実在論とは、私たちの考えや感じ方とは独立して、世界には客観的な実在があるとする見方のことです。もっと平たくいえば、「人間がどう思うかに関係なく、山は山として、星は星として、数や法則も現実に成り立っている」という直観を、理屈のうえで支える立場です。日常の常識に近い考え方ですが、哲学や科学、宗教の歴史のなかで、その意味や射程は大きく変化してきました。ここでは、複数ある実在論の型と、なぜそれが世界史の要所で争点になったのかを、できるだけ分かりやすく整理します。概要だけ読めば大枠がつかめ、続く見出しではより詳しい背景や論点をたどれるようにしています。
実在論には、大きく分けて三つの層があります。第一に、〈もの〉や〈性質〉が心から独立して存在するとみなす形而上学的実在論。第二に、科学が語る不可視の存在(電子や重力場など)や法則が実在すると主張する科学的実在論。第三に、価値・数学・普遍(「人間性」「正義」「数」といった抽象的なもの)の実在をめぐる特化領域の実在論です。これらは互いに重なりつつも、議論の土俵と決め手がそれぞれ違います。実在論に反対する立場としては、観念論や構成主義(世界は心や社会的慣行によって作られる)、唯名論(普遍は名にすぎない)、道具主義(科学理論は役に立つ道具であり真偽は二の次)などがあり、歴史の要所で激しくぶつかってきました。
世界史との関わりでいえば、古代ギリシア哲学のプラトンとアリストテレスの差異、中世ヨーロッパの「普遍論争」、近代科学革命と啓蒙思想、19〜20世紀の科学哲学の展開、さらには21世紀の「思弁的実在論」まで、実在をどう捉えるかは知の地図を塗り替える原動力になってきました。政治学でいう「現実主義(リアリズム)」や、美術史の「写実主義(リアリズム)」と紛らわしい用語ですが、ここで扱うのはあくまで存在論・認識論上の実在論です。
実在論の基本発想と主要バリエーション
まず最も素朴な形の実在論は、感覚経験に先立って世界がそこにあるとする素朴実在論です。私が目を閉じても机は消えない、他者がいなくても山は山である、という信念を支える立場です。素朴実在論は日常感覚には強い説得力がありますが、錯覚や夢、文化差による世界の見え方の違いをどう説明するかという課題を抱えます。
形而上学的実在論は、素朴実在論を理論化し、存在の構造を問い直す立場です。世界は〈個物〉(この机、この猫)と〈普遍〉(赤さ、猫であること)から成るのか、関係こそが根本なのか、性質や数はどのように存在するのか、といった問いがここに含まれます。反対に、観念論は経験や意識の枠組み抜きに存在を語れないと主張し、構成主義は社会的実践と規約が対象の輪郭を作ると見ます。実在論は、これらの立場に対して「独立した世界」がある程度は確固としていることを論証しようとします。
科学的実在論は、科学理論が言及する不可視の存在(電子、DNA、ブラックホール、クォークなど)が「本当にある」と主張します。反対に、道具主義は理論を予測の道具とみなし、不可視の実体を信じる必要はないとします。科学的実在論者は、科学がなぜこれほど強力に成功するのかは、理論が世界の構造におおむね合致しているからだ、と説明します。とはいえ、過去の理論が後に修正・棄却されてきた事実(天動説から地動説、ニュートンから相対論へ)をどう扱うかは大きな論点で、構造が保存される部分に着目する「構造実在論」などの精緻化が生まれました。
価値や倫理についての道徳実在論は、「善悪や正義には個人の好みを超えた事実性がある」と主張します。これに対し、相対主義や表出主義は、価値判断を感情や文化の産物と見ます。数学的実在論(プラトニズム)は、数や集合のような抽象対象が時空を超えて実在すると捉え、逆に構成主義や形式主義は数学を記号操作や構成規則の体系と見なします。いずれも、抽象的な対象の「どこに」「どのように」存在を認めるのかが核心です。
歴史的展開:古代から中世、近代、現代へ
古代ギリシアでは、プラトンが普遍者(イデア)の実在を強く主張しました。美や正義や円といった完全な形は、感覚世界の背後に独立して存在し、それが個々の対象の基準であるという見方です。弟子のアリストテレスは、普遍は個物のうちに内在するという立場をとり、外在するイデアの世界を否定しました。両者の差は、後世に至るまで実在論の二つの典型(超越的実在論と内在的実在論)として参照され続けます。
中世ヨーロッパでは、「普遍は実在するのか」という普遍論争が神学と哲学の中心課題になりました。アンセルムスらは普遍の実在を擁護し、対する唯名論者(例:オッカム)は、普遍はただの名前であり、現実にあるのは個物だけだと主張しました。ここでの争いは、神の本質、三位一体の理解、救済論に直結したため、単なる語彙の議論を超えて教会・大学制度の知の秩序を左右しました。世界史の文脈で実在論を学ぶ意義がここにあります。
近代に入ると、科学革命と経験主義の進展が実在論を刷新します。ロックは一次性質(大きさ、形など)は対象に固有で、二次性質(色、味など)は知覚に依存すると区別し、外界の存在を素朴実在論的に擁護しました。これに対してバークリは「存在するとは知覚されることだ」とし、外界の独立性を疑いました。カントは両者を批判的に継承し、私たちが経験できるのは感性と悟性の形式で構成された「現象」に限られ、物自体は認識不可能だとしました。ここで実在論は、認識の条件(認識論)と存在の構造(形而上学)をどう調停するかという高度な問題に移ります。
