「小ドイツ主義(しょうドイツしゅぎ)」とは、19世紀のドイツ統一をめぐる議論のなかで、「オーストリアを除外し、プロイセンを中心としたドイツ民族国家をつくるべきだ」とする立場を指す言葉です。ドイツ語では「クラインドイチュム(Kleindeutschtum)」あるいは「クラインドイチェ・リューゾング(Kleindeutsche Lösung=小ドイツ的解決)」と呼ばれます。これに対して、オーストリアもふくめた大規模な連合王国・帝国として統一をめざす構想は「大ドイツ主義(グロースドイツ主義)」と呼ばれ、両者は19世紀ドイツ政治の重要な対立軸となりました。
当時のドイツ語圏は、多くの王国・公国・自由都市に分かれた「ドイツ連邦」としてゆるく結びついていました。この中で「どの範囲の領域と民族を『ドイツ国家』にくみこむべきか」「どの国がその指導権を握るべきか」が大きな問題となります。小ドイツ主義は、「多民族帝国オーストリアを外し、比較的ドイツ人の多い領域をまとめて近代的な国民国家をつくる」という、いわば「すっきりした統一」をめざす発想でした。
小ドイツ主義は1848年の三月革命やフランクフルト国民議会の議論のなかで姿を現し、最終的にはビスマルクの戦争・外交によって1871年のドイツ帝国成立という形で現実のものとなります。その一方で、「ドイツ人の住むすべての地域は一つの国家に入るべきだ」とする大ドイツ主義の夢は、オーストリアやバルカン半島の民族問題とからみ合い、20世紀の第一次世界大戦・ナチズム・第二次世界大戦へ続く複雑な問題も生み出しました。
以下では、まず当時のドイツ統一問題の全体像を確認したうえで、小ドイツ主義がどのような背景から生まれ、どのような勢力に支持され、どのようなプロセスでドイツ統一へとつながったのか、さらにその後にどのような評価や問題点が指摘されるようになったのかを、順を追って解説していきます。
ドイツ統一をめぐる背景と「大ドイツ」と「小ドイツ」
19世紀前半のドイツは、「ドイツ」と呼ばれる文化・言語圏こそ存在していましたが、一つの統一国家ではありませんでした。ウィーン会議(1814〜15年)の後、神聖ローマ帝国の解体に代わって「ドイツ連邦」がつくられましたが、その実体は35前後の君主国と4つほどの自由都市からなるゆるやかな国家連合にすぎませんでした。
このドイツ連邦の中で、特に強大な力をもっていたのがオーストリア帝国とプロイセン王国です。オーストリアはハプスブルク家を君主とする多民族帝国で、ドイツ語圏だけでなく、ハンガリー人・チェコ人・イタリア人・スロベニア人など、多数の民族を支配していました。一方、プロイセンはバルト海沿岸からライン地方にかけて領土を持ち、軍事力と官僚制の面で優れた近代国家として台頭していました。
19世紀に入り、フランス革命とナポレオン戦争の影響で、ヨーロッパ全体に「国民国家」への意識がひろがります。ドイツ語を話す人びとも、「バラバラの小邦に分かれた状態ではなく、統一されたドイツ民族国家をつくるべきだ」というナショナリズムを強めていきました。問題は、その統一がどのような範囲と形で行われるべきか、という点でした。
ここで登場するのが、「大ドイツ主義」と「小ドイツ主義」という二つの構想です。大ドイツ主義は、「オーストリア帝国に含まれるドイツ語地域も含め、ドイツ語を話す人びとを最大限くみこむ大きなドイツ国家をつくるべきだ」と主張しました。これは伝統的にドイツ世界の中心的役割を果たしてきたオーストリアに親近感を持つ人びと、あるいはカトリック勢力の一部に支持されました。
これに対し小ドイツ主義は、「オーストリアを除外し、ドイツ連邦内のドイツ人諸邦を、プロイセンを中心にまとめるべきだ」とする構想でした。オーストリアは多民族帝国であり、ドイツ人以外の民族を多数抱えていたため、「ドイツ民族国家」という観点からは扱いが難しい存在でした。また、オーストリアが統一ドイツの中心となれば、旧来の保守的な帝国体制がそのまま維持されるおそれがある、という懸念もありました。
