コサック – 世界史用語集

コサックとは、ユーラシアの草原地帯で生まれた武装共同体とその文化を指す言葉で、16〜19世紀を中心にポーランド=リトアニア連合、ロシア帝国、クリミア・ハン国やオスマン帝国との狭間で独自の自治と軍事力を発達させた人びとです。語源はテュルク語の「自由な人」「放浪者」を意味する語に由来し、国家や領主の支配から相対的に離れ、自衛と生業を兼ねた遊牧的・半農耕的生活を送った集団を総称します。彼らは騎馬戦や舟艇戦に長け、辺境の守備や遠征、交易と狩猟・漁撈、時に略奪や私掠的行動も行いました。ウクライナのザポロージャ・コサック、ロシアのドン、テレク、クバーニ、ウラルなど複数の「コサック軍(ホースチ)」が知られ、内部には民主的合議や選挙による長の選出など独特の政治慣行が育まれました。のちに帝国に組み込まれると、領地と特権を得る代わりに軍役を負う「身分」として制度化され、帝国軍の精鋭騎兵として名を馳せました。20世紀の革命と内戦、ソ連期の抑圧を経て衰退しますが、現在も伝統文化としての復興や地域アイデンティティの象徴として語られ続けています。

本稿では、コサックの起源から制度、地域差と対外関係、近現代の変容までを、難解になりすぎないように整理して説明します。まず歴史的経緯の大枠をつかみ、その上で社会構造や文化的特徴、国家との関わり方を見ていくことで、コサックという多面的な存在像が浮かび上がるはずです。

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起源と展開の大枠

「コサック」という呼称は、14〜15世紀頃から黒海・カスピ海に面した南ロシアやウクライナの草原地帯(ステップ)で使われ始めたとされます。テュルク語のqazaq(カザク)に由来し、「自由な人」あるいは「主から離れた者」の意味合いを持ちます。同語源から派生した民族名「カザフ」との混同に注意が必要ですが、歴史用語の「コサック」は主としてスラヴ系・ルーシ系を中心とする多民族の軍事共同体を指します。彼らは遊牧民、逃散した農民、猟師や漁師、辺境の兵士など多様な出自を持ち、ステップに広がる要塞線や大河に沿って自立的な共同体を形成しました。

16世紀までに、ドン川流域のドン・コサック、ドニエプル下流のザポロージャ・コサック、テレク川やクバーニ川の北コーカサス系コサック、ウラル川(旧ヤイク川)のウラル・コサックなどがまとまりを持つようになります。これらの共同体は、領主や国家から一定の距離を保ちつつ、時に雇われ兵として、時に自発的な遠征隊として活動しました。黒海沿岸やアゾフ海方面への襲撃、オスマン領の港町に対する奇襲、タタール勢力への対抗、さらには東方のシベリア征服に参加した集団もありました。

とくにウクライナ草原のザポロージャ・コサックは、ドニエプル川の急流(ポローハ)の彼方「ザ・ポロージャ(急流の向こう)」に築いたシーチ(要塞式野営地)を基盤として、独特の自治と軍事的規律を整えました。彼らはポーランド=リトアニア連合に対して「登録コサック」として一定の兵数を提供する一方、課税や貴族支配への反発も強く、17世紀半ばのフメリニツキーの蜂起へとつながっていきます。

ロシア側では、ドン・コサックがモスクワ国家と緩やかな関係を結びながらも自立を維持し、やがて帝国の辺境防衛と領土拡張の一翼を担います。イェルマークらによるシベリア方面への征討には、コサックの戦闘技能と機動力が大きく寄与しました。18世紀以降、帝権の強化に伴ってコサックは次第に制度化され、土地と自治の代償として厳格な軍役義務を負う身分へと再編されていきます。

組織・社会・文化の特徴

コサック共同体は、外見上は騎馬部隊としてのイメージが強いですが、実際には河川航行と舟艇戦を得意とし、草原と水系の境界地帯での機動戦を最も得意としました。ザポロージャの「チャイカ」と呼ばれる軽舟は、夜襲や沿岸急襲で威力を発揮し、黒海北岸からオスマンの主要港湾へ素早く打撃を与えることが可能でした。騎兵戦では弓、火縄銃、サーベル、槍など多様な武器を状況に応じて用い、散兵的な機動と一撃離脱の戦法で相手を翻弄しました。

