三学部(ヨーロッパ中世の大学) – 世界史用語集

「三学部」は、ヨーロッパ中世の大学において芸術学部(artes/文学部)より上位に位置づけられた三つの専門学部――神学・法学・医学――を指す呼称です。中世大学の学位体系では、まず芸術学部で七自由学芸(トリウィウムとクアドリウィウム)を修めて学士・修士となり、その後に三学部のいずれかへ進んで専門の学識と実務資格を得るのが一般的でした。たとえばパリは神学、ボローニャは法学、サレルノは医学で名高く、都市と学部の強みが結びついて大学の個性を形づくりました。三学部は、聖職者・官僚・法曹・医師など中世社会の「専門職」を育成する装置であり、同時にスコラ学的な論証法と教会・王権の制度運営を支える知的基盤でもありました。以下では、大学の成立と制度、芸術学部と七自由学芸の役割、三学部のカリキュラムと学位、方法論(レクチオ/クエスティオ/ディスプータティオ)、代表的大学の特徴、社会的機能と近代への継承を、できるだけ平易に整理して解説します。

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成立と制度枠組み――大学(ウニヴェルシタス)という共同体

中世の大学は、教師と学生の同業団体(ウニヴェルシタス)が自治特権を得て成立した都市の学問共同体です。12~13世紀、ボローニャやパリ、オックスフォードなどで、司教・教皇・国王からの勅許により法的保護(身分保障、裁判特権、移動・講義の自由)が整備され、学問の担い手が都市のなかで自律的に活動できる枠組みが広がりました。学部(ファクルタス)は学術水準と授業権限の単位で、芸術学部が下位(基礎)に、神学・法学・医学の三学部が上位(高等)に置かれます。

学生と教師の組織は大学ごとに差異がありました。ボローニャでは学生団(ナシオーン)が強く、学長(レクトル)も学生側から選ばれ、教師に講義契約を課す構図が見られます。一方、パリでは教師団(マギステルのギルド)が主導し、学問の規範や試験の統制を担いました。カレッジ(寄宿・学寮)は生活共同体であると同時に、奨学と規律の装置で、遠来の学生や貧しい学徒を支援しつつ、学風の形成に大きな役割を果たしました。

学位は段階的に授与されます。芸術学部では学士(baccalaureus)、次いで修士(magister)・教導資格を取り、三学部では修士あるいは博士(doctor)の学位が権威ある称号となりました。博士は「教える権利(licentia docendi)」を象徴し、大学内外で講義・裁判・診療の資格証明として通用しました。

芸術学部と七自由学芸――三学部への橋渡し

三学部に進む前段として、芸術学部は七自由学芸(septem artes liberales)をカリキュラムの中核に据えました。文法・修辞・論理の三科(トリウィウム)は言語運用と論証の基礎であり、算術・幾何・天文・音楽の四科(クアドリウィウム)は数・調和・宇宙秩序の理解を目指しました。これらは実務的というよりも、思考の道具一式で、聖書解釈、法廷弁論、医療判断など、のちの専門で不可欠となる読解力・推論力・表現力を育てます。

教材は、ボエティウスの論理学・音楽書、ドナトゥスやプルーデンティウスの文法・修辞、ユークリッドの幾何、プトレマイオスの天文学など、古典からの継承が中心でした。12世紀以降はアラビア語圏からの翻訳文献(アリストテレス全集、天文学・医学・自然学)が流入し、芸術学部の知的地盤が強化されます。こうして、芸術学部は「教養」ではなく、三学部の専門課程を可能にする前提学として機能しました。

三学部の内実――神学・法学・医学のカリキュラムと学位

神学は、三学部の頂点と見なされました。聖書・教父の講解を軸に、ペテロ・ロンバルドゥス『命題集(センテンティアエ)』が教科書的地位を占め、のちにはトマス・アクィナス『神学大全』が体系化の典型となります。授業はレクチオ(権威あるテキストの逐条講義)とクエスティオ(問題提起)、これらの結論を公開討論するディスプータティオで構成され、異説照合と反駁によって定説を練り上げました。学位は長期(10年以上)の履修を経て博士へ至り、修道院・司教座・宮廷説教師・大学教授などの職に就きました。

