権利の請願 – 世界史用語集

権利の請願(Petition of Right, 1628)は、イングランドにおいて議会が国王チャールズ1世に提出し、国王が受諾したことで法的効力を持つに至った基本文書です。勝手な課税や恣意的逮捕、軍隊の宿営強制や戒厳の濫用を禁じ、コモン・ローと古来の自由の再確認を通じて「王も法に従う」という原則を強く打ち出しました。のちの権利の章典(1689)やアメリカ合衆国の権利章典にも通じる源流となり、近代立憲主義の節目として位置づけられます。ただし、請願はすべてを新規に創設したわけではなく、既存法の確認と運用の是正を王に求めた点が特徴です。以下では、成立の背景、条項の要点、運用と影響、限界と後続の展開を整理します。

スポンサーリンク

成立の背景:財政・戦争・法の支配をめぐる衝突

17世紀前半のイングランドは、王権と議会の権限をめぐる緊張が慢性化していました。ジェームズ1世から継いだチャールズ1世は、宮廷財政の逼迫と対外戦争(スペイン戦、のちにフランスへの介入)を背景に、議会の同意がないまま歳入をかき集めようとしました。代表例が「強制貸付(Forced Loan)」で、実質的には課税であるにもかかわらず、議会承認を経ずに臣民へ拠出を迫る手法でした。これに異議を唱えた者は投獄され、王側は「王の特権」や枢密院の命令を盾に司法審査を回避しようとしました。

この過程で、著名な「五騎士事件(Five Knights’ Case, 1627)」が起こります。強制貸付を拒んだ紳士たちが拘束され、ハベアス・コーパス(人身保護)請求を行ったところ、政府は拘禁理由を具体的に示さず「公益」等の抽象的理由で収監を正当化しました。判事の多くは王権に配慮する姿勢を見せ、適正手続の原理は大きく揺らぎました。さらに、対外戦争の失敗と財政難は、沿岸地域での「船舶税(Ship Money)」や兵の宿営・補給の押しつけ、戒厳の宣告へと連鎖し、住民の不満は高まります。

議会は、課税同意権と法の支配を守るために、個別案件で王権と争うのではなく、原則を文書化して確定する戦略を取りました。下院で重きをなしたのはサー・エドワード・コーク(元首席判事)を中心とするコモン・ロー擁護派で、マグナ・カルタや先例を根拠に、課税・拘禁・軍隊・戒厳の四本柱で王の越権を明確に否定しようとしました。こうしてまとめられたのが「権利の請願」であり、1628年6月、上院・下院の承認を経て国王の裁可に付されました。

チャールズ1世は当初、請願を単なる「恩恵への謝意表明(Answer)」で骨抜きにしようと試みましたが、議会は法形式での裁可(”Soit droit fait comme est desiré”—請願の通りに法に従ってなされるべし)を迫り、最終的に国王はこれを受諾しました。ここに、王の特権に対して議会が法的歯止めを明文化するという先例が確立します。

条項の要点:課税・拘禁・軍隊宿営・戒厳の四本柱

第一に、〈議会の同意なき課税の禁止〉です。マグナ・カルタや後代の制定法に依拠し、賦課・貸付・課徴金・関税などいかなる名目であれ、議会の承認なく王が臣民から金銭を徴収することは違法であると再確認しました。これは「同意なき課税なし」という近代財政原理の核心で、後の財政統制(歳入・歳出の議会掌握)への踏み台となりました。

第二に、〈適法な理由と手続なき拘禁の禁止〉です。被拘禁者は特定の犯罪容疑や法令に基づく明示の理由がなければ拘束されず、ハベアス・コーパスの請求によって法廷審査を受け得ると確認しました。抽象的な「国王の命令」「公益」では正当化されないと釘を刺し、恣意的逮捕・長期拘禁に歯止めをかけました。

第三に、〈兵の強制宿営・軍費の押し付けの禁止〉です。住民の家屋に兵を宿営させ、食糧や物資を供出させる慣行(兵の宿営—billeting)は、戦費調達の便法として横行していました。請願はこれを違法と断じ、民間の私有財産権と居住の安寧を守る原則を明確にしました。これはのちの「四半期宿営法(Quartering Acts)」をめぐる英米の政治論争とも響き合う論点です。

第四に、〈平時の戒厳の濫用禁止〉です。戒厳令(martial law)は本来、戦地や反乱時の臨時措置に限られるべきところ、チャールズ1世政権は広範に発動して軍律裁判で市民を処断しようとしました。請願は、平時の民事・刑事事件を軍法会議に付すことを否定し、コモン・ロー下の通常裁判所の権限を再確認しました。これにより、軍事権と司法の境界を引き直す効果が生まれます。

