サダト暗殺 – 世界史用語集

サダト暗殺は、1981年10月6日にカイロで行われた軍事パレードの最中、エジプト大統領アンワル・アッ=サーダート(サダト)が観閲席で銃撃により殺害された事件を指します。第四次中東戦争(1973年)の開戦日を記念する式典での出来事で、実行犯は軍服を着た将兵を装う(実際に将兵であった者を含む)一隊でした。事件は、エジプトがナセル主義からサダトの開放政策(インフィターフ)と対米・対イスラエル接近へ舵を切る中で高まっていた国内の緊張が、暴力というかたちで爆発した象徴的瞬間でした。発砲と手榴弾投擲によってサダト大統領が致命傷を負い、複数の要人や兵士・民間人も死傷し、副大統領ムバーラクは難を逃れ、その後を継いで体制の安定化に向かいます。本項では、事件の背景、当日の経過、直後の危機管理・司法過程、国内政治・地域外交への影響、記憶のあり方までを、できるだけ具体的に整理します。

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背景:政策転換と社会のきしみ—和平と開放が生んだ反発

1970年にナセルの後継として大統領に就任したサダトは、ソ連依存の軍事・経済路線を見直し、1973年の第四次中東戦争で「名誉の回復」を果たしたのち、米国の仲介でイスラエルとの段階的和平へ踏み出しました。1977年のエルサレム訪問、1978年のキャンプ・デービッド合意、1979年のエジプト・イスラエル平和条約は、シナイ半島返還への道を開く一方、アラブ諸国の多くから激しい非難を浴び、エジプトは一時アラブ連盟から疎外されます。国内でも、民族主義・ナセル主義の左派や、一部のイスラーム主義勢力が強く反発しました。

経済面では、インフィターフ(開放政策)により外資や移民送金が流入し、観光・建設・金融は活況を呈しましたが、食料補助金の見直しやインフレが庶民生活を直撃し、1977年には「パン暴動」が発生します。恩恵が都市の新興層に偏る一方、貧困層の不満は蓄積しました。政治面では、形式的な複数政党化が進められたものの、治安法や検閲が存続し、反体制的な左派・ナセル派・イスラーム主義者への監視と拘束が続きました。こうした不満の交差点に、国家と宗教をめぐる対立が位置し、過激化する小グループが暴力に訴える土壌が生まれます。

事件直前の1981年9月、政府は社会の緊張に対処する名目で、著名な知識人・宗教者・反対派政治家・活動家を含む多数(千人規模)の一斉拘束に踏み切りました。宗教機関への介入や出版の制限も強化され、政権の統制は最高潮に達します。これに対し、軍内部に潜んでいた過激派シンパや、地下化したネットワークが最終的な行動に移る決意を固めました。

当日の経過:軍事パレードの破られた安全弁—銃撃までの数十秒

1981年10月6日午前、カイロ郊外の閲兵場では、1973年戦争(ヨム・キプール戦争)を記念する軍事パレードが挙行されていました。観閲席にはサダト大統領、副大統領フスニー・ムバーラク、国防・治安関係の高官、外国来賓らが並びます。行進中、軍車両の一隊が観閲席前で突然停止し、トラックの荷台から武装した将兵が飛び降りました。彼らは手榴弾を投擲し、直後に自動小銃を掃射して観閲席を狙いました。

サダトは儀礼に合わせて起立・敬礼していたとされ、至近距離からの爆発と銃撃で重傷を負います。警護は即座に応戦しましたが、最初の数秒〜十数秒は混乱が大きく、要人の退避と制圧に時間を要しました。救急搬送が行われたものの、サダトは病院で死亡が確認されます。現場では複数の政府要人・将兵・民間人が死傷し、事件の映像は国外メディアにも流れて世界を驚かせました。

実行グループは、軍内部の士官・下士官を含む小隊規模で、宗教過激派ネットワーク(エジプト・イスラーム・ジハード等)との関係が指摘されます。中心人物として、ハーリド・イスランブーリーの名が広く知られ、彼らは宗教的・政治的動機からサダトを「和平と抑圧の責任者」とみなし、標的化しました。実行計画はパレード部隊に紛れ込む単純かつ大胆な手口で、儀式の安全弁(友軍の中に敵はいないという前提)を逆手に取ったものでした。

直後の危機管理と司法過程:非常事態・継承・裁き

事件直後、軍と治安当局はカイロ全域の警戒を強化し、政府は非常事態体制を再確認しました。副大統領ムバーラクは速やかに職務代行を宣言し、憲法に基づく手続で大統領職を継承します。国葬は厳重な警備のもとで執り行われ、海外の首脳級来賓が参列する一方、アラブ諸国の多くは距離を置きました。葬列に参加したイスラエルの首相や米国の要人の姿は、サダトの外交路線の性格を改めて示す光景となりました。