法学は、ローマ法(民法)と教会法(カノン法)の二本柱です。ボローニャではイルネリウス、アッキュルシウスら古注釈学派(グロッサートル)が『ローマ法大全(コルプス・ユリス・キヴィリス)』の本文に周辺注釈(グロッサ)を付し、判例・条文の整合性を探りました。13世紀以降の後注釈学派(コメンタトル)は都市法や慣習法との調整を進め、実務適合性を高めました。教会法ではグラティアヌス『教令集』が核で、司教裁判所・婚姻・相続・修道規律などを統合的に扱います。学位取得者は、都市の公証人、裁判所の判事・弁護士、王権・都市の官僚、教会裁判官として各層の法秩序を支えました。

医学は、理論(体液説・解剖生理)と実務(診断・治療・薬方・衛生)を兼ねる分野で、サレルノ、のちにモンペリエが有名です。ガレノスやアヴィセンナ(イブン・スィーナー)『医学典範』が必読書で、病因論、体質と季節・食餌、薬物学(マテリア・メディカ)を系統的に学びました。臨床は医師・外科医・薬舗の分業のもとで進められ、地方によっては解剖の実施や公的免許制度(たとえばフリードリヒ2世のシチリア王国)が導入されました。学位は診療許可と結びつき、都市の施療院・宮廷医・大学の講座などへの道を開きました。

方法論――レクチオ/クエスティオ/ディスプータティオの三段階

三学部の授業は、基本的に同じスコラ学的手順を踏みます。第一にレクチオ(講解)で、権威(auctoritas)のテキストを逐語的に読み、語義・文法・論理を押さえます。第二にクエスティオ(質疑)で、テキストから生じる矛盾・対立命題を抽出し、賛否の論拠を並べます。第三にディスプータティオ(討論)で、公開の場に論点を提示し、反対者の異議に逐一応答して結論(判定)を示します。これらは単なる暗記ではなく、反証可能性を内蔵した訓練で、のちの科学的方法や法廷弁論、神学的ドグマ形成に影響を与えました。

試験も公開の口頭試問(オラル)と学位授与式(インセプシオ)を伴い、候補者は「教壇にのぼる儀礼」を経て共同体に迎え入れられます。議論の規範(相手の立論を正確に要約してから反論する、論点先取を避ける、権威と理性のバランスなど)は、今日のアカデミック・スキルの源流です。

大学ごとの個性――パリ・ボローニャ・サレルノ・オックスブリッジ

パリ大学は神学の牙城でした。ノートルダム大聖堂の学校を母体とし、聖職者養成と学術体系化でヨーロッパ中の学徒を引きつけます。アリストテレスの受容をめぐる禁止と解禁の波、修道会(ドミニコ会・フランチェスコ会)の参入、トマスやボナヴェントゥラらの活動が、神学の理論化を推し進めました。芸術学部も強く、論理学・自然学の講座はのちの自然哲学への布石となります。

ボローニャ大学は法学の都で、学生団の自治が強いことで知られます。ローマ法の再発見・注釈により、イタリア諸都市の契約・商取引・都市統治の法理が洗練され、各地の法曹がここで訓練されました。卒業生は公証人・裁判官として広く活動し、帝国と教会、都市国家の複雑な関係を法的に媒介しました。

サレルノ医学校は、翻訳運動の恩恵を受けた医療の実学拠点として著名です。薬方・衛生・外科の統合カリキュラム、免許制度、公衆衛生への配慮は、王権と都市行政のニーズに応えました。のちにモンペリエが大学として医学生産の中核となり、商業都市と海上ネットワークに支えられた臨床教育が発展します。

オックスフォード/ケンブリッジはパリ型の学寮体制を色濃く継承し、カレッジが教育・生活・規律の単位となりました。オクスブリッジの芸術学部は数学・自然哲学の発展に強みを持ち、のちの科学革命の土壌を育てました。法学・神学・医学の三学部も設けられ、国家教会・王権との関係の中で独自の発展を遂げます。

社会的機能――聖職・官僚・法曹・医師という専門職の養成

三学部は、中世社会の「職能分化」を支えました。神学は聖職者の知的基盤を提供し、説教師・学匠・顧問として教会と宮廷を結びます。法学は、都市・王廷・教会の法廷と行政を担う人材を送り出し、証券・契約・商業裁判の拡大に不可欠でした。医学は、宮廷医・都市医・施療院・薬舗のネットワークを形成し、疫病や戦争の時代に統治の実務と結びつきます。

