ヴァルミーの戦い – 世界史用語集

ヴァルミーの戦いは、フランス革命戦争の初期にあたる1792年9月20日、シャンパーニュ地方のヴァルミー近郊で、フランス革命軍がプロイセン・オーストリア連合軍の侵攻を食い止めた戦闘です。戦死者は多くなく、主に砲撃戦で終わったため「ヴァルミーの砲戦」とも呼ばれますが、その政治的・心理的効果は絶大でした。王政を揺り動かす革命の命運が不確かなさなか、国民軍は崩れずに踏みとどまり、侵入軍は攻勢を断念して撤退に向かいました。翌9月21日、フランスは王政廃止と共和政樹立へと踏み出し、ヴァルミーは「共和国の誕生を告げた一撃」と記憶されることになります。ここでは、開戦に至る背景、戦闘の経過、結果と影響、史料と評価の観点から整理します。

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開戦に至る背景:革命、干渉、そして侵攻

1789年のフランス革命は、身分制社会と王権を大きく揺さぶりました。立法議会期になると、オーストリア(ハプスブルク)とプロイセンの宮廷は、革命が自国へ波及することを恐れ、フランスの王権回復を視野に干渉の構えを見せました。1792年4月、フランスは対オーストリア開戦を宣言しますが、革命直後の軍は将校の亡命・組織の混乱・兵站の不備に苦しみ、緒戦は不振でした。

7月、両王国の名で出された「ブランシュヴァイク公宣言(いわゆるブラウンシュヴァイク宣言)」は、王家に危害が加えられればパリを厳罰に処すると威嚇し、フランス世論の反発と危機意識を高めました。やがて8月10日のテュイルリー宮殿襲撃で王権は事実上崩壊し、義勇兵(フェデレ)と地方部隊を吸収した革命軍の再編が急がれます。戦略面では、ドゥムリエ(デュムーリエ)将軍がシャンパーニュで敵の進路を遮断し、ケレルマン将軍が増援としてリュクサンブール方面から北上、合流して外敵を止めるという構想が固まりました。

連合軍の主力は、プロイセンの名将ブランシュヴァイク公が率い、オーストリア、エミグレ貴族部隊がこれに加わりました。彼らはロレーヌ方面からフランス領内へ侵入し、ヴェルダンを陥とすなど順調に進撃していました。しかし進軍路は泥濘と悪天候に阻まれ、補給線は伸び、兵士は赤痢などの病に悩まされます。フランス側は砲兵の整備と地形の選定で対抗し、ヴァルミー丘陵と周辺の稜線を押さえて敵を迎える構えを整えました。

戦闘の経過:砲声が抑止した進撃

1792年9月20日の朝、濃霧が晴れ始めると、ヴァルミー周辺の丘陵に展開した両軍が互いに視認できるようになりました。フランス軍はケレルマンの指揮下、ヴァルミーの製粉所の丘と周辺高地に布陣し、ドゥムリエは側面・背後の連絡線を確保して全体の戦略指揮にあたりました。砲兵は、革命前からのグリボヴァル制式による軽量で機動的な火砲を中心に配置され、地形に合わせた射界を確保しました。

午前から正午にかけて、主に砲撃の応酬が続きました。連合軍は陣形を整えながら前進を試みましたが、ぬかるみと火力に阻まれて動きが鈍り、決定的な歩兵突撃に踏み切る機会を得られません。ケレルマンは有名な呼号で兵を鼓舞し、国民の名において耐えることを強調したと伝わります。革命義勇兵と常備兵の混成部隊は混乱せず、砲弾の雨の中でも陣列を保ちました。

午後、ブランシュヴァイクは攻撃を再検討します。地形的優位を占めたフランス側の砲兵は、前進する隊列に効果的な射撃を浴びせ、連合軍の陣形は乱れがちになりました。天候も再び崩れ、視界と通信は悪化します。ブランシュヴァイクは損耗に見合う戦果を見通せず、総攻撃を中止。両軍は日没までに小規模な前進と後退を繰り返しつつ、大規模会戦には至らないまま砲声は静まりました。戦死者は後世の大会戦に比べれば多くはありませんが、心理戦としてはフランス側の勝利でした。

この日の戦いは、戦術的には「引き分け」あるいは「攻勢中止」に近いものでしたが、戦略的帰結は一方的でした。連合軍は翌日以降、攻勢継続を断念して後退に移り、フランス領深部への進撃計画は頓挫したのです。ヴァルミーで革命軍が「逃げない」ことを示した事実は、侵略の意志を挫き、時間をフランスにもたらしました。

