し、港市や石窟伽藍への寄進が相次ぎました。さらに3世紀初頭の〈ヤジュナ・スリ・サータカルニ〉の時代に一時的な復権が見られますが、長期的には地方勢力の台頭と後継争いで王朝は分岐・短命化していきます。

彼らの最大の外敵・競争相手は、北西から西岸に浸透した「西クシャトラパ(シャカ系/サカ系)」でした。貨幣・銘文・都市支配の点で両者は拮抗し、デカン西部—グジャラート—マールワーの回廊はしばしば勢力が入れ替わります。サータヴァーハナが優勢な時期には、ナシク(ナースィク)石窟の寄進銘に彼らの威光が刻まれ、逆に西クシャトラパが広がる時期には、海岸の発言力が高まりました。このシーソーが、サータヴァーハナの政治史の脈動を作ります。

経済・貨幣・交易のダイナミクス:内陸の穀物と海の舶来品

サータヴァーハナ朝の活力は、内陸農業と長距離交易の組み合わせにありました。デカン高原は黒色綿土(レグール土)に覆われ、綿作や雑穀栽培、牧畜に適した環境です。内陸では綿布・染色・金工・ビーズなどの手工業が発達し、これが河川交通を経て海岸の港市に集まりました。港市からは、アラビア海—紅海—地中海へと物資が送られ、代わりにワイン・ガラス器・金銀器・珊瑚・香料・金属インゴットなどが流入します。ローマ金貨の流入はデカンの貨幣経済に刺激を与え、在地の貨幣鋳造を活発化させました。

貨幣は、鉛貨・銅貨・鍍金貨など多様で、表に象・船・ウジャイニー型の「クローバー形記号」、裏に伝統的なシンボルを配するもの、あるいは王名をプラクリットで記すものが知られます。鉛の使用はデカンならではの特徴で、鉛資源の入手容易さと大量発行の需要を反映していました。貨幣は課税・官給・市場流通の媒介であると同時に、王名・母名・称号を広める「政治のメディア」でもありました。

内陸—海岸—外洋の接続を支えたのが、河川交通と道路・驛の整備です。ナシク—プラティシュターナ—ターゴラ間、あるいはダーニャカタカ—ナルマダー水系への縦走路が、軍事と商業を同時に支えました。港市では、在地首長・商人ギルド・修行僧団が財の流れを管理し、寄進(ダーナ)を通じて宗教施設の建設と維持が行われました。仏教石窟の柱や欄干に刻まれた寄進銘は、商人・船主・職人・王族・王妃など多様なアクターの存在を教えてくれます。

宗教・美術・遺産:仏教石窟とブラーフマナ祭祀の併存

宗教文化の面でサータヴァーハナ朝は、仏教とブラーフマナ的祭祀の併存・協調に特徴があります。王たちはしばしばヴェーダ祭祀(アシュヴァメーダ等)を行って王権を神聖化する一方、仏教の僧団・石窟伽藍・ストゥーパに寄進を重ねました。ナシク石窟(パーンダヴ・レーニー)、カーリー/カルレー石窟の大窟(チャイティヤ)や僧院(ヴィハーラ)、アマラーヴァティ周辺のストゥーパ群は、サータヴァーハナ期の寄進で大規模化し、トーラナ(門)・欄楯・浮彫が豊かに整えられました。レリーフに刻まれた象・獅子・蓮、ジャータカ譚・王の行列・船の意匠は、交易社会の躍動を映しています。

銘文は簡潔ながら貴重です。王妃や王母の名を冠した寄進銘、地方高官の寄進、商人ギルドの寄進が併記され、政治・経済・宗教の三層が重なって見えます。〈ゴータミプトラ〉に代表される母系名の強調は、女性の宗教的威信と王統の正統性をつなぐ工夫でした。文学面では、プラクリットの詩や叙事の営みが続き、のちのサンスクリット文学に橋をかけます。工芸では、玉髄ビーズ・象牙細工・コインダイの技術が洗練され、デカン美術の基層を形成しました。

やがて王朝が弱体化すると、デカンでは地方王朝(アーンドラ・イクシュヴァーク、アビーラ、ヴァーカータカなど)が台頭し、仏教も大乗・部派の多様化を経て新たな展開を迎えます。それでも、サータヴァーハナが整えた河川回廊・港市ネットワーク、寄進経済、プラクリット行政文化は長く生き続け、古代後期のインド洋世界—デカン—ガンジスの三角形を支える「見えない基盤」となりました。

総括すると、サータヴァーハナ朝は、デカンという「高原の大地」を内陸と海の両側へ開くことで繁栄した王権です。対外戦争の勝敗だけでなく、河川と港市を束ねた物流、鉛貨を含む多様な貨幣、プラクリット銘文と母系名の政治、仏教石窟とヴェーダ祭祀の共存といった具体の制度と文化が、その骨格を支えました。インド洋の風、黒色綿土の畑、石窟の彫り跡、銅鉛の輝き—それらを一つの視野で結ぶとき、サータヴァーハナ朝の実像が、古代インドを東西南北につなぐ「ハブ」として立ち上がって見えるのです。