伊藤博文 – 世界史用語集

伊藤博文(いとう・ひろぶみ/1841–1909)は、明治日本の国家建設を設計・実装した中心人物の一人であり、近代憲法と内閣制度を整えた初代内閣総理大臣として知られます。長州の下級武士から出発し、若くして英国留学で西欧の政治・法制度に触れ、維新政府では財政・内政・外交を歴任しました。1889年の大日本帝国憲法の制定、1885年の内閣制度創設、枢密院・貴族院・選挙制度の整備、さらには1900年の立憲政友会の結成など、日本の「立憲君主制+議会政治」の骨格をつくったのが伊藤です。他方で、1894–95年の日清戦争の講和(下関条約)や、朝鮮半島に対する統監としての関与(1905–09)を通じ、帝国日本の膨張と支配にも深く関わりました。1909年、ハルビンで韓国の独立運動家・安重根により暗殺され、その生涯は「立憲政治の設計者」と「帝国拡張の実務者」という二つの面を併せ持つ複雑な像を残しました。以下では、出自と維新、憲法と国家制度の構築、政党政治と外交・戦争、朝鮮統監と暗殺という四つの視点から、その軌跡を整理します。

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出自と維新の道――長州の下級武士から「長州五傑」、そして新政府へ

伊藤は1841年、長州藩(周防国)に生まれ、のちに伊藤家の養子となりました。若年期に吉田松陰の松下村塾に出入りし、尊王攘夷の空気の中で欧米の学術や政治への関心を深めます。1863年、藩の密命を受けて長州の同志とともに英国ロンドンへ渡航(いわゆる長州五傑の一人)し、工業・交通・憲政に接しました。攘夷の理想と現実の隔たりを痛感した経験は、のちの「富国強兵と立憲制度の両立」という路線選択に大きく影響しました。

帰国後は、下関戦争や第一次・第二次長州征討、薩長連合の形成といった局面で調整役・実務家として頭角を現します。戊辰戦争を経て明治政府が成立すると、伊藤は新政府の中枢に入り、会計・工部・内務などの要職を歴任しました。明治初期の大久保利通や木戸孝允、山県有朋らと協働しつつ、地租改正・殖産興業・地方制度の整備といった基幹政策の企画・運用に関与し、欧米視察と制度研究を重ねながら、近代国家の骨組みを描き出していきます。

とりわけ憲法制定構想では、単なる欧州模倣ではなく、日本の皇室制度・藩閥構造・軍の位置づけを組み込んだ「現実的な立憲」を追求しました。初期には英国型議会制への関心も抱きましたが、最終的にはドイツ(プロイセン)型の君主権の強い立憲君主制を参照点とし、将来の政党政治との折り合いをどうつけるかに知恵を絞ります。

憲法と国家制度の構築――内閣制度・枢密院・帝国議会の設計

1885年、太政官制を廃して内閣制度が創設され、伊藤は初代の内閣総理大臣に就任しました。複数の太政大臣・参議を置く旧来の合議体から、各省大臣を束ねる「内閣」への転換は、政策決定を俊敏化し、責任の所在を明確化するための制度改革でした。伊藤は首相として省庁間の権限調整を進め、官僚制の専門化と統一的指揮系統の確立を図ります。

憲法制定に向けては、1888年に枢密院を設置し、自らその議長として条文審査の最終段を指揮しました。ドイツ憲法学の助言(ロエスレルら)を受けつつも、日本の天皇制の歴史的性格を踏まえ、「統治権の総攬者としての天皇」という条理を軸に体系化しました。1889年の大日本帝国憲法は、天皇大権(統帥・条約・解散など)の明記、二院制(貴族院と衆議院)、責任内閣制の限定的導入、司法の独立、臣民の権利の列挙などを特徴とします。同時に、皇室典範・衆議院議員選挙法・貴族院令・官制群など、憲法を支える周辺法体系も整備され、1890年に帝国議会が開院しました。

