人権宣言(人間および市民の権利の宣言) – 世界史用語集

人権宣言(じんけんせんげん)、正式には「人間および市民の権利の宣言」とは、フランス革命のさなかである1789年8月、フランス国民議会によって採択された権利宣言です。絶対王政と身分制社会を否定し、「すべての人間は自由で平等な権利をもって生まれる」という原則を謳い上げたこの宣言は、近代的な人権・国民主権・法の支配の出発点として世界史上きわめて重要な意味をもちます。もともとはフランス憲法の前文として位置づけられましたが、その内容はフランス国内にとどまらず、ヨーロッパやアメリカ、そして世界各地の政治運動や憲法に大きな影響を与えました。

この宣言は、全17条からなる比較的コンパクトな文書です。その中で、「自由」「所有権」「安全」「圧政への抵抗」が人間の自然権であること、主権は国民に存すること、法律は一般意思の表現であり、すべての市民は法律の前に平等であること、言論・出版の自由や信仰の自由が保障されるべきことなどが定められています。こうした考え方は、ロックやルソーなど啓蒙思想家の議論を下敷きにしつつ、旧体制フランスの現実を変えようとする革命のエネルギーと結びついています。

もっとも、人権宣言がいう「人間」や「市民」は、現代の意味で「すべての人びと」を完全に含んでいたわけではありません。実際の適用の場面では、女性・貧しい人びと・植民地の人びと・奴隷など、多くの集団が権利の主体から排除されました。それでもなお、人権宣言は「人間には、生まれつき奪うことのできない権利がある」「権力はその権利を尊重するために存在する」という原則を明文化した点で、後の人権思想や憲法に決定的な影響を与えました。世界人権宣言(1948年)をはじめとする近代以降の権利論の多くは、意識的・無意識的にこの1789年の宣言を参照しています。

世界史を学ぶうえで、「人権宣言」はフランス革命の一エピソードとしてだけでなく、「旧体制から近代社会への構造転換」「身分・特権から普遍的な権利への発想の転換」を象徴する文書として意味を持ちます。なぜこのような宣言が生まれたのか、そこにどのような理想と限界があったのかを考えることは、現代の私たちが「人権」や「自由」をどう理解しているのかを問い直すヒントにもなります。

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成立の背景:旧体制フランスと啓蒙思想

人権宣言が生まれた背景には、18世紀末のフランス社会が抱えていた深刻な矛盾があります。フランスはブルボン朝のもとで絶対王政が続いていましたが、財政は度重なる戦争と宮廷の浪費によって破綻寸前でした。社会は法律上も慣習上も「聖職者(第一身分)」「貴族(第二身分)」「平民(第三身分)」の三つの身分に分かれ、第一身分と第二身分は多くの特権(免税・高位官職の独占など)を享受していた一方、全人口の大多数を占める第三身分は重い税負担と不公平な司法のもとに置かれていました。

こうした状況に対して、18世紀の啓蒙思想家たちは鋭い批判を加えました。ロックは、生命・自由・所有を自然権として位置づけ、政府はそれを守るために契約にもとづいて成立したと考えました。ルソーは『社会契約論』で、「主権は国民の一般意思に属する」と説き、主権者たる人民の同意なき権力を否定しました。モンテスキューは権力分立を唱え、権力が一箇所に集中すると専制に陥ると警告しました。これらの思想は、サロンやパンフレット、百科全書などを通じて広く流布し、旧体制批判の理論的な武器となりました。

アメリカ独立革命もまた、フランスの人びとに強いインパクトを与えました。アメリカ独立宣言(1776年)は、「すべての人は平等に造られ、人には生命・自由・幸福追求の権利がある」と宣言し、ジョージ3世による専制に抵抗する正当性を主張しました。フランスのラファイエット侯爵は独立戦争にも参加し、その経験を祖国に持ち帰ります。アメリカの成文憲法や権利章典(Bill of Rights)は、「権利の保障」と「権力の制限」を、具体的な法文として書き込むモデルをフランスに示しました。

フランスでは、財政危機の打開のために1789年に三部会が招集されましたが、第三身分は自らを「国民」を代表する存在と位置づけ、国民議会の結成を宣言します。その後、テニスコートの誓いやバスティーユ牢獄襲撃といった事件を経て、旧体制の権威は崩れ始めました。この過程で、「新しい憲法」「新しい社会の原則」を明文化する必要が認識され、その一環として「人間と市民の権利」を宣言する案が浮上します。

