『古今図書集成』 – 世界史用語集

『古今図書集成(ここんとしょしゅうせい)』は、清代の康熙・雍正期に編纂され、1725年に成り、1726年に銅活字で刊行された巨大な類書(百科事典)です。主編者は陳夢雷(ちん・むらい/陳夢雷)で、のちに蔣廷錫(しょう・ていせき/蔣廷錫)らが増訂・校勘を担いました。総巻数は一万巻(別に目録四十巻)に及び、内容は「暦象・方輿・明倫・博物・理学・経済」の六つの〈彙編〉、さらに三十二〈典〉・六千百十七〈部〉へと綿密に階層化されます。古典・正史・子部・叢書など数千種からの摘記を体系化し、図版・表・列伝・芸文・選句・紀事などを整序した本書は、前代の『永楽大典』(写本で頒行されず)と後代の『四庫全書』(官用叢書)をつなぐ、印刷頒布された最大規模の類書として知られます。知識の宇宙を「天・地・人・学・文・政」に相当する六大区分に編み直し、帝国の学知を可視化した装置だったと理解できます。

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成立の背景と編纂体制:康熙の学芸政策から雍正の刊行へ

17世紀末から18世紀初頭の清朝は、康熙帝の長期安定のもとで学芸振興が進み、暦算・地理・経史の再整備が国家事業として推進されました。編纂の企図は、膨大な典籍から信頼できる叙述を抜き出して体系的に配列し、学術・行政・教育に資する「参照台帳」を作ることにありました。主編者の陳夢雷は博覧強記の文人官僚で、康熙朝の学術プロジェクトで頭角を現します。1700年前後、彼は宮廷の支援を得て〈彙編〉草案を起こし、各分野の典籍・図譜・表冊を縦覧しながら、条目の抽出・配列・校合を進めました。条文は「匯考(年代順の史実記述)」「総論(総合的・原理的記述)」「図・表」「列伝」「芸文(詩文)」「選句」「紀事」「雑録」「外編」などの項目に分かれ、研究・教育・政策参照の利便を意識した設計です。

康熙末から雍正初にかけて、政治状況の変化により編纂陣は交替し、蔣廷錫らが審定・増補を担いました。雍正帝は先帝の稽古好学の遺志を継ぐかたちで事業を督励し、内容の増訂・誤脱の校勘・配列の整序を命じます。1725年、最終稿が成り、宮中・学府用の正本として上進、翌1726年には武英殿で銅活字による大部の刷立てが始まりました。初刷はごく少部数(数十部規模)に限られ、蔵書は皇室・内廷・要地の官署・学府に配当されました。写本ではなく印刷頒行されたことは、類書史上の大きな画期であり、参照の可用性と標準化をもたらします。

編纂の思想的背景には、学術の「大成」を権威ある標準形に固定し、それを国家運営・教育・地方行政の現場へと浸透させるという、清朝の学知統治の理想が読み取れます。同時に、欧州宣教師の科学書や地理知識が宮廷に流入していた時期でもあり、暦算・天文・測地・地図の条目には新旧の知が併存します。『古今図書集成』は、伝統知の総合であると同時に、外来知を受け止める器でもありました。

構成と内容:六彙編・三十二典・六千余部の知識アトラス

本書の特徴は、知の大地図を階層的に設計した点にあります。最上位の六〈彙編〉は次のとおりです。第一に「暦象彙編」—天文・暦法・気象・陰陽五行など自然界の秩序を扱います。第二に「方輿彙編」—「方」は地域、「輿」は地図の意で、地理・疆域・山川・道里・州県沿革・風俗物産を網羅します。第三に「明倫彙編」—人倫・礼制・教育・官常・刑政・家礼など、社会秩序と規範の総集です。第四に「博物彙編」—動植物・鉱物・農工技術・医薬・器用・度量衡・匠作など、事物の総覧。第五に「理学彙編」—経学・史学・子学・諸子百家や学派の理論・注釈の統合。第六に「経済彙編」—財政・賦役・田制・倉儲・盐鉄・漕運・兵制など国家運営の実務を扱います。

各彙編はさらに三十二〈典〉へ分かれ、それぞれが専門領域の「コア」をなす体系です。各典の下に六千百十七〈部〉が置かれ、条目は「匯考」(年代順の叙述で制度や事件の変遷を追う)と「総論」(通史・通義的整理)を軸に、関連図版・表・列伝・芸文・選句・紀事・雑録・外編を付して〈重層的参照〉を可能にします。例えば「職官典」では、官名の沿革・任務・班次・考課・服制を歴史的に配列し、法令文や注疏を併載して、研究者・実務官双方が参照できるようになっています。「方輿典」では、山川・城鎮・関隘の図と地里表が並び、軍政・漕運の計画に資する実用性を備えます。

