唐の均田制(きんでんせい)は、北魏・隋の経験を受け継ぎつつ、律令国家の中核装置として「人に土地を付す」原理を全国規模で運転した土地制度です。戸籍に登録された人々に口分田などの耕地を一定基準で給付し、受給者の死亡や規定年齢到達の際には原則として返還させる一方、その見返りとして穀物・布・労役(のち布納による代替)を負担させる仕組みでした。均田は単独の法ではなく、図籍・計帳と呼ばれる地籍・戸籍台帳、租庸調制という税制、府兵制という兵役編成、里甲などの末端行政の運用と一体化してはじめて機能しました。唐の繁栄を支えた「標準運転」の要石であり、同時に安史の乱以降の社会変動の中で弛緩・崩壊に向かう過程を観察できる制度でもあります。ここでは、(1)成立の背景、(2)制度の骨格、(3)運用と税・兵の回路、(4)効果と限界—両税法への転換と東アジアへの影響、の順に整理して解説します。
最初に押さえたいのは、唐の均田制が「平等に分ける理想」ではなく、「誰から何をどれだけ安定的に徴収し、必要時に誰を動員できるか」を可視化するための現実的設計だったことです。土地の再配分・返還は、豪族による集中を抑え、流民を戸籍に戻し、国家の税・兵の基礎を保つための装置でした。つまり、均田とは土地法であると同時に、国家財政・軍事・文書行政を束ねる「運転マニュアル」でもあったのです。
成立の背景:隋唐国家の標準装置としての均田
唐は隋の統一行政を継承・洗練して成立した王朝です。隋の開皇期に整備された均田—図籍—計帳—律令の枠組みは、唐の初期改革(貞観・永徽期)で再点検され、南北の多様な慣行を吸収しつつ標準化されました。長期の戦乱で乱れた戸籍の再整備、荒蕪地の再耕作、豪族の私的囲い込みの抑制が、初唐国家の急務だったからです。
唐の均田制は、律令国家の「型」をなす別の制度—租庸調制(税)と府兵制(兵)—と強く同期していました。配田が決まれば、徴税額・労役量・兵役義務が自動的に算定でき、州県—郷里—里甲の末端単位まで同一フォーマットで割当・集配が可能になります。こうして均田は、唐の政治的安定と財政・軍事の持続性を生み出す実務的基盤になりました。
制度の骨格:口分田・永業田・桑麻田と返還原則
唐の均田制の中心は、成丁(成年男子)を基本単位とする「口分田」です。これは受給者の生存中に限って耕作・収益が認められる使用権的性格の田地で、死亡や規定年齢に達した際には原則として国庫に返還されます。配田の標準は地力や水利に応じて地域差が設けられ、寒冷・乾燥・沖積などの条件に合わせて調整されました。女性・高齢者・奴婢への配当や、牛の保有・軍装の負担に応じた加給なども細則で定められ、労働力と国家需要を一致させるよう設計されています。
これと並立したのが「永業田」です。永業田は家産として相続が可能で、返還義務はない代わりに課税対象となりました。宅地や果樹園、長期投資を要する作目に充当され、家の再生産と地域の定住を支える役割を担います。あわせて「桑麻田」の給付も重視されました。養蚕と製織は軍需・官需の布帛確保に直結し、女性の労働を制度的に組み込む意味があったからです。口分田が「暮らしを回す田」、永業田・桑麻田が「家を育て国家物資を支える田」という二層構造が、唐の標準形でした。
返還原則は、土地の固定的私有化と豪族集中を抑える要でした。世代交代のたびに再配分が可能であることは、戸籍人口の増減や地域の再開発に応じて配当を調整し、課税と兵役の担い手を更新し続ける行政上の余地を国家に残すことを意味します。もちろん、返還・再配分には測量・境界確認・帳簿更新などの行政コストが伴い、これを低く抑えるための文書・印判・様式の統一が徹底されました。
運用の実際:図籍・計帳、租庸調制、府兵制と里甲
唐の強みは、均田を「帳簿主義」で運転した点にあります。州県は「図籍」(地割・水路・耕地類型を記した地籍帳)と「計帳」(戸口・年齢区分・配田面積・租庸調負担・労役回数などを記した台帳)を作成し、定期的に中央へ報告しました。度量衡や書式、印章の使用が統一され、更新サイクルが制度化されることで、徴税・徴兵は「数える—配る—集める—記す」という反復可能な事務へと変換されました。