19世紀から20世紀にかけて、実証主義や論理実証主義は、観察可能性と検証可能性を重視して形而上学的一般論を切り捨てようとしましたが、科学実践の歴史研究や理論の成熟により、その単純化は持続しませんでした。クーンは科学の「パラダイム転換」を描き、理論が世界像全体を組み替えることを示しました。これに対し、科学的実在論者は、理論が変わっても構造的な対応は残ると主張し、ワーラルらの構造実在論が提案されました。また、クワインやパトナムは、数学と経験科学が相互にもたれ合う「不可分の網」の比喩を通じ、抽象対象の実在を擁護する議論(不可欠性論証)を提示しました。
20世紀後半の言語哲学では、名前や種名がどのように対象に「届くか」をめぐって、実在論に追い風が吹きました。クリプキやパトゥナムの直接指示論は、「水」「タイガー」などの語が本質的性質や起源に結びつく仕方を説明し、言語が社会的・自然的実在に接続する経路を描き出しました。他方で、社会構成主義や科学技術社会論は、実験装置、制度、ネットワークが「事実」を作り上げる過程に光を当て、実在の輪郭が実践的に形成されるという反論を重ねました。両者の対話は現在も続いています。
21世紀に入ると、「思弁的実在論」と総称される潮流が一部の大陸哲学で注目されました。これは、人間中心の相関主義(世界は人間の思考との関係でしか語れない)を離れ、世界そのものの自律性を思弁的に取り戻そうとする試みです。自然科学との対話、オブジェクト指向存在論、ポスト人間中心主義などが交差し、古典的実在論とは異なる文体と問題意識を提示しています。
分野別の実在論:科学・数学・倫理・社会
科学的実在論では、理論の成功をどう説明するかが核心です。電子顕微鏡の画像や加速器の痕跡は間接的ですが、相互に整合し、予測も成功します。たとえば、量子電磁気学の精密な予測が実験と一致する桁の細かさは、理論が世界の構造を「当てている」ことの強い証拠だと解釈されます。一方で、過去には成功していた理論が後に修正された事例も数多くあります。そのため、実在論は「理論が完全に真である」とまでは言わず、「世界の構造の何らかの側面を正しく写し取っている(近似的真理)」と主張することが多いです。
数学的実在論は、数や集合、関数といった抽象的対象が、時間や空間に依存せずに存在すると考えます。これに対し、構成主義は「証明可能性」に基づく存在理解を採り、形式主義は公理体系の整合性を重視します。数学の驚異的な自然適合性(物理法則が微積分や群論でうまく表現できること)は、実在論の直感を後押ししますが、逆にそれを説明する枠組みをさらに求める声もあります。
倫理学の道徳実在論は、残酷さの悪さや約束を守ることの良さに、文化や好みを超えた客観的地位があると主張します。メタ倫理学では、そうした価値がどのような形で存在するのか、どのように認識されうるのか(直観、推論、感受性の訓練など)が論点です。反対に、表出主義やエラー理論は、価値言明の真理条件や参照対象を否定または弱体化します。ここでも「どの領域に、どの様式で実在を認めるか」が争点です。
社会領域では、貨幣、国家、法、ジェンダー規範といった「制度的事実」をどう捉えるかが鍵です。社会的構成主義は、宣言行為や慣習が現実を作ると説明しますが、実在論者は、構成過程を認めつつも、一度成立した社会的実在が独自の因果力と抵抗性をもつ点を強調します。たとえば「法」という制度は人為的ですが、制定され運用されると、個人の意思を超えて行為を拘束します。自然的実在と社会的実在を対立させるのではなく、複数の層での実在を認めるのが近年の傾向です。
誤解しやすい点・用語整理・具体例
まず用語の混同に注意が必要です。国際政治学の「現実主義(リアリズム)」は、権力と国益を重視する理論であり、形而上学的な実在論とは別領域です。美術史の「写実主義(リアリズム)」も同様に、表現上のスタイルを指します。哲学でいう実在論(リアリズム)は、存在や真理、指示の問題に関わる包括的な立場です。
次に、実在論は「心のはたらきを軽視する」という誤解があります。実際には、多くの実在論は知覚や言語の媒介を十分に認めた上で、媒介の向こう側に構造的な持続性があると主張します。写真がレンズやセンサーの特性を通して世界を写すように、認識も枠組みを介して世界に届くが、そのことが直ちに対象の独立性を否定する根拠にはならない、という比喩がしばしば用いられます。
具体例として、化学元素の周期表を考えてみます。元素は直接に「見える」わけではありませんが、スペクトル、反応性、原子量といった複数の証拠線が互いに支え合い、電子配置という理論的枠組みが整合的に説明します。この重層的整合性が、科学的実在論の説得力の源泉です。また、古生物学における恐竜の復元も、化石、地質年代、比較解剖、DNA痕跡の推測といった多面的証拠が絡み合って「見えない実在」を確からしく描き出します。
最後に、実在論の内部でも姿勢の幅があります。強い実在論は、対象と性質の独立性を強く主張し、弱い(または節度ある)実在論は、理論負荷性や観点依存性を認めつつも、相互主観的に安定した世界の骨組みを擁護します。構造実在論は、「個々の対象よりも、関係の網目(構造)こそが持続する」と捉える点で、中間的な選択肢を提供します。こうした多様性は、実在論が単一のドグマではなく、世界への態度と理論戦略の集合であることを物語っています。