治安当局は実行犯・支援者の摘発を進め、軍・刑事の双方で裁判が行われました。主犯格は比較的短期間で判決に至り、厳罰が執行されます。捜査・裁判の過程では、地下組織の構造や資金・宣伝の回路、軍内部の浸透が焦点となり、過激派対策の法整備と治安機構の再編が進みました。他方、広範な拘束と取り締まりは、市民社会の萎縮と政治の硬直をもたらし、長期の非常事態法(緊急法)下での統治が日常化していきます。

国内政治への影響:ムバーラク体制の成立と「秩序の回復」

暗殺がもたらした最も直接的な帰結は、ムバーラクの長期統治への道を開いたことでした。新大統領は、対外政策では和平路線・対米関係・エジプト中心主義の基本線を維持しつつ、対内的には「過度な急旋回を避ける安定志向」を掲げました。治安面では過激派への監視・摘発を強化し、同時に宗教機関・教育・メディアを通じた統合策を併用します。経済政策では、開放路線を継続しながらも、補助金政策や公務部門の雇用吸収で社会の緩衝装置を保つ工夫が見られました。

政治制度は、一部の選挙・政党制度の改定を経ても、長らく非常事態法の下で運用され、行政の裁量と治安機構の影響力が強く残りました。暗殺事件は、国家が「秩序と安定」を名目とした権限の集中を正当化する根拠となり、司法・メディア・市民団体の自由度を制限する枠組みが常態化します。その一方で、観光・投資・運河収入の回復、シナイ返還の完遂は、国家財政と外交の安定に寄与しました。

地域外交と国際環境:和平の持続とアラブ世界の再配置

サダト暗殺は、和平の逆転を招くことはありませんでした。ムバーラクは条約順守を明確にし、シナイの段階的返還スケジュールは続行、国境の安定と米国との関係は維持されました。アラブ世界との関係では、時間をかけて修復が進み、エジプトはやがてアラブ連盟への復帰を果たします。暗殺が象徴した「和平を巡る分断」は直ちには癒えなかったものの、地域秩序はエジプトを排除して再編されることはなく、むしろエジプトの地位は現実主義的な安全保障・外交の軸として再確認されました。

同時に、事件は各国にとって「首脳警護・テロ対策」の教訓にもなりました。軍行事・国家儀礼という、最も象徴的で守られているはずの場に潜む脆弱性が露呈し、以後、観閲方式・距離・車列・立ち位置・退避動線など、儀礼と安全の設計が見直されます。アラブ・欧米・アジア諸国における要人警護のプロトコル改訂は、この時期に加速しました。

記憶・表象・資料:映像が刻んだショックと語りの分岐

サダト暗殺は、テレビ映像が世界に即時に流れた事件として、記憶の層に深く刻まれました。観閲席の混乱、煙、倒れる要人、取り押さえられる実行犯——断片的な映像は、長くニュースやドキュメンタリーで繰り返し流され、政治暴力の衝撃を可視化しました。国内では、慰霊碑や記念館に加え、学校教育・映画・ドラマの中で事件が語られ、和平・主権・宗教・安全保障をめぐる複数の語りが併存します。英雄視・裏切り批判・被害の記憶・国家の正当化という、相反するフレーミングが、社会の分断と同時に多声性を生みました。

史料面では、当日の政府発表、裁判記録、国内外のメディア報道、外交公文書、当事者の回想録が主要な手がかりです。特に、裁判で明らかになった地下組織の構造や、取り調べで浮かび上がった軍内の共犯・黙認の度合い、国境を越える宣伝・資金の流れは、エジプト現代史研究の重要テーマであり続けています。一方で、治安機構の内部資料や国外情報機関の解析は公開が限定的で、研究は断片的証拠の積み重ねで進むのが実情です。

小括:和平後の国家が直面した「安全」と「正統性」の二重危機

サダト暗殺は、和平後のエジプト国家が直面した二重の危機——安全の脆弱性と支配の正統性の揺らぎ——を一挙に露出させた事件でした。サダトは戦争から交渉へと舵を切って領土を取り戻しましたが、その代償として国内外の大きな反発を招き、統治の硬直化と社会の疎外を積み重ねました。事件は、儀礼の場という国家の「顔」に突きつけられた暴力であり、以後のエジプトは治安・外交・経済の三位一体で再安定化に向かいます。今日、事件を振り返ることは、和平の政治学、急進と抑圧の悪循環、そして安全保障と自由のバランスという普遍的な課題を考える手がかりとなります。暗殺の銃声は過去のものですが、その反響はなお、中東政治と世界の安全保障の思考の底で鳴り続けているのです。