三角貿易(大西洋) – 世界史用語集

「大西洋の三角貿易」とは、近世の大西洋世界で展開した、ヨーロッパ—アフリカ—アメリカ(西インド諸島・本土植民地)を結ぶ多方向の交易と人の移動の総体を指す用語です。一般に「欧→ア:工業製品、ア→米:奴隷、米→欧:砂糖・コーヒー・綿花・タバコ」という三辺の循環として説明されますが、実態はもっと複雑で、多数の港と商品が重なり合う網の目のネットワークでした。中核にあったのは、アフリカからアメリカへの強制移送(いわゆる「中間航路」)で、何百万人ものアフリカ人が奴隷化され、プランテーションで酷使されました。砂糖やラム、綿製品、鉄器、火器、布、ビーズ、銅、酒、塩蔵食品、木材、皮革などが循環し、保険・融資・船舶建造・海運・関税が利益を増幅しました。三角貿易は、ヨーロッパの商業・金融・工業の伸長、アメリカのプランテーション経済、アフリカの政治・社会の変容を同時に生み出した、暴力と利益のシステムでした。以下では、仕組みと商品、各地域の構造と影響、抵抗と廃止、研究上の論点、今日的な意味を、できるだけ分かりやすく解説します。

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仕組みの基礎――「三角」の図とネットワークの実像

教科書的には、(1)ヨーロッパの港(リヴァプール、ブリストル、ナント、ボルドー、リスボン、アムステルダムなど)から船が出て、布・鉄器・銃器・火薬・酒類・ガラス玉などを船積みしアフリカ西岸へ向かう、(2)西アフリカの港湾・河口(セネガンビア、ゴールド・コースト、ベニン湾、アンゴラなど)で商品を奴隷と交換する、(3)アメリカへ渡って砂糖・モラセス(糖蜜)・ラム酒・コーヒー・ココア・綿花・タバコ・染料木などを満載してヨーロッパへ戻る――という三辺構造で説明されます。これは大枠として有効ですが、実際には、(a)北米ニューイングランドの木材・塩魚・穀物がカリブのプランテーションを支える「第四の辺」、(b)アフリカ沿岸を南北に巡って複数の集積地を回る「沿岸回航」、(c)ヨーロッパ内での再輸出・再加工、(d)奴隷をアメリカ大陸内部へ再移送する内陸流通、などが加わり、多層的な網が形成されました。

また、すべての船が厳密な三角を完走したわけではありません。片辺のみを往復する船、保険や為替の事情で別港に帰投する船、戦時に拿捕・護送される船など、航路は柔軟でした。重要なのは、「アフリカ人の強制移送」が全体の利益構造のカナメであり、砂糖・コーヒー・綿花などの消費財と、欧州の金融・保険・造船・軍需がそこに連結していたことです。

主要商品・利益の仕組み――砂糖と綿、ラムと鉄器、保険と信用

アメリカ→ヨーロッパの最重要商品は砂糖でした。砂糖は18世紀のヨーロッパで爆発的に消費が伸び、茶・コーヒー・チョコレートと結びついて「甘い嗜好革命」を生みました。砂糖精製は都市の雇用を生み、糖蜜(モラセス)はラム酒へ加工され、ラムは再びアフリカ交易に投入されました。19世紀に入ると、綿花の比重が増し、紡績工業(マンチェスターなど)と密接に結びつきます。英仏蘭の織物・金属製品・火器は、アフリカ沿岸の取引で高く評価され、とくに銃器は内陸政治の軍事化に影響しました。

船主は、航海ごとに投資家から出資を募り、貨物と船体に保険をかけ、為替手形で遠隔決済を行いました。ロイズの保険市場、都市の商人銀行、港湾の倉庫業・仲介業が、利益を分割して吸い上げました。国家は関税・独占特許・会社章典(英の王立アフリカ会社、蘭の西インド会社、仏の諸特許会社など)で市場をコントロールし、戦時には海軍が護送・封鎖を行い、拿捕品の裁判(賞金法)が海上戦争と商業を接続しました。

アフリカ側の構造――供給の仕組みと社会への衝撃

アフリカ大陸では、沿岸の交易拠点(砦・商館・港)と内陸の権力(王国・首長制)が複雑に連携・競合していました。ヨーロッパ人は内陸の長距離交易に深く入り込むことが難しく、多くの場合、沿岸で現地の仲介者と交渉しました。奴隷は戦争捕虜、債務奴隷、刑罰、誘拐など、さまざまな経路で供給され、内陸の支配者は銃器・布・酒・金属製品を求めて人を売るという歪んだ交換に巻き込まれました。沿岸の城塞(エルミナ城など)は倉庫・牢・商館・要塞として機能し、ヨーロッパ勢力が互いに競争しつつ足場を築きました。

社会的影響は甚大でした。人口の流出は男女年齢に偏り(壮年男性の流出が顕著)、農牧・手工業の労働力不足を招きました。銃器の流入は戦争の規模と殺傷力を拡大し、周辺部の共同体は略奪と防衛の循環に巻き込まれました。他方で、すべての地域が一様に荒廃したわけではありません。交易利益で王権を強化した政体もあり、イスラム圏やサハラ越え交易との接続、インド洋ネットワークとの相互作用など、地域差が大きいことも押さえる必要があります。

中間航路(ミドル・パッセージ)――船上の現実

アフリカからアメリカへの航海は数週間から数か月に及び、船倉に押し込められた人々は鎖で繋がれ、狭い空間で病気・脱水・栄養失調・暴力に晒されました。死亡率は時期・航路・船の管理によって差がありますが、重大な犠牲を伴いました。女性や子どもは性暴力・虐待の危険が高く、反乱の試みや自殺・投身も記録されています。船主は死亡率を下げるほど利益が増える計算でしたが、過積載や粗悪な管理は常習的に起こりました。船上の抵抗(鎖を破って蜂起、火を放つ、操舵の奪取)や、入港後の逃亡・マルーン(逃亡奴隷共同体)への参加は、抑圧の中での能動的行為でした。