大学は国際機関でもありました。ラテン語を共通語として、教師と学生は都市を超えて流動し、知識と制度の相互乗り入れを可能にしました。教皇の勅許や学位の互換がこれを支え、大学間の移籍・招聘が頻繁に行われました。三学部の卒業生は、国境を越えて法理と医術、神学の標準解を携え、各地の政治文化の「整合化」を進めます。

排除と限界――ジェンダー、身分、言語の壁

とはいえ、三学部は包摂的ではありませんでした。女性は原則として学位取得から排除され(例外的に医術での参与や修道院学校の高度教育はあったが公的学位は稀)、ユダヤ人・ムスリムは都市や領主の政策次第で制約を受けました。授業はラテン語で行われ、庶民にとっては高い壁でした。学費・寄宿費・書籍代の負担は重く、奨学(ビルスリー、ベカリアなど)の枠が社会的流動性を部分的に支えましたが、身分再生産の場でもありました。

知の変容と近代への継承――ヒューマニズム、印刷、宗教改革

14~16世紀、三学部は大きな変容を経験します。ヒューマニズムは古典文献の原典回帰を促し、法学では注釈から史的批判へ、神学ではスコラから聖書学・教父学の校訂へ、医学では解剖と観察の重視へと揺り戻しが起こりました。印刷術は教科書の標準化と普及を加速し、学説の競争は激化します。宗教改革は、神学と大学の関係を再編し、プロテスタント諸大学のカリキュラムは聖書語学(ギリシア語・ヘブライ語)を強化しました。

国家の近代化も三学部の職能に影響しました。王権は中央集権行政を整え、法学者を官僚に組み入れ、医師を公衆衛生政策の担い手にし、国教会は神学者の配置で統治の一体化を図ります。学位は国家資格と接続し、近世の「学位=職業免許」という構図が成立しました。こうして、中世の三学部は、近代の学部・専門職大学院の祖型として生き続けます。

よくある誤解の整理――「三学部」と「七自由学芸」の混同など

しばしば「三学部」と「七自由学芸」が混同されますが、前者は上位の専門学部(神学・法学・医学)、後者は主に芸術学部で学ぶ基礎教養(トリウィウム+クアドリウィウム)です。また、「三学部=三つしか学べなかった」という意味でもありません。実際には芸術学部に自然哲学・数学・天文学があり、法学も民法・教会法に分かれ、神学は聖書学・道徳神学・説教学、医学は理論・臨床・薬物学と細分化していました。三学部は「大枠の専門領域」を指す便宜的名称だと理解すると混乱が減ります。

学びの現場の細部――時間割、教材、評価、生活

日々の時間割は、早朝のミサから始まり、午前にレクチオ、午後にクエスティオや演習、夕刻の祈りと自習が続きます。冬季と夏季で時刻が変わり、祝祭日には特別講話や公開討論が催されました。教材は貸本屋や書写生によって供給され、印刷の普及前はペン書きのノートが資産でした。評価は口頭試問・公開討論・卒業論題の防衛が中心で、三学部では実務演習(模擬裁判、診断・薬方、説教草稿)も重視されました。

生活面では、カレッジの規則(就寝・食事・沈黙時間、着衣、外出)に従い、寄宿生は共同体として礼拝と労作を分担しました。都市の酒場・書店・学者の自宅サロンが非公式の学びの場となり、都市と大学の相互依存(宿屋・商人・写字生・装丁師の経済)が形成されました。寄進者の奨学基金は、学費減免や食卓の提供(べッカ)という形で学徒を支えました。

総括――中世大学の「三学部」が残したもの

三学部(神学・法学・医学)は、芸術学部で鍛えた論証力・言語力の上に、中世社会の要請に応じた専門職の知を築きました。スコラ学の方法は、テキスト権威への依存という限界を抱えつつも、反証と討論の訓練によって制度運営と知識生産の合理化を進めました。大学という国際的共同体は、都市・教会・王権の間を橋渡しし、ヨーロッパに共通の職能文化を作り上げました。印刷・宗教改革・国家形成の波を経ても、三学部の枠組みは学位・資格・専門職という近代の骨格へと形を変えて生き続けます。中世大学を見つめることは、今日の「学部」「大学院」「専門職大学院」の起源と意味を問い直すことに直結します。すなわち、基礎教養と専門の接続、討論と証拠に基づく判断、国際移動と資格の互換、公共性と自治――これらの課題は、中世の三学部から今日まで連続しているのです。