権利の宣言(Declaration of Rights, 1689)は、名誉革命ののちにイングランド議会がウィリアム(ウィリアム3世)とメアリー(メアリー2世)に提示した文書で、王位受諾の条件として承認されたものです。王権が法律の停止や免除、課税、常備軍の維持、裁判への干渉などを恣意的に行うことを禁じ、議会の招集・選挙の自由、議会内言論の自由、臣民の請願権、過大な保釈金や残虐刑の禁止などを列挙しました。のちに同年12月、議会はこの宣言の内容をほぼ引き継いで成文法化し、これが「権利の章典(Bill of Rights, 1689)」として確定します。すなわち、権利の宣言は、王権の限界と議会優越を定義する〈暫定の基本原則〉を示した原文書であり、英米立憲主義の出発点をかたちづくった規範的宣言でした。以下では、成立背景、文言と主な条項、章典化(成文法化)への過程と運用、影響と限界の順に詳しく説明します。
成立の背景:名誉革命と「条件付き君主」の誕生
17世紀のイングランドでは、王権と議会の軋轢が長く続いていました。チャールズ1世期の専断に対しては1628年の「権利の請願」が出され、清教徒革命と王政廃止を経て王政は復古しましたが、統治の基準は揺れ続けました。1679年には違法拘禁を抑える「人身保護法(Habeas Corpus Act)」が成立したものの、王が議会制定法の執行を停止・免除する権能(停止権・免除権)や、議会を経ない課税、平時の常備軍の維持といった核心問題は解決していませんでした。
転機はジェームズ2世(在位1685–88)です。王は宗教寛容を名目にカトリック登用を進め、議会の同意なしに「恩赦宣言」を発して既存法の効力を事実上停止しようとしました。常備軍の拡大、裁判への介入、地方統治への干渉が不信を招き、プロテスタント諸派や一部貴族・都市エリートの間に反対連合が形成されます。1688年、王に男子継承者が生まれ「カトリック王朝固定化」への危機感が高まると、有力者はオランダ総督ウィレムを招請し、ウィレムは軍を率いて上陸、ジェームズ2世はフランスへ逃亡しました。
このとき、臨時の慣習会議が召集され、やがて「議会」として構成されると、王位を〈空位〉とみなす判断が示されます。議会は、王権の濫用列挙と、自由の再確認をまとめた文書を作成し、ウィリアムとメアリーに王位受諾の条件として提示しました。こうして権利の宣言は、〈王は法に拘束され、議会の枠組みに服する〉という原理を明文化し、〈条件付きの王位〉という新しい統治の形式を成立させる鍵文書になりました。
文言と主要条項:否定のカタログと自由の再確認
権利の宣言は、まずジェームズ2世による〈違法・違憲な行為〉の列挙から始まり、続けてその是正として「してはならないこと」と「守られるべき自由」を掲げる構成です。要点を整理します。
第一に、〈法律の停止権・免除権の否認〉です。国王は議会の同意なくして法律の効力を停止したり、個別の者に適用を免除したりできないと明言しました。これは、制定法の拘束力と議会主権の優越を確定する根本条項です。
第二に、〈議会の同意なき課税の禁止〉です。歳入の賦課・徵収は議会の承認を経るべきで、王が独断で金銭を徴求することは違法であると再確認しました。以後、財政のハンドルは原理的に議会側に置かれます。
第三に、〈常備軍の維持は議会の同意を要する〉と定めました。平時の軍備は年次法などを通じて議会の統制下に置かれ、王権単独では恒常的な軍事力を維持できない仕組みが方向づけられます。
第四に、〈議会の自由〉です。選挙の自由、議会内言論の自由(議会外での訴追からの免責)が掲げられ、立法府の独立と熟議の保障が図られました。これは政府批判と意見表明の文化を支える基盤になります。
第五に、〈臣民の権利〉の確認です。請願権の保障、過大な保釈金・過酷で異常な刑罰の禁止、適正手続と裁判の公正を支える諸規定が示され、コモン・ローの原理が再確認されました。さらに、プロテスタント臣民が法に従い、身分相応に武器を所持する権利も挙げられ、国家暴力独占の抑制に意味を持ちました(ただし宗派限定である点に注意が必要です)。