国民議会では、ラファイエットやミラボー、シイェスなどの議員が、アメリカや啓蒙思想を参照しながら権利宣言の草案を提示しました。議論は、「人権宣言を憲法の前文に位置づけ、不可侵の原則として掲げるべきだ」とする立場と、「具体的な法律や制度の議論を優先すべきだ」とする立場の間で揺れ動きましたが、最終的には、革命の基本的理念を明らかにする宣言をまず採択することで合意します。こうして1789年8月26日、「人間および市民の権利の宣言」が採択されるに至りました。

人権宣言の内容と基本理念

人権宣言は、前文と17条の条文からなります。前文では、「フランス国民の代表者である国民議会は、人間の自然で譲り渡すことのできない権利を無知や忘却や軽視することが、公共の不幸や政府の腐敗の唯一の原因であると考えた」と述べられています。そして、これらの権利を厳粛に宣言することによって、「社会のすべての構成員に、権利と義務の意識を不断に想起させ、立法権や行政権の行使がいつでもこれらの目的と比較されるようにする」と宣言します。つまり、人権宣言は単なるスローガンではなく、「今後の法律や政治を評価する基準」をあらかじめ定めたものだと言えます。

第1条は、「人は自由かつ権利において平等なものとして生まれ、そして生きる」と宣言します。ここには、血統や身分によって人間を区別する旧体制への明確な対抗意識が込められています。第2条では、「自然権」としての自由・所有権・安全・圧政への抵抗権が掲げられます。自由は「他人を害しないあらゆることをなしうること」と定義され、所有権は「侵すことのできない神聖な権利」として特に強調されています。

主権については、第3条が「すべての主権の原理は、本質的に国民のうちに存する」と定め、王権神授説を否定します。政府や官吏は、国民から権限を付託されているにすぎず、公共の利益のために責任を負う存在と位置づけられました。これは、後の「国民主権」「人民主権」の原理の直接の祖先です。また、第6条では、法律は一般意思の表現であり、「すべての市民は法律の制定に、みずからまたは代表者を通じて参加する権利をもつ」と述べられます。ここには、代表制や議会制の原理が含まれています。

法の前の平等も、人権宣言の中心的なテーマです。第6条はさらに、「法律はすべての者に対して同一であるべきであり、保護する場合にも罰する場合にも同様である」とし、公職・地位への就任も、能力に応じてすべての市民に開かれているべきだとしています。これは、生まれによって官職が限定される身分制への明確な批判です。また、刑事上の保障についても、第7〜9条で濫用逮捕の禁止、適正手続、罪刑法定主義、「有罪と宣告されるまでは無罪と推定される」といった近代刑事法の原則が打ち出されています。

表現の自由や宗教の自由も宣言されています。第10条は、「誰も、その意見のために、たとい宗教上のものであろうとも、法律によって定められた秩序を乱さない限り、迫害されてはならない」とし、第11条は「思想および意見の自由な伝達は、人間のもっとも貴重な権利の一つである」と述べます。これにより、検閲の廃止や信仰の自由の保障が革命の重要な目標として掲げられました。

このように、人権宣言は「自由」「平等」「国民主権」「法の支配」「所有権の保障」「表現・信仰の自由」といった近代政治のキーワードを、比較的簡潔な条文の形でまとめあげています。同時に、税負担の平等(第13条)や、官吏の責任(第15条)、権利の保障と権力分立(第16条)といった、具体的な統治原則も示されています。

適用の現実と限界:女性・奴隷・貧困層

しかし、人権宣言が謳い上げた「人間」「市民」の権利が、当時のフランス社会にすぐに普遍的な形で適用されたわけではありません。まず、政治参加の権利については、財産を持つ一定の納税者だけが「能動的市民」とされ、選挙権や被選挙権を持ちました。貧しい人びと(無産階級)は「受動的市民」とされ、形式的には権利の主体でありながら、政治的な意思決定に参加する力をほとんど持てませんでした。この点で、人権宣言の平等原則は、当初から「財産所有」という条件によって制限されていたと言えます。

また、女性も「市民」としての完全な権利主体とは見なされませんでした。人権宣言の条文は性別を限定していませんが、実際の政治制度は男性を前提としており、女性には選挙権も被選挙権も認められませんでした。この状況に対して、オランプ・ド・グージュは1791年に『女性および女性市民の権利宣言』を著し、「女性は生まれながらに自由であり、男性と平等な権利を持つ」と主張しましたが、彼女自身はやがてジャコバン派政権の下で処刑されてしまいます。この出来事は、人権宣言が掲げた理念が、女性には十分に及んでいなかったことを象徴的に示しています。

