エジプト・イスラエル平和条約(1979年3月26日調印、ワシントンD.C.)は、第一次中東戦争以来の対立を重ねてきた二国が初めて正式に和平し、国交を樹立した歴史的な合意です。1978年のキャンプ・デービッド合意を土台にし、シナイ半島からのイスラエル軍の全面撤退、国境確定と非軍事化、航行の自由、外交関係の開始などを相互に約束しました。これによりイスラエルはアラブ最大の近隣国との戦争終結を得て、エジプトは失地回復と国際的評価、経済・軍事援助を獲得しました。他方で、アラブ世界における孤立、国内の分断、シナイ治安の新たな課題など、重い代償も伴いました。条約は四十年以上を経たいまも維持され、地域秩序の基盤の一つとして機能し続けています。
成立の背景:戦争の反復から「現実の和平」へ
エジプトとイスラエルは、1948年の第一次中東戦争以降、1956年スエズ危機、1967年第三次(六日)戦争、1973年第四次(十月)戦争と四度にわたり主要な軍事衝突を経験しました。とりわけ1967年の敗北で、エジプトはシナイ半島全域を失いました。ナセル死後に政権を継いだサダト大統領は、国内経済の停滞と対ソ依存からの転換を課題とし、1973年の奇襲によって軍の士気と交渉力を回復させたのち、段階的撤兵協定やジュネーブ会議を経て、米国を仲介役とする現実的和平へ舵を切りました。
1977年11月、サダトはイスラエル議会での歴史的演説を行い、「全面撤退とアラブ諸国の権利承認」を条件に和平の意思を明言しました。これを受け、米カーター政権の仲介のもとでベギン首相とサダトの直接交渉が進み、1978年9月、米大統領山荘での延長会談の末に「キャンプ・デービッド合意」がまとまりました。合意は和平の枠組み(エジプト=イスラエル)と、ヨルダン川西岸・ガザをめぐる自治の枠組み(パレスチナ)からなり、これに基づく最終文書として翌年の平和条約が結ばれます。
エジプトの動機は、主権回復と経済再建、米欧との関係改善でした。イスラエルの動機は、主要戦線の終結と戦略的深度の代替保証(非軍事化領域と米の関与)、外交的突破でした。双方にとって、ソ連の影響力や地域内の対立に対抗する現実的利益が、イデオロギーを上回った局面だったといえます。
条約の骨子:領土、安全保障、正常化、米国の保証
第一に領土と国境です。イスラエルはシナイ半島から段階的かつ全面的に撤退し、エジプトとイスラエルの国際的国境(エル・アリシュ—ラファ近傍の旧国境線)を相互承認しました。撤退は数段階に分けられ、民生施設・油田の返還、道路・空港の扱い、撤去・移設の工程が詳細に規定されました。1982年4月に最終段階が完了し、シナイは全面的にエジプト主権下に戻ります。
第二に安全保障と配備制限です。シナイ半島は国境から内側に複数のゾーンに分割され、エジプト側の重装備の配備は大幅に制限されました。国境直近のゾーンは非武装、奥のゾーンも軽装備部隊と沿岸警備に限定され、イスラエル側の国境地帯にも対応する配備規定が設けられました。監視のため、国連とは別に多国籍監視団(MFO)が設置され、停戦・配備制限の遵守を常時監視します。MFOは合意に基づく常設機関で、今日までシナイ治安の枠組みを支えています。
第三に航行の自由とスエズ・ティラン海峡です。エジプトはイスラエル船舶とイスラエル向け貨物に対するスエズ運河・ティラン海峡の航行を認め、封鎖を行わないことを確約しました。これは1956年や1967年の危機の再発防止に直結し、紅海—地中海ルートの通年開放という経済・戦略上の利益を両国にもたらしました。
第四に関係正常化です。条約発効後、双方は大使を交換し、領事・通商・通信・観光などの協定を整備することになりました。文化交流や情報の自由化も盛り込まれ、対立から常態的交流へ移るための制度的枠が用意されました。ただし正常化の速度は国内世論に左右され、「冷たい平和」と形容される時期も長く続きました。