このように、「大ドイツか小ドイツか」という対立は、単に領土の大小の問題だけでなく、「だれが指導権を握るのか」「統一後の国家はどれほど民族主義的か、多民族的か」「どれほど自由主義的・立憲的か」といった、さまざまな政治的・思想的対立をふくんでいたのです。
1848年革命と小ドイツ主義の浮上
1848年、フランスで二月革命が起こると、その波はドイツ世界にも波及し、各地で自由主義・国民主義を掲げる蜂起が起こりました。これが「三月革命」と呼ばれる一連の動きです。民衆や自由主義的知識人は、言論の自由や憲法制定、農奴制の廃止などを求めると同時に、「ドイツの統一」を強く訴えました。
この革命の流れの中で、ドイツ全体の憲法と統一の形を議論するために招集されたのが、1848年のフランクフルト国民議会です。ドイツ各地から選出された議員たちがフランクフルトに集まり、自由主義的な憲法草案や統一国家の構想を議論しました。ここで中心となった対立の一つが、「大ドイツ案」と「小ドイツ案」のどちらを採るか、という問題でした。
議会の中で、大ドイツ案の支持者は、オーストリアも含めた広いドイツ国家を構想しましたが、オーストリア政府は自国の非ドイツ領(土着のハンガリーやボヘミアなど)とドイツ領を分けることに強く反対しました。オーストリアにとって、ドイツ部分だけを切り出して新国家に編入されることは、自らの帝国を解体することに等しかったからです。
その結果、「現実的にオーストリアを統一ドイツに加えるのは難しい」という認識が議会内で広がり、「オーストリアを除き、プロイセンを中心とした小ドイツ型統一国家を目ざすべきだ」という小ドイツ案が支持を強めていきました。自由主義的なブルジョワ層の多くも、オーストリアの保守的な帝国体制より、プロイセンの近代的な官僚制・軍隊を利用した方が、立憲的な国民国家への道が開けると考えるようになります。
1849年、フランクフルト国民議会は、小ドイツ案にもとづき、プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世を「ドイツ帝国皇帝」とする案を可決し、王に帝冠の受け取りを要請しました。しかし、王はこれを拒否します。彼にとって、民衆や議会から「下から」授けられる王冠は正統なものではなく、「上から」、すなわち諸侯たちの合意によるものでなければならないと考えたからです。
こうしてフランクフルト国民議会の試みは失敗し、三月革命も各地で鎮圧されました。しかし、「オーストリア抜き・プロイセン中心の統一」という小ドイツ主義の構想そのものは、完全に消えたわけではなく、むしろその後のプロイセン政府、とくにビスマルクの政策の中で、より現実的な形で追求されていくことになります。
ビスマルクと小ドイツ的統一の実現
1860年代に入ると、プロイセン首相となったオットー=フォン=ビスマルクが、武力と外交を組み合わせた「鉄血政策」によってドイツ統一を推し進めることになります。彼の目標もまた、基本的には小ドイツ主義に沿ったものでした。つまり、「オーストリアの影響をドイツ連邦から排除し、プロイセン主導で新たなドイツ国家を作る」という方向性です。
ビスマルクはまず、デンマーク戦争(1864年)を通じてシュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国をめぐる問題に介入し、プロイセンとオーストリアがこれらの地域を共同管理する形を作り出します。続く1866年の普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)では、この共同管理をめぐる争いを口実にオーストリアと戦い、短期間で勝利を収めました。
この戦争の結果、ドイツ連邦は解体され、オーストリアはドイツ問題から事実上排除されます。代わりに、プロイセンを中心とする北ドイツ連邦が結成され、北部ドイツの諸邦はプロイセン王を元首とする連邦国家に組み込まれました。南ドイツの諸邦(バイエルン・ヴュルテンベルクなど)は形式上は独立を保ちましたが、軍事同盟などを通じてプロイセンとの結びつきを強めていきます。
最後の仕上げとなったのが、1870〜71年の普仏戦争(プロイセン=フランス戦争)です。フランス第二帝政のナポレオン3世との戦争は、ドイツ側に「対外戦争を通じた国内統合」の機会を与えました。フランスの脅威に直面した南ドイツ諸邦は、プロイセンと緊密に協力し、ドイツ諸邦は「対フランス防衛」という大義のもとで結束します。
