「山岳派(ジャコバン派)」は、フランス革命のなかでも1792~94年に国民公会で主導権を握った急進派の政治グループを指します。議場の高い席に陣取ったので「山岳(モンターニュ)」、主な活動拠点がジャコバン・クラブだったので「ジャコバン派」と呼ばれます。彼らは王政廃止と共和国の徹底、対仏同盟との総力戦、物価統制や徴兵、反革命への断固たる対応を掲げ、国家を非常時体制に切り替えました。ロベスピエール、ダントン、マラー、サン=ジュストらが代表的な顔ぶれです。短く言えば、山岳派は「平等と国民主権」の理想を掲げつつ、「国家総動員と弾圧」という手段で危機を乗り切ろうとした勢力でした。その統治は「恐怖政治」と呼ばれ、1794年に失脚しますが、普通選挙の理念、社会政策の萌芽、中央集権行政の原型など、19世紀以降の政治に長い影を投げました。以下では、成り立ち、勢力基盤とライバル、権力掌握と政策、内部分裂と崩壊、評価と遺産を分かりやすく解説します。
成り立ちと名前の由来――高い席から見下ろす「山」
「山岳派」の名は、国民公会(1792年9月~1795年10月)の議場で一番高い席に座ったことに由来します。彼らはパリのジャコバン・クラブやコルドリエ・クラブで鍛えられた弁論家・弁護士・医師・ジャーナリストが中心で、都市の職人・小商人・賃労働者=サンキュロットから強い支持を受けました。宗教的には反聖職者的な傾向が強いものの、無神論の徹底には慎重で、ロベスピエールは「最高存在の祭典」を構想して徳と市民道徳を国民統合の軸にしようとしました。
クラブ政治は山岳派の心臓部でした。パリと各地のクラブは、討論・決議・請願・デモの拠点であり、新聞とビラで世論を刺激しました。地方のネットワークが中央へ膨大な嘆願書を送り、議員に圧力をかける仕組みもできあがります。こうして議会内の少数派でも、街頭と新聞を背に「声の大きさ」で優位を作る戦術が可能になりました。
勢力基盤とライバル――ジロンド派との対立、サンキュロットとの同盟
山岳派の最大のライバルは「ジロンド派」でした。ジロンド派は連邦分権的で、地方の自立と市場の自由を重んじ、対外戦争の推進で先行したグループです。これに対し山岳派は、パリの政治的主導と中央集権、価格統制や徴発など「平時でない国家運営」を強調しました。両者の対立は、国王ルイ16世の処遇、内戦(ヴァンデ地方の反乱)と対外戦争への対応、パンの価格と供給など、具体的な政策課題に直結しました。
都市の下層民・サンキュロットは、パンの高騰と失業に苦しみ、直接行動(街頭デモ、議会包囲、役所への押しかけ)で要求を通そうとしました。山岳派は彼らの圧力を議会内の梃子に変え、1793年5~6月の蜂起でジロンド派を追放(いわゆる「ジロンド派一掃」)して主導権を握ります。以後、山岳派はサンキュロットの要求を政策化し、最高価格令(メクサンマム)や配給制度を導入しましたが、のちに治安優先へ舵を切ると緊張が生じ、急進派(エベール派)との対立へ発展します。
権力掌握と非常時体制――公安委員会・総動員・恐怖政治
1793年夏、フランスは四面楚歌でした。国外では第1次対仏大同盟、国内では王党派の反乱や連邦主義蜂起、ヴァンデ戦争が続き、通貨は下落、食料は不足します。山岳派は「祖国は危機にあり」を宣し、国家を非常時体制へ切り替えました。中心装置は二つ、公安委員会(政治・軍事の司令塔)と保安委員会(治安・監視)です。公安委員会の顔はロベスピエール、サン=ジュスト、クートンらで、彼らは地方代表の派遣(出動委員)、徴兵制(国民皆兵の理念を先取りした「総動員令」1793年8月)、軍需の統制、価格規制、人心掌握を一気に進めました。
同年6月には、成年男子の普通選挙を掲げる1793年憲法(ジャコバン憲法)が制定されます。平時なら画期的な民主憲法でしたが、非常時を理由に施行は凍結され、実際の政治は革命委員会・革命裁判所・監視委員会といった臨時機構が担いました。ここで導入された容疑者法(反革命の「嫌疑」だけで逮捕可能)や裁判手続の簡略化は、「恐怖政治」と総称される厳罰の法的基盤となります。
1793年秋から94年にかけて、革命裁判所の処刑は増え、パリと各地で数千人がギロチンや銃殺で命を落としました。標的は王党派だけでなく、急進派(エベール派)や寛容派(ダントン派)にも及び、山岳派は内部のライバルを「革命の名で」排除していきます。これは道徳的に重大な問題であると同時に、軍事・経済の立て直しと連動した現実的判断でもありました。事実、1793年末から94年にはフランス軍の戦況は好転し、ヴァンデ内戦も次第に鎮圧されます。
政策の中身――パンと価格、宗教と道徳、民族と国家