第五に米国の役割です。米国は条約の保証人・仲介者として、追加の覚書・交換公文で、当事国の安全保障上の懸念に対応すること、軍事・経済援助を供与することを約束しました。エジプトとイスラエルはそれぞれ米国から大規模援助を受け、兵器の近代化やインフラ投資が進みました。米国の関与は、履行監督と危機時の仲裁の両面で条約の安定装置となりました。
反応と影響:地域秩序の再編と国内の衝撃
エジプトがアラブ諸国に先んじて単独和平に踏み切ったことは、地域政治に大きな波紋を広げました。アラブ連盟はエジプトの加盟資格を停止し、カイロから本部を一時移転しました。資金援助の削減や外交関係の冷却が相次ぎ、エジプトは一時的にアラブ世界で孤立します。イスラエル側は、最大の脅威だった南戦線の終結により、北・東の防衛に資源を振り向けることが可能となり、戦略環境が大きく変化しました。
国内では、エジプトにおいて賛否が鋭く対立しました。シナイ回復と戦費負担の軽減、援助による経済立て直しを期待する層がある一方、アラブ・パレスチナ連帯の理念や、主権制限(非軍事化)への反発が根強く存在しました。1981年10月、サダト大統領は軍閲兵式で過激派兵士により暗殺され、ムバーラク副大統領が後継しました。暗殺は条約そのものを覆すには至らなかったものの、和平が国内の分断と暴力の引き金にもなり得ることを示しました。
パレスチナ問題への波及も重要です。条約は西岸・ガザの「自治」をうたうキャンプ・デービッドの枠組みを付帯しましたが、パレスチナ側(PLO)や周辺アラブ諸国の不信を招き、包括和平の実現には長い時間を要しました。他方、エジプトはガザ情勢の仲介、停戦調整、国境管理の面で不可欠の役を担うようになり、カイロは中東外交の主要舞台であり続けます。
履行とその後:撤退完了、Taba、シナイ治安、そして「冷和平」から実務協力へ
1982年の最終撤退で、イスラエルはシナイから完全に退きましたが、紅海沿岸のタバ(Taba)の帰属をめぐり、両国は一時的な対立に直面しました。この問題は仲裁手続きに付され、1988年にタバがエジプト領と裁定され、1990年代初頭に返還が完了しました。法的紛争を第三者手続で平和的に解決したことは、条約の成熟度を示す出来事でした。
シナイの治安は、2000年代以降、とくにアラブの春を経て複雑さを増しました。密輸や過激派の活動が活発化し、エジプト政府はMFOとの調整のもと、条約に基づく配備制限の範囲内で治安部隊の増派・装備更新を行いました。近年はイスラエルとの間で治安協力や情報共有が進み、必要に応じて配備制限の暫定的緩和についても合意が交わされ、実務面での柔軟性が高まっています。
経済面では、天然ガスの売買や電力連系、観光・物流の連携が模索されてきました。たびたびパイプラインの破壊や価格紛争が生じるなど不安定要素はありますが、紅海—地中海の結節としてのエジプトの地政と、地中海ガス田の開発とをつなぐ協力の余地は広がっています。外交面では、エジプトはパレスチナ停戦の仲介者、ガザ境界管理の調整者として存在感を維持し、イスラエルはエジプトとの安定関係を域内外交の前提として扱うようになりました。
総じて、エジプト・イスラエル平和条約は、領土返還と安全保障アレンジ、外部保証を組み合わせた「交渉型和平」の典型例です。冷えた世論の底流にもかかわらず、制度と実務が関係を支え、危機のたびに調整が積み重ねられてきました。二国の関係は時に緊張しつつも、戦争という選択肢が現実の政策メニューから外れたという意味で、条約は中東の政治空間を決定的に変えたと言えます。

