均田制(隋) – 世界史用語集

隋の均田制(きんでんせい)は、北朝以来の「人に土地を付す」原理を帝国全土へ再編・再配線した土地制度で、戸籍・租税・兵役・労役を一本の回路で結び直した点に特色があります。北魏が5世紀後半に試みた均田・三長制の枠組みを、隋は統一事業の中で標準化し、律令(開皇律令)と台帳(図籍・計帳)を通じて全国に適用可能な行政技術へ高めました。要するに、各戸の構成員(年齢・性別・身分)に応じて口分田などの耕地を給付し、受給者の死亡や年齢到達時には返還させる—その代わりに穀物・布・労役の負担を明確にし、兵役動員の基盤も固定化する、という設計です。唐代の租庸調制の「下敷き」となったことで知られますが、隋の段階で既に配田・台帳・徴発の運転法が完成度高く組み合わさっていたことを押さえると、隋帝国の統治の実像が見えてきます。

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成立の背景:統一王朝の再建と「人—土—税—兵」の再接続

6世紀の中国北方は、北魏の分裂(東魏・西魏)を経て北周・北斉が対立し、南北朝の分裂が長く続いていました。隋の文帝(楊堅)は北周の権力基盤を継承して589年に南朝陳を滅ぼし、久しぶりの統一王朝を打ち立てます。しかし、長年の戦乱で戸籍は乱れ、荒蕪地が増え、豪族・軍閥の土地集中が進んでいました。国家財政と兵員の安定確保、そして地域差の大きな税制を一本化することは最優先課題でした。そこで文帝が着手したのが、開皇年間における法制・戸籍・土地の同時再編です。均田制は、流民の帰籍と荒地の再耕作を促しつつ、課税と兵役を「見える化」するための中核装置だったのです。

制度設計の発想自体は北朝に由来しますが、隋の新味は、(1)中央と地方の台帳整備を徹底したこと、(2)配田・返還と課税・動員のオペレーションを律令に埋め込み、運用手順を標準化したこと、(3)南北統一後の多様な地域条件に合わせた弾力運用の枠を設けたこと、の三点にありました。こうして均田は理念から実務へ、局地制度から帝国制度へと格上げされます。

制度の骨格:口分田・永業田・桑麻田と返還原則

隋の均田制の中心は、成丁(成年男子)を基本単位とする口分田の給付です。口分田は受給者の生存中に限り耕作・収益を認められる「使用権的な田」で、死亡や規定年齢到達時には原則として国庫に返還され、次の受給者に再配分されます。配田面積は地域の地力や水利によって標準値が設定され、寒冷地・乾燥地・沖積平原などの差をならす工夫がとられました。女性・高齢者・奴婢についても細則が置かれ、労働力に応じた配付が設計されます(ただし中心はあくまで成丁男子で、制度の中核は徴税・徴兵可能人口の固定化にありました)。

これと並行して、家産として相続可能な永業田、養蚕・繊維用の桑麻田など、長期投資を要する用途の田地が設定されました。永業田は返還義務がなく、家の財産として継承される代わりに課税対象となります。桑麻田の給付は、女性労働による絹・麻の生産力を制度的に見込んだもので、軍需や官服用の繊維供給を安定させました。口分田が「暮らしを回す田」、永業田・桑麻田が「家を育て国家の物資基盤を支える田」と考えると、二層構造の狙いが理解しやすいです。

返還原則は、土地の固定的私有・豪族集中を防ぐための歯止めでした。世代交代のたびに国が再配分できる余地を確保し、各戸の人口変動に応じて配当と負担を調整し直す狙いがあります。返還・再配分の操作には測量・境界確認・帳簿更新の行政コストが伴いますが、隋は図籍(地図帳)と計帳(戸口・田地の台帳)を整備して、この運転を行政ルーティンに組み込みました。

台帳と律令:図籍・計帳・開皇律令が支えた標準運転

隋の強みは「帳簿主義」にありました。各州県は図籍(地割・水路・耕地類型などを記した地籍帳)と計帳(戸数・人数・年齢区分・配田面積・課税額・労役割当を記す台帳)を作成し、中央の度量衡と用字・様式に合わせて定期更新しました。これにより、誰がどれだけの田を耕し、何をどれだけ納め、いつ返すのかが可視化され、徴税・徴兵の根拠が統一されます。豪族や郷里有力者による私的囲い込み・隠匿を抑止する効果も期待されました。

こうした運用は、開皇律令に具体的な条文として埋め込まれました。土地給付の資格・面積基準・返還の年限、課税物(穀・布)と労役(道路・城壁・治水・皇城営繕など)の手順、台帳提出や検査の期限、違反時の処罰といった実務は、法制の中で標準化されます。律(刑法)と令(行政法・民事規定)が一体化していたため、均田は「法律に基づく行政事務」として運転され、恣意とバラツキを抑える設計でした。唐の貞観律令が高く評価されるのは、この隋の法制設計を洗練・拡張したことの延長線上にあります。

徴税・徭役・兵役:配田を軸に回る国家の取り立て回路

均田制の核心は、配田と徴発を一体で回す点にあります。戸籍上の丁(成丁男子)は、配田面積と家族構成に応じて、穀物(租)・布帛(調)・労役(徭)を負担しました。隋段階では、後代の唐の租庸調ほど規定が周知の形に定着していないものの、穀・布を基本とし、一定の年数・時期ごとに労役に出る、あるいは物納で代替する枠組みが整えられています。配田があることで、徴税基盤が計量化され、徴発が「数える」「配る」「集める」という行政手順に落とし込めたのがポイントでした。

