サダト(アンワル・アッ=サーダート, 1918–1981)は、エジプト第三代大統領で、1973年の第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)を指導したのち、イスラエルとの和平(キャンプ・デービッド合意/エジプト・イスラエル平和条約)を実現した政治指導者です。軍人出身でナセルの後継者として登場し、経済の開放政策(インフィターフ)と対米関係の強化、ソ連軍事顧問団の追放、アラブ世界初のイスラエル訪問(エルサレム演説)など、従来の路線からの大転換を主導しました。一方で、急激な政策変更は国内の体制を揺らし、経済格差の拡大やイスラーム主義勢力の反発、反対派への弾圧といった緊張を生み、1981年の軍事パレード中に暗殺されました。サダトを知るためには、ナセル主義からの転回、第四次中東戦争の戦略と「名誉の回復」、和平の賭け、経済・社会政策と内政の対立、そして暗殺と遺産の多面性を合わせて見る必要があります。
生涯と登場:ナセルの同志から国家元首へ
サダトはナイル・デルタのミト・アブ・アル=クームに生まれ、軍士官学校を卒業後、英占下のエジプトで民族主義運動に関与しました。第二次世界大戦期には対英活動で投獄される経験を持ち、戦後、ガマール・アブドゥン=ナセルらの「自由将校団」に加わります。1952年のエジプト革命で王制が倒れると、彼は革命評議会の一員として台頭し、情報相・議会議長・副大統領などを歴任しました。カリスマ的なナセルに比べ、サダトは穏健で調整型の印象を与える人物でしたが、1967年の第三次中東戦争(六日戦争)敗北後の挫折を経て、1970年のナセル死去に伴い大統領に就任します。
就任当初、多くは彼を「過渡的・傀儡的」指導者と見ました。しかしサダトは、国内のナセル主義左派・軍内の旧勢力・治安機構の権力ネットワークに切り込み、「是正革命」と呼ぶ権力再編を断行します。ソ連との過度な軍事依存を見直し、治安当局の一部を更迭、経済政策の舵を徐々に転じるなど、独自路線の布石を打ちました。これが後年の外交・経済の大転換につながっていきます。
戦争・外交・和平:1973年の攻勢からエルサレム訪問へ
サダトの政治生涯の転回点は、1973年の第四次中東戦争です。1967年にシナイ半島を失ったエジプトの屈辱を晴らし、政治的交渉力を取り戻すことが彼の最優先課題でした。サダトはシリアと協調し、ユダヤ教の大祭日に奇襲してスエズ運河を渡河する計画を立てます。エジプト軍は当初、対戦車ミサイルと防空システムを効果的に活用して前進し、「名誉の回復」を国民に印象づけました。戦局はやがて反転し、イスラエルは運河西岸に渡河し反攻に転じますが、米ソの緊張を背景に停戦が成立。軍事的には勝敗が拮抗する一方、政治的にはエジプトが「敗者の立場から交渉の主体へ」戻る土台ができました。
この戦争ののち、サダトは大胆に外交路線を転換します。まず、長年の後援者だったソ連の軍事顧問団を1972年に追放して自律性を示し、戦後は米国との接近を強め、シナイ返還の交渉環境を整えました。1977年、彼はアラブ首脳として前例のない決断を下し、イスラエルの首都(実務上の中心)エルサレムを訪問してクネセト(議会)で演説します。これは世界に衝撃を与え、アラブ諸国の一部からは厳しい非難と断交を招きましたが、米国の仲介による直接交渉への道を開きました。