結果と影響:共和国の出発、戦局の反転、戦争の新段階

政治的影響は即時的でした。戦闘の翌9月21日、パリでは国民公会が開会し、王政廃止と共和国樹立を宣言します。革命の帰趨を左右する外圧がいったん緩み、議会は大胆な制度改革と戦時動員の整備に集中できるようになりました。ここで形成された「国民の戦争」という観念は、のちの徴兵・総力戦の時代の先駆けとなります。

軍事的にも潮目が変わりました。連合軍は補給難と疾病に苦しみながら撤退し、フランス側は主導権を回復します。数週間後、ドゥムリエは北方戦線で前進し、11月のジュマップの戦いでオーストリア軍に勝利、ベルギー方面へ進出しました。国内では各戦線での勝報が士気を押し上げ、革命政府は対内的には反革命勢力の抑え込み、対外的には第一次対仏大同盟(第一回対仏大同盟)への対応を進めます。

社会・文化面では、ヴァルミーは「国民国家の戦争」の象徴として語られました。従来の王侯国家の戦闘に比べ、政治的動員と市民の参加が前面に出たからです。義勇兵や地方からのフェデレ、都市の国民衛兵、常備軍の兵士が同じ戦列に並び、革命の歌や標語が戦場で響きました。軍服や装備はまだ統一に欠け、訓練も不揃いでしたが、「祖国防衛」という共通の物語が全体をつなぎました。これにより、軍隊は単なる雇用兵の集団から、政治的共同体の武装化へと性格を変え始めます。

外交的には、連合軍に属した諸侯の間で戦争目的の調整が困難になり、プロイセン宮廷でも継戦の意義が問われました。フランス側は、国外に逃れた亡命貴族(エミグレ)勢力の軍事的影響力を削ぎ、国内の優位を固める余地を得ます。一方で、戦争の長期化は財政と国内政治の緊張を高め、翌年以降の急進化と恐怖政治の背景ともなりました。ヴァルミーは勝利であると同時に、革命と戦争が分かち難く結びつく時代の入口でもあったのです。

史料、軍事技術、評価の揺れ:なぜ小規模な砲戦が歴史を動かしたのか

ヴァルミーの具体像は、多様な一次史料と後世の解釈の上に成り立ちます。観戦武官や同時代人の記録は、戦場に漂った霧雨、ぬかるみ、砲声、掛け声を伝え、フランス側の団結と連合軍側の逡巡を描きます。ドイツの文豪が残した有名な観戦談話は、ヴァルミーを「時代の転換点」と評しましたが、これは戦術的帰趨以上に象徴的意味を強調するものでした。歴史家は、その誇張を割り引きつつも、政治的帰結の大きさからこの戦いの画期性を認めるのが一般的です。

軍事技術の面では、フランス砲兵の整備と配置、グリボヴァル・システムの運用が、地形をいかした火力優勢をもたらしました。軽量化された砲と改良された騎砲(馬で牽引され迅速に位置を替える砲兵)は、ぬかるむ地面でも柔軟な運用を可能にし、攻め上がる連合軍の歩兵に継続的な圧力を与えます。他方、連合軍の兵站は伸びきり、補給物資の欠乏と疫病が兵の体力と規律を奪いました。これらの条件が重なって、決戦を避ける判断が支配層で優勢となったのです。

戦略史的評価では、ヴァルミーは「敵の意思を挫くこと」に成功した例として重要視されます。戦術的に大破壊を与えずとも、優位な地形・火力・政治的意志の組み合わせが、敵の決断を鈍らせ、作戦全体を頓挫させうることを示したからです。近代戦における情報・宣伝・士気の重要性、戦場と政治の双方向性は、この戦いを通して明瞭になりました。

フランス国内記憶では、ヴァルミーは共和国の記念日に寄り添う出来事として教育・儀礼に取り込まれました。戦場跡の記念碑や製粉所の丘の保存は、ナショナル・アイデンティティの素材となり、文学・絵画・軍歌がこの日の昂揚を反復します。一方、ドイツ語圏やオーストリアの史観では、後続の戦局全体から見て限定的な失敗として位置づけられることも多く、国民的記憶の差が歴史叙述の差を生んできました。

最後に、ヴァルミーが小規模な砲戦にとどまったにもかかわらず大きな意味を持つ理由を整理します。第一に、侵攻の主目的(革命政権の打倒)が頓挫し、フランスが戦略的主導権を回復する転機を作ったことです。第二に、国民軍の結束が内外に示され、共和国宣言という政治的決断の後押しになったことです。第三に、戦争の主体が王と常備軍の枠を超え、国民の政治的意志と直結する「近代の戦争」へと性格を変えた象徴となったことです。ヴァルミーは、銃声や突撃の描写ではなく、政治と戦争の結節点でこそ輝く歴史的事件だったのです。