兵役については、北周以来の府兵的編成を継承しつつ、配田を持つ戸を兵戸として登録する仕組みが維持されました。平時は農耕、召集時には軍務に従事し、軍装・馬匹・装備の負担も戸ごとに定められます。これは、常備軍の人件費・補給費を抑制し、動員の可視性と即応性を高める工夫でした。大規模な土木(大運河整備など)は別枠の動員も絡みますが、基礎的な兵員・労力の台帳があることが、国家事業の「計画可能性」を大きく押し上げたのです。

効果:荒蕪地の再生、豪族抑制、南北の統合、都市—農村の循環

均田制がもたらした第一の効果は、耕地の再生と流民の定着です。給付を餌に戸籍復帰を促し、用水・畦畔を整えて栽培を再開させることで、税収の底が上がりました。第二に、豪族による土地集中の抑制です。返還原則と帳簿の透明化は、私的囲い込みを監視対象にし、徭役・兵役の免除特権に歯止めをかけます。第三に、南北の税制・土地慣行の統合です。長らく分裂していた両地域の多様な慣行を、均田—台帳—徴発の標準運転へ収れんさせたことで、帝国の統治コストが低減しました。

また、均田制は都市—農村の資源循環を整える基盤にもなりました。均一化された徴税は、首都や辺境の軍鎮、運河交通の維持に必要な穀・布・労働を安定供給し、都市の手工業・官用消費が農村へ現金・物資・技術を還流させるサイクルを生みます。配田—徴発—運河—首都—再配分、という物的循環が見通しの良い形で運転されたことは、短期的な行政効率の向上だけでなく、隋—唐の長期的繁栄の足場になりました。

限界とゆらぎ:自然・行政コスト・戦役の圧力、そして煬帝期

とはいえ、均田制は万能ではありませんでした。第一に、華北の気候変動—旱魃・洪水—は収穫の振れ幅を大きくし、配田の数理と現実の実りが乖離する年が生じます。第二に、返還と再配分は測量・境界確認・帳簿更新を伴う高コストの事務作業であり、州県の人員・技術・廉潔さに依存しました。監督者と豪族が癒着すれば、均田は形式だけが残り、実地は荘園化が進む危険があります。第三に、軍事遠征と巨大土木の連続は、均田の「平時運転」を乱します。煬帝期の高句麗遠征と大運河大工事は、労役の過重と徴発の強化を招き、各地で反乱が頻発しました。制度の優位が、政治的判断の過負荷の前で崩れる典型です。

加えて、統一後の人口移動と都市集中は、配田のバランスを崩しやすい要因でした。長安・洛陽の宮都経済が拡大するほど、周辺・遠隔地からの人の流入が増え、農村の戸籍と現住の乖離が生じます。均田制は「定住—耕作—納税—従軍」を前提に設計されているため、移動の増大は制度の摩擦を増やしました。隋末の混乱は、この摩擦の爆発点でもありました。

唐への継承:租庸調・府兵・里甲の「隋唐体制」へ

それでも、隋が整備した均田—台帳—律令の枠組みは、唐に継承されて洗練されます。唐は均田制の標準配田と返還年齢、桑麻田の相続可否などをより精密に規定し、租庸調制(租=穀、庸=労役の布納による代替、調=布帛)を全国的に運転しました。府兵制も、兵農一致の原理を保ったまま、首都防衛と辺境防衛の二重構造に調整されます。隋が作った法・帳・土地の「三位一体」こそが、唐の繁栄を支えた標準装置であり、均田制はその基礎回路でした。

やがて唐後期には、人口増・戦乱・荘園化・貨幣経済の深化とともに均田—租庸調は弛緩し、780年の両税法へと転換します。ここには、返還・再配分という運転様式の限界—行政コストと経済構造の変化への硬直性—が露わになっています。均田制は形成・再統合の局面にきわめて有効でしたが、都市化と市場化が進む局面では、資産課税・交易課税を軸とする新たな税制に道を譲らざるを得ませんでした。

比較と位置づけ:北魏との違い、日本・朝鮮の参照、誤解の回避

北魏の均田制が「危機の中の秩序回復」の性格を強く持つのに対し、隋の均田制は「統一帝国の標準運転」の性格が濃いと言えます。すなわち、隋では配田・返還の手続きが律令・台帳へ深く埋め込まれ、南北の制度差を橋渡しする役割がより明確でした。日本の班田収授法は、まさに隋唐の均田—台帳—律令の思想を受けたもので、条里制の地割、六年一班、口分田の返納といった運転法が導入されます(のちに墾田永年私財法や荘園の発達で変質)。朝鮮半島でも、田籍・戸籍を結びつける賦役体系が参照・変容されました。こうした参照の連鎖は、均田制が東アジアに伝えた「国家の技術」としての重みを示します。

なお、均田制を「皆に均しく分ける平等主義」と理解するのは誤りです。実際は、税と兵の担い手を安定して把握するための配分であり、家の再生産や国家物資の確保に合わせた差別化(性別・年齢・職能・地域)を含みます。均田制の価値は、正義の理念というよりも、行政の計量化・標準化・可視化にあります。

締めくくり:制度を運転する—隋の均田制が遺したもの

隋の均田制は、土地法の条文だけでは語り尽くせない「運転の技術」でした。配る、記す、集める、返す、また配る—この循環を、律令・台帳・役所の手順書に落とし込み、全国で同じフォーマットで回す。だからこそ、統一帝国の行政コストが下がり、税・兵・労力の調達が計画可能になりました。制度は政治の重圧や自然の気まぐれの前で揺らぎますが、それでも隋が残した運転設計は、唐の長期安定と東アジアの法制史に深い刻印を残しました。均田制(隋)を学ぶことは、国家が「人—土—税—兵」をどうつなぎ、どう更新していくのか—その根本の知恵を知ることにほかなりません。