金ドル本位制(きんドルほんいせい)は、第二次世界大戦後のブレトンウッズ体制の核となった国際通貨システムで、米ドルを唯一の金との交換可能通貨(公式に1オンス=35ドルで対外交換)と位置づけ、各国通貨はその米ドルに対して固定相場(ただし必要時に小幅の調整は可)で結び付ける仕組みでした。要するに「金↔ドル↔各国通貨」という二段構えの金本位であり、一般の民間や個人が金と自由に交換できるわけではなく、各国の中央銀行・政府だけが米国財務省に対してドルを金に替える権利を持つ仕組みでした。IMFによるパリティ(平価)の登録と監督、資本移動の統制、為替介入と外貨準備の運用、必要時の“調整可能な固定相場”が組み合わさり、戦後復興から高度成長の通貨・決済の秩序を支えました。半面、米国の国際収支と世界の流動性供給が矛盾する「トリフィンのジレンマ」、金保有量とドル供給量の乖離、ユーロダラーの拡大、金価格防衛の破綻(ロンドン・ゴールド・プールの崩壊)などの内在的限界から、1971年のニクソン・ショックで金交換停止、1973年の主要国変動相場制移行へと瓦解しました。以下では、成立の背景、制度の仕組みと運用、機能と矛盾、崩壊への過程とその後の展開を、わかりやすく整理します。
成立の背景:金本位の挫折からブレトンウッズへ
金ドル本位制は、19世紀後半に確立された古典的金本位制と、戦間期の金為替本位制(gold exchange standard)の試行錯誤を踏まえて設計されました。第一次世界大戦で各国は金本位を停止し、戦後の復帰はデフレ圧力と失業の拡大を招き、1931年に英ポンドが金本位から離脱、各国はブロック経済と為替管理、保護主義へと傾きました。こうした分断の反省の上に、1944年7月、連合国はブレトンウッズ会議でIMF(国際通貨基金)とIBRD(世界銀行)の創設、戦後の通貨・復興金融の枠組みを合意します。その中心が、金とドルを基軸にした新秩序=金ドル本位制でした。
戦後の米国は、圧倒的な金保有(当時世界の約3分の2)と産業競争力、軍事力を背景に、ドルを世界の決済・準備通貨として提供できました。マーシャル・プランや対外投資、軍事支出のドル放出は、戦後の「ドル不足」を解消し、欧州復興と世界貿易の拡大を支えます。IMFは為替相場の安定と一時的な国際収支不均衡への融資を通じて、協調的に体制を運転する役割を担いました。
制度の仕組み:「金↔ドル↔各通貨」を支える装置
金ドル本位制の中核は三点です。第一に、米国が対外的に「1オンス=35ドル」での公的金交換を約束すること(ただし交換権は各国通貨当局に限定)。第二に、各国が自国通貨の対ドル平価(par value)をIMFに登録し、上下1%の許容変動幅の範囲で固定相場を維持すること(許容幅を超える必要がある場合はIMF協議のうえで平価の切上げ・切下げ=調整が可能)。第三に、IMFの信用供与(スタンドバイ取極など)と資本移動の一定の管理(とくに短期投機資本の流入出に対する規制)です。これらを組み合わせ、「貿易と雇用を犠牲にしない安定」をめざしました。
実務の流れは次の通りです。各国は外貨準備として主にドルと金を保有します。為替市場で自国通貨が下落すれば、中央銀行はドル準備を売って自通貨を買い支え、逆に自通貨が上昇すればドルを買って自通貨を供給します。準備が不足すればIMFからの借入や、米国とのスワップ、他国からの短期資金で補います。最終的にドルは米国財務省に持ち込めば金に替えられる—この「最後の兌換約束」が、信認の錨(アンカー)でした。
もう一つの柱が「調整可能な固定相場」です。構造的な経常収支不均衡が生じた場合、当該国は国内の緊縮だけに頼らず、一定幅の平価調整(デヴァリュエーション/リヴァリュエーション)で外的バランスを回復できます。これは古典的金本位制の厳しい自動調整(輸出入に伴う金流出入→国内信用の収縮拡張→物価賃金の変化)に比べ、雇用の犠牲を軽くするための意図的な改良でした。
運用の初期:ドル不足、回復、欧州通貨協力の芽生え
1940年代後半~50年代前半、世界は「ドル不足」に直面しました。復興と輸入需要が先行し、ドルの供給が足りなかったためです。マーシャル・プランの資金、米軍の海外支出、対外投資、輸入代金の支払いなどでドルが海外へ出ていくにしたがい、不足は徐々に緩和されました。1958年の西欧主要国の通貨兌換性(経常取引に限る)回復は、金ドル本位制の実質的な本格稼働を意味しました。
欧州では経済統合が進み、欧州通貨協力の前身となる制度(欧州支払同盟、のちのスネークやEMSへ続く発想)が育ちます。固定相場を維持するには、域内の協調と準備の相互支援が有効であり、域内貿易の増大と共に通貨協調は重要性を増しました。
機能と矛盾:トリフィンのジレンマ、ゴールド・プール、ユーロダラー
体制の心臓に横たわったのが「トリフィンのジレンマ」です。世界が成長し貿易が拡大するほど、準備通貨(ドル)の供給が必要になります。ドル供給を増やすには、米国が経常赤字や海外投資でドルを外へ出す必要があります。しかしドルが世界に出回るほど、外国当局が保有するドル残高は米国の金保有高を上回っていき、「いつでも35ドルで金と替えてくれるのか」という疑念が高まります。すなわち、世界流動性の供給(ドルの外への放出)と、ドルの金兌換の信認(米国の金準備の厚み)は、長期的には両立しにくいのです。