政治組織は一般に合議制と選挙を重んじ、最高指導者にはハトマン(ヘトマン)やアタマンが選ばれました。重要事項はラーダ(評議会)で決定され、軍務や外交、処罰に関する権限が議論を通じて共有されます。ザポロージャ・シーチではクーリン(隊舎・分営)と呼ばれる単位があり、クーリンの代表が集まって共同体全体の方針を決めました。この合議的慣行は、地域や時代により強弱はあるものの、コサックの自治の精神を象徴する制度として広く認められます。

社会構成は単一民族ではなく、ルーシ系(ウクライナ人、ロシア人)を基盤にしながら、タタール系、モルドヴァ系、さらにはポーランド系、リトアニア系など多様な背景をもつ人びとが加わりました。宗教は正教会が中核でしたが、旧儀式派(古儀式派)を受け入れた地域や、近隣遊牧民との境界に位置する共同体では習俗が混交することもありました。婚姻や移動の自由度は時期と地域によって異なり、ザポロージャ・シーチの中心部は長らく独身男性の戦士共同体を理想像としましたが、周辺の村落やスタニツァ(コサック村)では家族と農耕・牧畜が日常生活の基盤でした。

経済面では、農耕・牧畜・狩猟・漁撈・養蜂・交易が組み合わさり、境界地帯らしい多角的な生業が営まれました。冬営地での農事と、春から秋にかけての軍事行動や交易航海が季節サイクルを形づくりました。オスマンやタタール市場との非公式な物品交換や、軍事活動に付随する戦利品・私掠も重要な収入源でしたが、国家権力の強化とともにこうした慣行はしばしば取り締まりの対象となります。

服装や文化的表象もよく知られています。刈上げと前髪を伸ばした「オセレーデツィ」(チューブ=前髪)や華やかな刺繍のシャツ、サーベルとピストルを帯びた装束は、絵画や伝承の中でコサック像を象徴化しました。歌や叙事詩、ダンスは共同体の記憶を担い、勇武と自由を讃える伝統として受け継がれました。

地域差と対外関係

ザポロージャ・コサックは、ポーランド=リトアニア連合(共和国)に対して「登録コサック」として編制され、王権のもとで一定の特権と給与を得る代わりに軍役を提供しました。しかし、登録数は政策的に制限され、多くの非登録コサックや農民は貴族の領主権・教会の圧力、農奴化の進展に不満を募らせます。1648年、ボフダン・フメリニツキーが主導した大蜂起は、コサックの自治拡大と正教徒の権利回復を掲げて共和国に対抗し、やがて「ヘトマン国家(ウクライナ・コサック国家)」の樹立とロシア(モスクワ国家)との保護関係の樹立へと向かいました。1654年のペレヤスラウ会議はその象徴的出来事で、以後ウクライナの運命は共和国とロシアの綱引きの中に置かれます。

ドン・コサックは、ロシア国家と相互に利用し合う関係を築きました。辺境の防衛、遊牧民への監視、南方戦役への動員に応える一方、長らく内部自治を主張し、皇権と緊張関係を持ち続けます。17世紀末にはステンカ・ラージンの乱、18世紀にはプガチョフの乱など、コサックを中心とする大規模反乱が発生し、帝国は辺境統治の難しさを痛感しました。他方でコサックの戦闘能力は重宝され、北方戦争、ナポレオン戦争などで斥候・騎兵として卓越した働きを見せました。

北コーカサスのテレク、クバーニ系コサックは、コーカサス戦争の長期的展開の中で前線の屯田兵として位置づけられました。帝国は彼らに土地を与え、要塞線の維持と山岳民の監視・鎮定を任せました。そこではスタニツァ(軍村)が連なり、軍務・農務・警備が日常的に組み合わさった境界社会が形成されました。文化的にはロシア正教やスラヴ系の要素が強まりつつも、コーカサス固有の風習が交錯する独特の地域文化が育ちました。

ウラル(ヤイク)・コサックは、カスピ海北岸とステップの接点で漁撈と交易に強みを持ち、中央アジア方面への遠征や警備を担いました。彼らもまた帝国の政策変更に敏感で、税制や自治権の侵害に反発して反乱を起こすことがありました。シベリア方面では、オビ川・エニセイ川・レナ川の流域を拠点とするコサック隊が、交易路の確保と砦の建設を進め、先住民との関係調整を含む辺境統治の実務を担いました。