これらの柱に付随して、請願は〈緊急や特権の名における法の迂回を認めない〉という包括的メッセージを発しています。すなわち、王権の裁量や必要性がいかに強調されようとも、既存法と臣民の古来の自由は破られないという原理の勝利を宣言したのです。

運用と影響:短期の後退と長期の前進

権利の請願は、直後から順風満帆に運用されたわけではありません。国王は1629年に議会を解散し、およそ11年間の「専制統治(Personal Rule)」に入ります。この間、船舶税の全国課税化など迂回的財源が動員され、請願の趣旨はたびたび踏みにじられました。司法も当初は王権に理解を示す判決が目立ち、コモン・ローの原理は防戦に回ります。

しかし、長期的には請願の理念が勝利します。船舶税をめぐるジョン・ハムデン事件(1637–38)などを経て、王と議会の対立は清教徒革命(ピューリタン革命)へと進み、王権の無制限性は否定されていきました。王政復古(1660)後も、議会の財政統制と法の支配をめぐる駆け引きは続き、ハベアス・コーパス法(1679)の制定と名誉革命(1688–89)を経て確立された「権利の章典(1689)」は、請願が掲げた原則を一層強固に成文化します。

法理の面では、請願は「先例の再確認(declaratory)」という性格を持ちます。まったく新しい自由を発明したのではなく、マグナ・カルタ以来の伝統—適正手続、課税同意、陪審と通常裁判所の優位—を王に思い出させ、従うよう求めたのです。この「確認」という形式は、イングランド憲法文化の特徴であり、革命的断絶ではなく、慣習と制定法の積層によって自由を守るという姿勢を体現しています。

国際的・比較的影響も見逃せません。請願の「同意なき課税なし」「平時の軍事権の制限」は、後にアメリカ植民地でスローガン化し、独立運動の理論的資源となりました。合衆国憲法修正条項には、拘禁の適正手続(第5・14条)、過酷刑の禁止(第8条)、四半期兵の宿営規制(第3条)など、請願や章典の系譜と通じる条文が見られます。イギリス本国でも、請願は財政国家の形成における「議会の財布の紐」を正当化し、内閣責任制へと収斂する長い過程の礎となりました。

学説上、請願は「成文憲法典なき憲法」の中核文書の一つとして扱われ、国王・議会・裁判所の三者関係を調整する基準点を提供しました。議会の「請願」という形式を用いつつ、実質は制定法に近い拘束力を持たせたことも、後続の立憲文書に影響を与えています。

限界と後続の展開:何を変え、何を残したのか

他方で、権利の請願には明確な限界も存在します。第一に、請願は王の裁可を要する形式であり、主権の所在を議会に明確に移したわけではありません。この曖昧さは、その後の専制統治の余地を残し、最終的には内戦を招くほどの政治的不安定性を孕みました。第二に、請願は個々の自由を列挙的に保護する実務文書であって、普遍的権利や民主的主権を高らかに宣言したものではありません。選挙制度の狭さ、宗教上の制約、身分的格差など、多くの領域は旧態のままです。

第三に、軍事と治安の統制はなお不十分でした。平時の戒厳濫用を戒めても、外征や反乱時の非常措置は別途の政治判断に委ねられ、王権・議会・地方の力学によって運用が左右されました。常備軍の年次承認や軍紀立法の近代化は、名誉革命後の「陸軍律(Mutiny Acts)」などを通じて徐々に制度化されることになります。

それでも、請願は二つの点で決定的でした。ひとつは、課税・拘禁・軍の私権侵害という「権力の急所」に直接メスを入れたことです。国家が最も濫用しやすい権能に歯止めをかけたことで、自由の中核が守られました。もうひとつは、議会が王に対して法的形式で要求を突きつけ、承諾を引き出したという政治手続の先例です。これは後世の「議会による政府統制」—予算、監督、弾劾—の正当性を支える象徴的資産となりました。

総じて、権利の請願は、イングランドにおける立憲主義の長い道のりの中間点を示す文書でした。マグナ・カルタに始まる自由の伝統を再確認し、名誉革命・権利の章典へと続く橋を架けたという意味で、歴史の要に立っています。今日の視点から見れば限定的で不完全ですが、〈王もまた法に拘束される〉という常識を政治の現場に押し戻した実務の力こそが、請願の最も重要な遺産と言えるのです。