アメリカ側の構造――プランテーションと法、文化の形成

カリブ海やブラジル北東部では砂糖プランテーションが、北米南部ではタバコ・のちに綿花が主力となり、広大な耕地と季節労働のリズム、監督(オーバーシアー)と暴力、奴隷法典(ブラック・コード)によって労働が統制されました。プランテーションは農業だけでなく、製糖・製粉・ラム蒸留などの加工工場を併設し、孤立した「生産の島」として機能しました。奴隷制は血統主義(母が奴隷なら子も奴隷)で再生産され、鞭・枷・身体刑・売買による家族分断が日常化しました。

しかし、被支配者は文化と共同体を創り出しました。音楽(コール&レスポンス、リズム、後のブルースやジャズにつながる要素)、宗教(ヴードゥー、カンドンブレ、サンテリア、福音派の讃美歌)、言語(クレオール言語)、料理、民話など、アフリカ系ディアスポラの文化は、抑圧のもとでの創造の証です。反乱(1760年代のタッキーズ・リベリオン、1791年のサン=ドマング蜂起=ハイチ革命など)や日常抵抗(怠業・破壊・逃亡・医療知識の隠し持ち)も各地で繰り返されました。

ヨーロッパの国家と都市――帝国・会社・金融の装置

英仏蘭葡西の海洋帝国は、重商主義政策(航海法、独占会社、関税・補助金)で大西洋商業を保護・管理しました。ロンドン、リヴァプール、ブリストル、ナント、ボルドー、アムステルダム、アン特ワープ、リスボン、カディスなどの港湾都市は、造船・帆布・ロープ・樽・鉄工・砂糖精製・綿紡績の産業集積を生み、保険・貿易金融・海運ブローカーが集中しました。富は都市の公共建築・慈善事業・大学・銀行の設立に投じられる一方、所得の格差と都市下層の劣悪な労働環境も拡大しました。

国家は軍事力で植民地を奪い合い、七年戦争・ナポレオン戦争などの大規模戦争が市場支配の帰趨を左右しました。条約(ユトレヒト条約のアシエント=スペイン領へのアフリカ人供給権など)は、奴隷貿易の利権を「国家間の取引対象」にしました。植民地議会・商人ロビー・メトロポリスの官僚が絡む複雑な意思決定のなかで、三角貿易は「国家—市場—戦争」を結ぶ回路として機能しました。

抵抗と廃止――運動、法、経済の変化

18世紀後半、啓蒙思想・宗教的良心(クエーカー教徒など)・奴隷の自助運動・印刷メディアが結びつき、廃止運動が拡大しました。消費者ボイコット(砂糖不買)、議会請願、印刷された船倉の見取り図(人の「積み方」を可視化)、黒人・混血知識人の証言や自叙伝が世論を動かしました。英ではまず1807年に奴隷貿易が違法化され、海軍が取り締まりに動きます。奴隷制そのものの廃止は地域差があり、英領で1833年、仏領で1848年、米国では州ごとの差を経て1865年(連邦レベル)、ブラジルでは1888年に至ります。サン=ドマングの奴隷蜂起が独立国家ハイチ(1804年)を生み、以後の運動に巨大な影響を与えました。

経済面では、砂糖の甜菜化・技術革新、労働力の賃労働化・移民労働(インド・中国からの契約移民)の導入、産業革命の進展が、奴隷制に依存しない収益モデルを広げました。ただし、廃止は直線的ではなく、補償金の支払い(奴隷所有者への補償)、移民労働の搾取、法の抜け穴(「徒弟制」名目)など、過渡期の矛盾が伴いました。

誤解と論点――「三角」の図式化、数の問題、アフリカ側の主体

第一に、三角貿易を単純な三辺の循環として固定化する誤解があります。実際は多角的で、北米・カリブ・ラプラタ・ブラジル・ヨーロッパの数十港が結節し、アフリカ側でも多くの寄港地と内陸経路が関わりました。第二に、連行された人数・死亡率・地域別内訳の数値は、史料の制約と推計方法により幅があります。近年は船舶記録や保険台帳のデータベース化で推定精度が上がりましたが、数字は常に範囲として扱うのが妥当です。第三に、アフリカ側を受動的被害者としてのみ描くことへの反省があります。多くの共同体が被害者でしたが、同時に沿岸・内陸の支配者や商人が主体的に関与し、武力・交易・同盟でヨーロッパ勢力と渡り合った事実も、構造理解に不可欠です。

今日的な意味――不平等の歴史、記憶と和解

三角貿易は、植民地主義・人種主義・資本主義の歴史と深く絡み、今日の社会的不平等の遠因となりました。港湾都市の富と周辺地域の貧困、黒人差別の制度化、文化的ステレオタイプの形成は、歴史の残響です。各地で記念館・追悼碑・教育プログラムが進み、歴史的謝罪や補償、記憶の継承が議論されています。同時に、強制労働・人身取引の現代的形態に対して、歴史の知識を活かした監視と対抗が求められます。

三角貿易を学ぶことは、単なる「昔の悪事」を糾弾するだけではありません。世界をつなぐ物流・金融・法制度が、どのように人権を侵害しうるのか、また市民運動・報道・消費者行動・法の整備が、どのように制度を変えうるのかを具体的に理解することです。私たちが享受する砂糖やコーヒー、繊維、輸送、保険といった日常の背後に、どのような関係の網が潜みうるのか――三角貿易は、その想像力を鍛える鏡でもあります。