経済政策では、穀物の最高価格令(一般メクサンマム)と賃金規制、買い占め・投機の取り締まり、必需品の配給が柱でした。これは都市の飢餓を和らげ兵站を安定させる効果があった一方、農村の供出意欲をそいで物流停滞を招く副作用も生みました。物価統制は常に監督・輸送・在庫の統合管理を要し、地方次第で運用の成否が分かれました。
宗教政策では、教会財産の国有化や聖職者への宣誓要求を引き継ぎつつ、1793年末には一部で「脱キリスト教化運動」が過激化し、聖像破壊や理性崇拝祭が行われます。しかしロベスピエールは無神論の暴走を嫌い、1794年には「最高存在の祭典」を主宰して、徳と道徳を共和国の精神的接着剤に据えました。これは宗教廃絶ではなく、宗派を超えた公民宗教の創出を狙うもので、国家と宗教の関係をめぐる実験でした。
国家統合の面では、徴兵と軍隊の昇進の平等化、標準フランス語の普及、度量衡のメートル法導入、教育と福祉の企図(孤児・貧困者救済、就労支援)など、近代国家の骨格に関わる改革が進みました。ナショナリズムの覚醒、国民歌「ラ・マルセイエーズ」の普及、国旗・革命暦の導入など、象徴政策も山岳派期に加速します。
内部分裂と崩壊――エベール派・ダントン派の粛清からテルミドールへ
山岳派の支配は長く続きませんでした。1794年春、左からはエベール派が「パンと恐怖をもっと!」と急進化を迫り、右からはダントン派が戦時非常体制の緩和と恩赦を訴えます。公安委員会多数派は両派を相次いで処刑し、敵を一掃したかに見えましたが、これが逆に恐怖の無限増殖を印象づけ、議員たちの不安を増幅させました。
決定打は1794年7月27日(革命暦II年テルミドール9日)です。議会はロベスピエール派を逮捕・処刑し、非常時体制は急速に解体へ向かいます(テルミドールの反動)。革命裁判所は弱体化し、ジャコバン・クラブは閉鎖、価格統制は緩和され、サンキュロットは武装解除されました。これにより山岳派の政治は終焉し、総裁政府(ディレクトワール)期の保守化と軍人の台頭へと舞台が移ります。
主要人物――ロベスピエール、ダントン、マラー、サン=ジュスト
ロベスピエールは、清廉な私生活と弁論で「不可腐の人」と呼ばれ、徳と法を強調する理念型の政治家でした。彼の強みは、恐怖を恣意に流さない法形式(裁判)への固執と、戦時の一貫性でしたが、疑心の連鎖を止められず孤立しました。
ダントンは、初期革命の英雄的扇動者で、現実感覚に富む交渉人でした。寛容派として和平と緩和を唱え、最期は堂々と死に臨んで人気を保ちます。マラーは『人民の友』の筆鋭で、腐敗と反革命を激しく告発し、浴室での暗殺(1793年)で殉教者となりました。サン=ジュストは若き理論家・実務家として公安委員会の片腕を担い、厳格な平等と徳治の理想を厳命の文体で語りました。
評価と遺産――民主主義の理念と国家動員の影
山岳派の評価は二面性を帯びます。一方では、王政廃止、普通選挙の理念、奴隷制廃止(1794年の対外植民地での法的廃止)、度量衡の標準化、国民皆兵の発想、教育と福祉への関心など、近代的価値の先駆を作りました。他方で、容疑者法と革命裁判所の濫用、言論の抑圧、内戦での苛烈な鎮圧(ヴァンデ虐殺をめぐる議論)など、自由を守るために自由を削る逆説を深めました。
19世紀以降、山岳派はさまざまに再解釈されます。社会主義者・共和派は彼らを民主の先駆として称賛し、保守派は無政府と暴力の象徴として警戒しました。第三共和政の学校史では「国民の子」を育てた革命の遺産が強調され、20世紀には全体主義との比較の文脈で再評価・批判が繰り返されます。今日では、山岳派を英雄化も悪魔化もせず、戦時非常体制の下で国家と市民がどこまで自由と安全のバランスを取れるか、という普遍的課題の歴史的事例として読むのが主流です。
また、政治文化の面での遺産も重要です。クラブと新聞、請願とデモ、議会と街頭の相互作用、象徴と儀礼(祭典・歌・旗)、監視と粛清のメカニズム――これらは近代政治の作法と危険の両方を先取りしました。山岳派を学ぶことは、民主主義が危機に陥ったときに何が起きるのか、どんな装置が作動するのかを具体的に理解することに直結します。
まとめ――理想と非常の交差点としての山岳派
山岳派(ジャコバン派)は、革命を守るために国家を「非常時の機械」に変えた政治勢力でした。彼らは国民主権と平等の理想を掲げ、同時に総動員と統制で戦争と内乱を乗り切ろうとしました。短命に終わったその統治は、恐怖政治という負の記憶と、普通選挙や行政・度量衡・教育など正の遺産を同時に残しました。高席=「山」から議場を見渡した彼らの視線は、いまも私たちに問いかけます。危機のとき、自由と安全、平等と市場、道徳と権力――どこで線を引くのか、と。歴史は答えを決めてはくれませんが、山岳派の経験は、その線引きがいかに難しく、そして避けて通れないかを、克明に教えてくれるのです。