さらに、フランスの植民地に暮らす人びと、特にカリブ海のサン=ドマング(のちのハイチ)などで奴隷として働かされていた黒人たちにも、人権宣言の権利は直ちには適用されませんでした。植民地奴隷制の問題は、革命期のフランスでも大きな論争を呼びました。一時的に奴隷制廃止が決定されるものの、その後ナポレオンによって再導入されるなど、人権宣言の普遍主義と、植民地支配・人種差別の現実との矛盾は長く残り続けました。

このように、人権宣言は強い普遍主義的な言葉を用いながらも、その実際の適用範囲は「成人男性の市民」「ある程度の財産を持つ者」に偏っていました。宣言が掲げる「人間」とは、事実上は「自立した男性ブルジョワ市民」を中心に想定していたとも言えます。そのため、19世紀以降の労働運動や女性解放運動、植民地解放運動などは、人権宣言の原則を再解釈し、「すべての人間に本当に適用されるべきだ」と主張していくことになります。

それでも、人権宣言が重要なのは、「誰かが特権的に支配するのではなく、すべての人間に生まれながらの権利がある」という発想の枠組みを、公式の文書として提示した点にあります。この枠組みは、その後の社会運動にとって強力な「武器」となりました。人びとはしばしば、「人権宣言はこう言っているではないか」と、既存の権力や差別を批判する根拠としてこの宣言を引用しました。つまり、人権宣言は、不完全で偏った内容を持ちながらも、その後の歴史のなかで、より広い意味での人権を実現しようとする運動に繰り返し利用され、拡張されていったのです。

その後の世界への影響と評価

人権宣言は、フランス革命期を超えて、世界各地の政治思想と憲法に大きな影響を及ぼしました。フランス自身でも、1791年憲法、1848年革命期の諸憲法、第三共和政の諸制度などが、人権宣言の理念を前提として作られました。革命の波がヨーロッパに広がるなかで、各地の自由主義者や国民主義者は、人権宣言を模範として、立憲政治や市民的自由の確立を求めました。ドイツやイタリア、日本などでも、19世紀後半に成文憲法を導入するさい、フランス型・アメリカ型の権利章典をどのように取り入れるかが重要な論点となりました。

20世紀に入ると、人権宣言の影響は国際的な人権規範の形成にも及びます。第一次世界大戦後の国際連盟規約や少数民族保護条約、第二次世界大戦後の国際連合憲章や世界人権宣言(1948年)、国際人権規約などは、「すべての人間は生まれながらに尊厳と権利を持つ」という考え方を柱としており、その系譜をたどれば1789年の人権宣言にたどり着きます。もちろん、現代の国際人権法は、女性や子ども、障害者、移民など、より多様な主体を含むよう拡張されており、人権宣言の限界も同時に乗り越えようとしています。

人権宣言に対する評価は、一様ではありません。自由主義の立場からは、個人の自由と法の支配を宣言した画期的な文書として称賛されますが、マルクス主義などからは、「私有財産の神聖視」を通じてブルジョワジーの支配を正当化した文書だと批判されることもあります。実際、宣言が強く保護する「所有権」は、資本主義社会においては、階級格差の固定化とも結びつきうるものでした。

また、ポストコロニアルやフェミニズムの視点からは、「普遍的人間」という言葉の背後に、実際には男性・白人・ヨーロッパ人を中心に据えた視線が潜んでいることが指摘されます。この意味で、人権宣言は、「普遍性を名乗りながら特定の人びとの経験に偏っている」という近代思想の矛盾を体現しているとも言えます。

それでも、人権宣言がなければ、その後の批判や拡張も存在しえなかったという見方もできます。「すべての人間は生まれながらに自由で平等である」と一度言葉にされた以上、歴史の中で後から現れる人びとは、「それならば女性も、黒人も、植民地の住民も、障害者も、その『すべての人間』に含まれるべきだ」と主張することができます。人権宣言は、現実には不完全な出発点でしたが、その不完全さゆえに、多くの運動が「約束されたはずの権利の実現」を求めて立ち上がる契機ともなりました。

人権宣言(人間および市民の権利の宣言)を学ぶことは、単に「フランス革命で採択された有名な文書」として暗記するだけでは不十分です。そこには、旧体制を壊し、新しい社会の原理を言葉で定式化しようとした人びとの試みと、その中に含まれる理想と矛盾の両方が詰め込まれています。現代の私たちが「人権」や「自由」「平等」といった言葉をどのような意味で使っているのかを考えるとき、その原点の一つとして、この1789年の宣言をじっくり読みなおすことには、大きな意味があると言えるでしょう。