この矛盾を緩和するための協調策が、1961年に発足したロンドン・ゴールド・プールでした。米国と主要欧州の中央銀行が金を持ち寄り、ロンドン市場での金価格が35ドルを越えないよう共同で売り介入を行ったのです。しかし1960年代後半、ベトナム戦争支出と「偽りなき豊かさ」政策によるインフレ圧力、フランスのド・ゴール政権によるドルから金への交換要求の強まり、民間市場での金需要の増大が重なり、1968年にゴールド・プールは崩壊。公式市場(当局間)と民間市場の「二重価格制」が導入され、金価格の統一的な錨は弱まりました。
同時期に、米国外の銀行間で取引されるオフショア・ドル「ユーロダラー」が急拡大しました。ユーロダラー市場は米国内の規制を回避して短期資金を大量に供給し、固定相場下の投機的資本移動を加速させます。各国の通貨当局は資本統制を強化しつつも、相場防衛の負担は増大しました。IMFは新たな準備資産として1969年にSDR(特別引出権)を創設し、金とドルへの依存の分散を図りましたが、構造的な矛盾を根本から解消するには至りませんでした。
崩壊への道:ニクソン・ショック、スミソニアン合意、変動相場へ
1971年8月15日、米国のニクソン大統領はドルの対外金兌換停止を宣言しました(いわゆるニクソン・ショック)。これは「最後の錨」を外す決断であり、各国通貨当局のドルから金への交換請求に応じないことを意味しました。同年12月には、主要国が新たな為替レートと許容幅拡大で合意するスミソニアン合意が成立し、名目上は固定相場を試みましたが、1972~73年にかけての通貨不安とオイルショックの前触れの中で、相場維持は困難になりました。1973年3月、主要先進国は相次いで変動相場制へ移行し、金ドル本位制は事実上終焉します。
IMFは1976年のジャマイカ合意(第2次改正協定)で、金の評価(公定価格)の廃止、金の貨幣的役割の縮小、各国の相場制度選択の自由(ただし通貨操作による不公平な優位追求は不可)などを明文化し、戦後体制の法的な仕舞いをつけました。以後、世界は管理通貨(不換紙幣)と多様な相場制度(独自の変動、通貨バスケット連動、通貨委員会など)の時代へ入ります。
評価:安定・成長の枠と、その内在的限界
金ドル本位制は、戦後の復興と高度成長を支えたという意味で大きな成功でした。固定相場は貿易と投資の予見可能性を高め、IMFのセーフティネットは一時的な不均衡の激しい調整を和らげました。資本統制を併用する設計は、完全自由化よりも雇用と成長を優先する余地を各国に与え、ケインズ的マクロ運営(有効需要管理)と両立しやすかったのです。
一方、体制は米国の国力・信認に依存しすぎる構造的弱点を抱えました。世界が必要とする流動性(ドル)の供給と、ドルの金兌換の約束は長期には両立せず、ドル不足から一転してドル過剰(過剰流動性)、米国インフレの輸出、各国の相場防衛コスト増という連鎖を招きました。ユーロダラーの拡大は資本統制の実効性を侵食し、二重の矛盾—国家主権の通貨管理と越境市場の拡張—を露わにしました。金というモノの希少性に通貨の信認を結びつける設計は、成長と金融革新の速度に追いつけなかったとも評価できます。
日本・欧州の経験:固定相場の下での成長と転換
日本は1949年の単一為替レート(1ドル=360円)設定以降、金ドル本位制の枠内で輸出主導・投資主導の高度成長を遂げました。固定相場は産業政策と輸出インセンティブを安定させ、為替不安の少なさは長期投資の意思決定を容易にしました。1964年の経常取引に関する為替自由化、OECD加盟、資本取引の段階的自由化を経て、日本経済は国際統合を深めますが、1971年の円切上げ(スミソニアン合意)と1973年の変動相場移行で、為替は新たな不確実性の源となりました。欧州では、金ドル体制の終盤に域内通貨の「スネーク」、のちのEMS(欧州通貨制度)を経て1999年のユーロ導入へと連なり、域内の独自安定装置を模索しました。
その後:不換紙幣の時代、ドル基軸と多極化、金の位置づけ
金ドル本位制の終焉後も、ドルは依然として主要準備通貨・決済通貨の地位を保ち続けています。米国の金融市場の深さ、法制度、軍事・政治的影響力、ネットワーク外部性が、基軸通貨の地位を支えたからです。他方で、ユーロや人民元、SDRの役割拡大、地域的通貨協定(通貨スワップ網)など、多極化の芽も育っています。金は貨幣制度の中心から退いたものの、中央銀行の準備資産・地政学的リスクのヘッジ・市場の「最終的安全資産」としての位置づけを保ち、価格は市場で自由に変動するようになりました。
総じて、金ドル本位制は「戦後世界の秩序づくり」の大実験でした。金という実物の希少性、ドルという国家信用、IMFという協調装置、固定相場という安定器を組み合わせ、成長と雇用を守ろうとしたのです。その成功と失敗の両面を学ぶことは、今日の通貨・金融の不安定さ—資本移動の巨大化、デジタル資産の台頭、地政学リスク—に向き合う際の比較基準を与えてくれます。どのように国際的な信認の錨を設計し、調整コストを誰が負担するのか。金ドル本位制が遺した問いは、形を変えて現在にも続いています。