伊藤が目指したのは、君主権・官僚制・軍の三者を基軸に置きつつ、民意を表す議院と政党を統治の回路に組み込むバランスでした。エリート官僚の統治能力に依拠しながらも、予算承認や言論の場としての議会を重視し、政党化の波を無視せずに制御する。のちに「超然主義」と評される距離の取り方は、政党内閣の全面展開へ向けた過渡期の「揺り戻しを吸収するための設計」でもありました。

政党政治と外交・戦争――立憲政友会、条約改正、日清戦争と講和

1890年代、伊藤は第二・第三次伊藤内閣を率い、対外関係と国内政治の双方で難題に挑みました。条約改正では、領事裁判権(治外法権)の撤廃と関税自主権の回復が焦点で、外相・陸奥宗光の下、1894年に英日通商航海条約が成立し、段階的に治外法権が撤廃されました。これは、法制度・司法・都市衛生など内政整備の成果とも結びつき、日本の「近代国家」としての承認を国際社会から引き出す節目となりました。

同年勃発した日清戦争では、伊藤内閣が戦時内閣を担い、軍の作戦を政治・外交面で支えました。1895年の下関条約で、遼東半島・台湾・澎湖列島の割譲や多額の賠償金、朝鮮の独立承認などが取り決められ、講和全権として伊藤と陸奥が署名しました。しかし直後の露独仏三国干渉により遼東半島の還付を余儀なくされ、日本国内には屈辱感と大陸政策の再設計の必要が残されます。伊藤はこの経験から、拙速な拡張よりも国力の充実と外交的布石を重んじる慎重論を強めました。

政党政治への姿勢でも転機が訪れます。官僚と政党の対立を調停し、予算や法案の通過を安定化させるため、伊藤は1900年に立憲政友会を結成し、初代総裁に就任しました。これは、官僚制と政党の協働を制度化する試みであり、同年の第四次内閣は短命に終わったものの、その後の桂園時代(桂太郎と西園寺公望の交代)に続く「政党内閣の芽」を育てました。つまり、伊藤は「反政党」ではなく、政党政治を国家の枠内で飼い慣らし、安定運用するための枠組みを用意したのです。

朝鮮統監と暗殺――保護国化の実務、併合をめぐる逡巡、ハルビンの銃声

日清戦争後、朝鮮半島は列強の角逐の舞台となり、日露戦争(1904–05)を経て日本の影響が決定的となりました。1905年、第二次日韓協約により大韓帝国は日本の保護国となり、外交権を日本が掌握します。伊藤は初代韓国統監(統監府長官)に就任し、漢城(京城)に常駐して制度改革と行政監督を進めました。彼は表向き、急激な併合には慎重で、保護国体制の下での「漸進的近代化」を標榜しましたが、現実には言論・警察・財政への介入が強まり、主権の実質的空洞化が進みました。反日運動の弾圧、皇帝高宗の退位、韓国軍隊の解散など、保護国政策は朝鮮社会に深い傷を残します。

1909年10月26日、伊藤はロシア側要人との会談のため満洲・ハルビン駅を訪れた際、韓国の独立運動家・安重根により銃撃され、その場で倒れました。安は法廷で、韓国保護国化と統監としての諸政策を糾弾し、東アジアの平和を掲げる主張を展開しました。伊藤の死は国内に衝撃を与え、翌1910年の韓国併合条約(韓国併合)へ傾く一因ともなりました。伊藤が生前、併合に慎重であったか否かについては研究が分かれますが、少なくとも統監期の政策が朝鮮の政治的自立を狭め、併合を準備したことは否定できません。

伊藤の評価は二面性を帯びます。国内政治では、憲法・内閣・議会・枢密院・選挙・政党の骨格を整え、近代日本の政治インフラを築いた功労者とされます。他方、対外では、条約改正の達成や講和交渉の手腕と並んで、朝鮮統監期の統治と暴力、アジアへの勢力伸長の現実が重くのしかかります。彼の人生は、近代日本の「立憲主義と帝国主義」が同時に進行した事実を一身に体現したものと言えます。伊藤博文を理解するには、制度設計の冷静な実務能力と、帝国拡張の現実に向き合った政治判断の双方を、歴史の具体的文脈の中で併せて捉えることが大切です。