戦争での勝利を背景に、1871年、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で、プロイセン王ヴィルヘルム1世が「ドイツ皇帝」として即位し、ドイツ帝国(第二帝国)が成立しました。この帝国の領域にはオーストリア帝国は含まれておらず、オーストリアのドイツ人たちは新しいドイツ国家の外に取り残される形となりました。これはまさに、小ドイツ主義が目ざしていた「オーストリア抜きのドイツ統一」の実現でした。
ビスマルク自身は、民族主義・自由主義の熱情よりも、王朝とプロイセン国家の利益を優先する現実主義者でしたが、結果として彼の政策は、小ドイツ主義的なドイツ民族国家を作り上げることになったのです。
小ドイツ主義の意義とその後の評価
小ドイツ主義は、19世紀のドイツ統一という文脈では「現実的な妥協案」として評価されることが多いです。オーストリアの多民族帝国をそのまま統一ドイツに取り込むことは、内部に多数の非ドイツ民族問題を抱え込むことを意味し、当時の技術・政治状況では極めて不安定にならざるをえませんでした。その意味で、「ドイツ人の多い領域を中心に、比較的まとまりのある国民国家をつくる」という小ドイツ的統一は、19世紀ヨーロッパの国民国家形成の一般的な流れに沿った選択だったとも言えます。
一方で、小ドイツ主義にも問題がなかったわけではありません。第一に、オーストリアやスイス、さらにはバルカン・ボヘミアなど、ドイツ語を話す人びとの一部は新しいドイツ帝国に含まれず、「ドイツ民族国家」の外側に残されました。このことは、「ドイツ民族のあるべき統一はまだ完成していない」と感じる人びとの不満を生み、のちの大ドイツ主義的な運動や、ナチスの「民族統一」要求の一部とも結びついていきます。
第二に、小ドイツ的な統一がプロイセン軍国主義の枠内で達成されたことも、後のドイツ史に影を落としました。統一は国民議会や民主的な議論によってではなく、ビスマルクの「上からの統一」、すなわち王朝と軍隊主導の戦争によって実現されました。その結果、ドイツ帝国は立憲制や議会を持ちながらも、強い軍部と保守的なエリートが政治を握る体制となり、これが第一次世界大戦やその後の政治的混乱の土台になったとする批判もあります。
第三に、「小ドイツ的な統一」と「大ドイツ的な夢」のあいだの緊張関係は、20世紀になっても完全には解消されませんでした。第一次世界大戦後、戦敗国となったドイツと解体されたオーストリア=ハンガリー帝国のあいだでは、「両国を一つのドイツ国家に合わせるべきだ」という要求(大ドイツ主義)が高まりました。ヴェルサイユ体制はそれを禁止しましたが、ナチス・ドイツは1938年にオーストリアを併合し、「アンシュルス」として大ドイツを実現したと宣伝しました。ここにも、小ドイツ主義と大ドイツ主義をめぐる長い歴史的文脈が影を落としています。
現代の歴史学では、小ドイツ主義を単純に「正しい解決」と称賛することも、逆に「すべての悲劇の出発点」と断罪することも避ける傾向にあります。その代わりに、19世紀ヨーロッパの国民国家形成という大きな流れの中で、「ドイツ人」「オーストリア人」「ハプスブルク帝国」「プロイセン国家」といった複数のアイデンティティや利害が複雑にからみ合うなかで選択された一つの歴史的解決策として位置づけようとしています。
世界史を学ぶ際には、「小ドイツ主義」という言葉を、「プロイセン中心・オーストリア除外のドイツ統一構想」として押さえておくとともに、その背後に「どの範囲までを国民国家とみなすか」「多民族帝国をどう扱うか」「統一を誰が、どのような方法で実現するか」といった、近代ヨーロッパ全体が直面していた問題があったことを意識しておくと理解が深まります。そして、その選択の延長線上に、20世紀の国際政治・民族問題もつながっていることを考えると、「小ドイツ主義」という一見小さな用語が、実は広い歴史の流れと密接につながっていることが見えてくるはずです。