第六に、〈しばしば議会を開く〉旨の規定が置かれました。これにより、王が長期にわたり議会を停止して統治することを困難にし、歳出の承認・軍の年次合法化・監督機能を通じて政府運営を制度的に拘束する道が拓かれました。
以上の条項は、抽象的な人権の高らかな宣言というより、王権の濫用ポイントを具体的に縛る実務的な設計になっています。その現実性こそが、のちの章典化と運用のしやすさにつながりました。
章典化への過程と運用:宣言から法へ、慣行との重ね合わせ
1689年2月の権利の宣言が王位受諾の「条件」として承認されたのち、同年12月に議会はその内容を成文法として再確認し、「権利の章典(Bill of Rights)」として公布しました。章典は宣言の条文を骨格として保持し、〈宣言→章典〉という二段階を通じて、政治的合意が法形式に固定化されたのです。すなわち、権利の宣言は規範の〈原案〉であり、章典はその〈法典化〉です。
運用面では、章典と並んで「王位継承法(Act of Settlement, 1701)」や「陸軍律(Mutiny Acts)」などが重要な歯車となりました。王位継承法は王位のプロテスタント限定継承を確定し、裁判官の身分保障を強化して司法の独立に寄与します。陸軍律は平時の軍の合法性を年次更新に結び付け、常備軍を議会統制下に置く仕組みを制度化しました。年次予算の承認と合わせ、政府は議会多数派の信任なしに長期の統治を続けにくくなり、18世紀には内閣責任の慣行が形成されます。
議会内言論の自由は、パンフレットや新聞、政治クラブの活発化と相まって公共圏を育てました。他方で、選挙の自由が宣言されても選挙権は狭く、腐敗選挙区・買収の問題は残りました。包括的な選挙制度改革(1832年の第一回選挙法改正以降)までには時間がかかり、宣言の理念を社会の広い層に行き渡らせるには、慣行と立法の長い積み重ねが必要でした。
宗教面でも、1689年の寛容法が非国教徒プロテスタントの礼拝を一部認めたにとどまり、カトリックへの政治的制約はなお残存しました。権利の宣言が掲げた「自由」は、当初は限定的で、のちに段階的に拡張されていきます。したがって、宣言と章典は〈到達点〉というより〈出発点〉だったと理解するのが適切です。
影響と限界:英米立憲主義への橋渡しとその射程
権利の宣言(および章典)が残した最大の遺産は、〈王は法に従う〉という当たり前を統治の中心に据え、議会主権と法の支配の結合を制度として定着させたことです。思想史的には、ロック『統治二論』(1690)と響き合い、〈同意に基づく政府〉〈抵抗権〉〈権力分立〉の議論を現実の制度と接続しました。アメリカ植民地では、課税同意や陪審、公正な裁判、言論の自由といった論点が独立運動の中心的スローガンとなり、合衆国憲法と権利章典(修正1〜10条)に受け継がれます。特に、過大な保釈金や残虐刑の禁止、議会内言論の免責などは明確な系譜をなします。
他方で、宣言の限界も見逃せません。第一に、宗派上の制限が明確に残り、武器保有の権利もプロテスタント臣民に限定されました。第二に、選挙権の拡大や社会的平等は宣言の外部に置かれ、女性や無産層の政治参加は19世紀以降の別個の闘いに委ねられました。第三に、イングランドは成文憲法典を持たないため、〈議会主権〉の原理は、ときに個人の権利保障を政治多数の判断に強く依存させる緊張を孕みます。宣言はその均衡点を指し示したものの、最終解は常に時代ごとの運用に委ねられました。
それでもなお、権利の宣言は、専制の恣意を抑える「否定のカタログ」と、議会・臣民の自由を支える「肯定のカタログ」を組み合わせ、近代的な〈責任ある政府〉の骨格を先取りして示しました。王位受諾の条件という政治的瞬間に、抽象的理念ではなく実務条項を束ねた点が、宣言を強靱な規範にしました。以後の判例・制定法・慣行は、この基盤の上に積み上がり、英米世界の立憲主義はそこから枝分かれしていきます。
まとめると、権利の宣言は1689年の政治危機を収めるための合意文書でありつつ、その場しのぎを超えて近代憲政の標準を提示した原規範でした。権利の章典という法形式に定着し、王権の限界と議会の優越、臣民の基本的自由という三点セットを後世に引き渡したことこそが、その歴史的価値の核心です。今日まで続くイギリス憲政の「漸進と積層」のスタイルは、この宣言の瞬間にすでに胚胎していたのです。