租庸調制は、均田と噛み合うように設計されました。「租」は主に穀物の納入、「調」は布帛などの物納、「庸」は一定日数の労役ですが、のちには布納による代替(庸調)も広く行われます。配田があることで、各戸の負担が計量化され、徴発の基準が明瞭になりました。道路・城壁・治水・宮城営繕などの公共事業は、庸およびその代替物納で支えられ、首都や軍鎮への穀・布の安定供給が可能になりました。
兵役は初唐の「府兵制」が特徴的です。耕地を持つ戸を兵戸として登録し、平時は農耕・有事は軍務に就く兵農一致の編成で、装備・馬匹・遠征時の負担は戸ごとに割り当てられました。これは常備軍の人件費を抑え、動員の即応性を確保する工夫でした。末端では里甲・里坊などの単位が戸籍・治安・徴発を担い、均田—租庸調—府兵という国家の回路が、郷里の最小単位にまで浸透していました。
こうした運用は、律令の条文に埋め込まれ、違反の罰則や監督の手順が明確化されています。均田は単なる「良き理念」ではなく、役所の机上で回す具体的な事務になっていた点が、唐国家の運転効率を高めた決定的要因でした。
効果と限界:繁栄の基盤から崩れ—両税法への転換と周辺への影響
均田制の効果は多方面に及びました。第一に、荒蕪地の再耕作と流民の定着です。配田を餌に戸籍復帰を促し、用水・畦畔が整備され、税収と兵員の底が厚くなりました。第二に、豪族の私的囲い込みの抑制です。返還原則と帳簿の透明化は、荘園的集積に対する牽制となり、特権的免除の切り崩しに寄与しました。第三に、都市—農村—辺境の資源循環の確立です。均一化された徴収は、首都の消費や軍鎮の補給、大運河・関所の維持を安定させ、手工業・官用需要が農村へ物資・貨幣・技術を還流させました。唐の長期繁栄は、この標準運転の上に築かれたと言えます。
しかし、限界も明瞭でした。最大の転機は安史の乱前後です。戦乱と人口移動で戸籍と現住が乖離し、図籍・計帳の実質が失われました。府兵制は長期遠征・辺防の恒常化に耐えられず、募兵・節度使の常備軍へ移行します。豪族・寺社・官僚による荘園化が進み、返還原則が空洞化しました。貨幣経済の深化は、実物中心の租庸調と齟齬を生み、物納や労役の代替が進むほど、配田基準の徴収の実効性は低下します。さらに、華北の旱魃・洪水の反復は、配田の数理と収穫現実の乖離を広げました。
この矛盾を抜本的に整理したのが、8世紀末の「両税法」です。両税法は夏・秋二期に金銭で税を納める方式を基本とし、土地や家産、商業活動に応じて課税する発想に転換しました。これは、返還・再配分を前提とする均田—租庸調の運転様式から、資産・取引を基礎とする貨幣税制への移行を意味します。均田制は形成・再統合の局面では強力でしたが、都市化・市場化が進む局面では、徴収コストと制度硬直性のために後退を余儀なくされました。
それでも、唐の均田制が遺した影響は大きいです。日本の班田収授法は、均田—台帳—律令の思想を継受して運転され、口分田の返納や条里制の地割が導入されました(のちに墾田永年私財法・荘園制で変質)。朝鮮半島でも、田籍・戸籍を結びつける賦役体系が参照・変容されました。東アジアにおける「国家による土地—人—税—兵の接続技術」として、均田制は長い影を落としたのです。
総じて、唐の均田制は、律令国家の標準運転を可能にした統治技術でした。配る—記す—集める—返す—また配る、という循環を、法と帳簿と末端組織の協同で回し続ける—その持続が帝国の繁栄を生みました。他方で、戦乱・人口移動・市場化という歴史の波が高まるとき、同じ仕組みは弱点をさらけ出します。均田制(唐)を学ぶことは、制度がいつ、どの条件でよく機能し、どの条件で更新を迫られるのかを見定める眼を養うことにほかなりません。土地—人—税—兵—記録を一本の回路で結ぶという発想は、今日の行政や社会設計にも通じる示唆を与えてくれます。