対オスマン・対タタール関係では、黒海沿岸の海上奇襲や国境地帯での衝突が頻発しました。コサックの奇襲はしばしば外交問題化し、共和国やロシアはオスマン帝国から抗議を受けると取り締まりを強めます。しかし、境界社会の自発性と実力は完全には抑えきれず、国家の思惑を超えてコサックの行動が国際関係を動かすこともしばしばでした。17世紀にはコサックの船団が黒海を横断し、シナップやトレビゾンド、さらにはイスタンブル近郊にまで達したと伝えられます。

18〜20世紀:制度化、解体、そして記憶

18世紀後半、帝国的統治の強化はコサックの自治に大きな転換を迫りました。ロシアではエカチェリーナ2世が1775年にザポロージャ・シーチを解体し、多くのコサックを黒海沿岸やクバーニへ再配置しました。以後、コサックは「特権と義務を併せ持つ身分」として法的に規定され、広大なコサック軍管区(ドン軍、クバーニ軍、テレク軍、ウラル軍など)が整備されます。スタニツァごとに土地が割り当てられ、住民は馬匹の保有、武装の維持、定期的な訓練と出動に責任を負いました。見返りに税や地役における優遇が与えられ、帝国の対外戦争では優先的に騎兵・斥候・警備任務へ投入されました。

19世紀を通じて、コサックは帝国軍内で独自の戦術と規律を保持し、国境警備や内部治安の担い手としても重用されました。ナポレオン戦争では長距離の追撃戦で名をあげ、クリミア戦争、コーカサス戦争、中央アジア進出などでも行動しました。同時に、近代国家の形成と常備軍の整備が進むなかで、従来の自治的慣行は次第に軍務・官僚機構へ吸収され、共同体の自立性は縮小していきます。鉄道や近代火器の普及は、騎兵中心の兵科に構造的な制約をもたらし、コサックの軍事的優位は相対化されました。

20世紀初頭、コサックは帝政ロシアの秩序維持にも動員され、1905年革命では都市の騒擾鎮圧に投入されて市民から反感を買う場面もありました。1917年の二月革命・十月革命を経て内戦が始まると、コサック社会はホワイト(反ボリシェヴィキ)とレッド(ボリシェヴィキ支持)の双方に分裂し、ドン・クバーニを中心に激しい戦闘が展開されます。ソヴィエト政権は一時期「脱コサック化」政策をとり、指導層の追放や土地没収、共同体の解体が進められました。飢饉や弾圧は人口と文化基盤に深刻な打撃を与え、伝統的なスタニツァ生活は大きく変質しました。

第二次世界大戦期には、赤軍の一部としてコサック部隊が再編され勇名を馳せると同時に、占領地で枢軸側に協力した集団も存在するなど、複雑な様相を呈しました。戦後はソ連の枠内でコサックの名称や象徴の公的使用が抑制されましたが、文化的記憶としての歌・舞踊・衣装・騎乗術は民俗芸能の形で細く継承されました。ソ連末期からポスト・ソ連期にかけて、各地でコサックの伝統復興運動や地域組織が再興し、儀礼や歴史行事、ボランティア的治安活動、青少年の騎乗教育などに取り組む例が増えました。ただし、これらは歴史上の軍事共同体と同一ではなく、現代社会の法制度と市民生活の枠組みの中で運営される文化団体・準軍事組織・地域コミュニティとして理解するのが適切です。

ウクライナでは、コサックは国民文化と歴史記憶の重要な要素として捉えられてきました。ザポロージャ・コサックの伝統は文学や美術、映画、記念行事の題材となり、独立以後は教育や観光、地域振興の文脈でも積極的に再解釈されています。ロシアでも、ドンやクバーニの地域社会においてコサックの名を冠する団体や儀礼が復活し、記章や軍服を模した式服、騎乗隊のパレードなどが地域アイデンティティを示す象徴として活用されています。こうした「歴史の再演」は、しばしば政治的意味合いを帯びますが、同時に多層的な過去の記憶をめぐる社会的対話の場ともなっています。

総じて、コサックは単一の民族や国家に回収できない、境界と移動を本質とする歴史現象でした。自由と自治への希求、辺境での生活技術、合議と軍事規律の独特な両立は、ヨーロッパ東部からユーラシアの広大な空間に広がる人の流れと国家形成のダイナミズムを映しています。今日の私たちがこの言葉に触れるとき、そこには武勇の伝説だけでなく、境界で生きることの現実と複雑さ、そして多文化的接触の歴史が折り重なっていることを念頭に置く必要があるでしょう。