1978年、米大統領リチャード・カーターの招きで、サダトとイスラエル首相メナヘム・ベギンは米メリーランド州の山荘キャンプ・デービッドで長期の首脳会談に臨み、キャンプ・デービッド合意に署名します。合意は、(1)シナイ半島の段階的返還とエジプト・イスラエルの平和条約締結、(2)パレスチナ自治の枠組み、からなっていました。翌1979年にはエジプト・イスラエル平和条約が調印され、国交が樹立、エジプトはシナイを完全返還されます。サダトとベギンはノーベル平和賞を共同受賞しました。もっとも、パレスチナ問題の包括的解決には至らず、合意の第二文書は長く停滞し、アラブ連盟はエジプトを一時加盟停止とし、首都機能をチュニスへ移すなど、外交的代償は大きいものでした。
内政・経済・社会:インフィターフの現実と政治統制
外交の劇的展開と同時に、サダトは国内経済の路線変更を進めました。ナセル時代の国有化・統制経済に代え、インフィターフ(開放政策)と呼ばれる民間投資・外資導入・市場メカニズムの導入を図ります。湾岸諸国・欧米・日本からの資本や援助を呼び込み、観光・建設・金融・輸入商業が活況を呈しました。一方、工業基盤の脆弱さや官僚制の硬直、為替・補助金の歪みは解消が進まず、食料補助金の削減は1977年の「パン暴動」として爆発します。急速な開放は、都市の新興中間層と既得権層に利益をもたらす一方、労働者・貧困層の不満を増幅し、所得格差が拡大しました。
政治面では、サダトは一党支配(アラブ社会主義連合)を改組し複数政党制の外見を整えましたが、実質的な政治自由は限定的でした。治安法の運用で反体制的な左派・ナセル派・イスラーム主義者を監視し、メディア・大学・労組への統制を維持します。当初、ナセル派に対抗するためにイスラーム系団体の活動に一定の余地を与えたことが、のちに過激派の伸長に結びつく側面もありました。和平と対米関係の強化は、国内の宗教保守層・民族主義者の反発を招き、政府は強硬策に傾斜します。1981年秋には知識人・宗教者・野党政治家など千人規模の拘束に踏み切り、社会の緊張は頂点に達していきました。
暗殺と遺産:10月6日の銃声と評価の分裂
1981年10月6日、サダトは1973年戦争の記念軍事パレードを閲兵中、イスラーム過激派と結びついた軍将兵の一隊に襲撃され、銃撃で死亡しました。副大統領だったフスニー・ムバーラクが直ちに大統領職を継ぎ、治安の回復と対外政策の継承を宣言します。サダト暗殺は、和平の代償と国内統合の困難を象徴する事件として記憶されました。
サダトの遺産は、評価が分かれます。ひとつは、戦争と交渉を連続させて領土を回復し、アラブ最大の国家が初めてイスラエルと和平した開拓者という評価です。スエズ運河の再開、シナイ返還、農地・油田の復旧は、エジプトの安全保障と財政に具体的利益をもたらしました。他方、パレスチナ問題を置き去りにして「エジプトだけが利益を得た」とするアラブ世界の批判、インフィターフによる格差や汚職の拡大、政治抑圧と宗教対立の激化は否定的評価の根拠となります。国内では、サダトの名を冠した道路・博物館・公共施設が整備されつつも、彼の政策をめぐる議論は、いまなおエジプト政治の座標を映す鏡です。
サダトの個性は、象徴と演出を重んじる政治家のそれでした。エルサレム演説やキャンプ・デービッドでの強い言葉は、敵味方双方に深い印象を与え、外交の舞台で物語を動かす力を持ちました。一方で、演出の陰で進む治安統制と権力集中、政策の急旋回に伴う社会の摩擦は、国家の弾力性の限界を露わにしました。軍人としての纪律、俳優的な演技、農村出の素朴さと国際政治の計算高さ、その混成がサダトの魅力と危うさを同時に形作っていたといえます。
総じて、サダトは「戦争の指導者」から「和平の賭けをした大統領」へと自らを変え、エジプトと中東の地図に具体的な線を引いた指導者でした。英雄でも裏切り者でもない、その間に揺れる評価は、国家が直面する現実と理念のはざまを映しています。彼が開いた対話の扉、そして彼の死が示した社会の亀裂—それらは今日の中東政治を理解する上で、避けて通れない現実の一部です。