出典は、十三経・二十一史にとどまらず、地志・会要・政書・器物図譜・技術書・医薬本草・仏典・道蔵・筆記・叢談に及びます。原則として原文をほぼそのまま引く〈摘記〉方式で、異本がある場合は校合し、必要に応じて短い按語を添えます。独創的な理論を展開するのではなく、既存知の信頼できる抜粋・配列・対照を提供するという姿勢が徹底しており、〈研究に入るための入口〉と〈行政判断の根拠台帳〉を兼ねる、類書特有の設計思想が貫かれています。

物理的にも壮大です。大冊五千二十冊(目録二十冊を含む)に装幀され、分装は五百七十六函、図版は一万点超、総字数は一億七千万字規模とされます。印刷は武英殿の銅活字で行われ、版面は端正、図版は宮廷画院の描写に依るものが多く、読みやすさと美観の両立が図られました。初印の部数は極めて限られ、皇朝の〈標準参照〉としての性格が濃い頒布形態でした。

刊行・伝播と受容:武英殿版から近代影印、そして域外へ

雍正三年に成り翌年に刊行された武英殿版は、皇室・内廷・要地の学府・官署に配られ、実務・教育・学術の〈共通言語〉として機能しました。やがて清末になると、原刻本の稀少さと誤脱を埋める必要から、上海同文書局などが影印・校勘版(光緒年間)を刊行し、近代的な印刷・流通が始まります。これにより、研究者や地方の学校でも利用できる環境が整い、類書の〈閲覧可能性〉が大きく改善しました。とはいえ、影印流布本には誤植・編次の錯綜も残り、目録・考証を付して補う作業が併走します。

域外への伝播では、日本への受容が広く知られます。江戸中期、徳川吉宗は中国知識の体系的受容を図り、『古今図書集成』の大部を取り寄せて紅葉山文庫に収めました。のちに東京大学など学術機関の所蔵となり、和漢の学者が地理・制度・医薬・農政・度量衡などの知識を参照する基盤となります。日本の本草・地誌・経世書の著述にも、『集成』からの引証が多数確認されます。欧米では、19世紀に入ってカタログや一部翻刻を通じて存在が知られ、東アジア知識体系の規模を示す指標として注目されました。

また、図像資料の価値も見逃せません。動植物・器物・建築・服制・軍器の図版は、他の図譜や博物学書と照合可能な精度を持ち、文化史・技術史の復元に資します。特に「博物彙編」の図と解説は、江南の手工業技術や農器具、加工法の基礎をたどる際に有用で、近世東アジアの〈技術知の可視化〉として評価されています。

歴史的意義:国家知の「標準化」と知識の可搬性

『古今図書集成』の意義は、第一に知識の標準化にあります。信頼できる抜粋を定形に配列し、索引・目録を備えたことで、研究者・役人・教師が同一の典拠を共有しやすくなりました。官学の試験や政策立案において、参照と議論の共通土台が確保されたことは、帝国運営の効率を高めました。第二に知識の可搬性です。巨大とはいえ印刷されたセットは、宮廷から地方、さらには域外へと移動し、地域や時代をまたいで〈同一の知〉にアクセスできる環境を作りました。これは、写本時代の『永楽大典』にはなかった、情報の流通様式の変化です。

第三に、知識の地図化という観点が重要です。六彙編の設計は、「天(暦象)」「地(方輿)」「人倫(明倫)」「物(博物)」「学(理学)」「政(経済)」という、宇宙—社会—国家の全体像を秩序だった図式に落とし込むもので、図表・年表・列伝を横断して読み解ける構造になっています。これは、単に古典を集めた叢書ではなく、〈レファレンスとしての読み方〉を制度化した点に独自性があります。第四に、近代との接点です。清末から民国にかけての学術・行政改革では、統計・地図・制度史の再構築が急務となりましたが、『集成』の項目と配列は、過去の制度と地理情報を手早く確認する枠組みとして機能しました。

もちろん、限界もあります。編者の按語は少なく、批判的編集や史料の真偽判定は後世の考証学ほど徹底していません。異説の併記や最新知見の反映は限定的で、項目も伝統的な価値付け(礼教や官制重視)に傾きがちです。また、欧州科学の受容は部分的で、体系としての統合には至りませんでした。それでも、本書が提供した〈整った参照枠〉は、古典の海に分散していた知を「取り出し可能」にし、国際的にも比較可能な知識体系の一形態を実現しました。

総じて『古今図書集成』は、帝国の学知を編み直した、清朝の「知の建築」です。古典を尊重しつつ、図と表で把握できる近世的なレファレンス感覚を備え、印刷技術とともに広がった標準参照の文化は、その後の東アジアの学術社会を長く支えました。中国知識の巨大なアーカイブにして、秩序立てられた閲覧装置—それが『古今図書集成』の本質だといえるでしょう。