一般に「カストロ」といえば、キューバ革命の指導者フィデル・カストロ(Fidel Alejandro Castro Ruz, 1926–2016)を指すことが多いです。彼は、1959年にバティスタ独裁政権を倒して政権を握り、社会改革・国有化・一党体制を進めつつ、米ソ冷戦の最前線で合衆国と対立し、ソ連との関係を梃子に国家の生存を図りました。ピッグス湾事件やキューバ危機など世界史級の事件に直接関与したほか、医療・教育の国民的普及、砂糖依存からの脱却を目指す経済実験、国際主義に基づく対外派遣(医療部隊や軍事顧問団)など、賛否が大きく分かれる施策を数多く打ち出しました。長期独裁・言論統制・亡命の増加などの負の側面を抱えつつも、ラテンアメリカの反米・反帝国主義の象徴として記憶され、2016年に没するまで世界政治への影響力を保ち続けました。ここでは、彼の生涯と時代背景、革命の過程、政権の制度と内政・外交、評価と遺産を、できるだけ先入観を避けつつ分かりやすく整理します。
生涯と時代背景:バティスタ体制と冷戦という舞台
フィデル・カストロは、1926年にキューバ東部オリエンテ州の農園主の家に生まれ、ハバナ大学で法律を学びました。学生運動で政治化した彼は、汚職と不正選挙が横行するキューバ政治に幻滅し、とりわけ1952年に軍人フルヘンシオ・バティスタがクーデタで権力を奪い、議会を停止し独裁に移行したことに強く反発しました。当時のキューバは砂糖輸出に極度に依存し、観光と米資本の影響が大きい一方、農村の貧困と都市の不平等が深刻でした。冷戦構造の中で米国はカリブ海の安定を優先し、バティスタ政権を一定程度黙認していました。
1953年7月、カストロは仲間とともにサンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を襲撃しますが失敗し、投獄されました。法廷での演説「歴史は私に無罪を宣告する」は、社会改革を訴える綱領として有名です。恩赦で釈放された彼はメキシコに亡命し、弟ラウル、アルゼンチン出身の医師エルネスト・チェ・ゲバラらとともにゲリラ戦を準備しました。
革命の過程:グランマ号上陸からハバナ入城、体制の転換
1956年12月、カストロらは小型船グランマ号でキューバ東岸に上陸し、シエラ・マエストラ山中でのゲリラ戦を開始しました。初期は苦戦しましたが、農民組織化と都市地下活動の連携、政権側の腐敗・弾圧による離反の広がりを背景に、反政府勢力は勢いを増していきます。ラジオ放送や宣伝戦で「新しいキューバ」のビジョンを広めたこと、徴税や軍紀の確立、識字教育の実施など、ゲリラ統治の実務も重視されました。
1959年1月1日、バティスタが国外逃亡し、反政府軍はハバナへ進撃、カストロは首相に就きます。革命政権は、政治犯釈放、土地改革、外国資本の国有化、教育・医療の無料化拡大などを矢継ぎ早に断行しました。これに対し米国は警戒を強め、砂糖買付停止・経済制裁・国交断絶へ進みます。キューバはソ連と接近し、石油供給と砂糖買付、金融支援を確保する一方、国内体制は社会主義的一党制へと移行していきました。
1961年4月、亡命キューバ人部隊を主力とする米国支援の侵攻(ピッグス湾事件)が発生します。キューバ軍はこれを撃退し、カストロの国内基盤は短期的に強化されましたが、米国との対立は決定的となりました。1962年、ソ連がキューバに核ミサイルを配備し始めたことで米ソがにらみ合う「キューバ危機」が勃発します。最終的にソ連がミサイル撤去を受け入れ、米国はキューバ不侵攻の保証とトルコの米ミサイル撤去に応じ、核戦争寸前の危機は回避されました。この事件は、カストロの意向が米ソ超大国の取引の中で十分に反映されなかった苦い経験ともなり、以後、キューバは一定の自立性を模索しながらソ連ブロック内で位置を探ることになります。
統治と内政・外交:医療と教育の普及、経済実験、国際主義
内政面では、識字キャンペーン(1961年)に代表される教育拡充、無償医療・一次医療の網の整備、ワクチン接種や母子保健の充実など、人的開発に注力しました。小規模農の協同組合化や国営農場の拡大、住宅・価格統制、配給制度による最低生活の保障など、平等志向の政策が推進され、乳幼児死亡率や初等教育就学率はラテンアメリカの中でも低水準・高水準を達成するに至りました。他方で、言論・結社の自由は厳しく統制され、反体制派の拘束、独立系メディアの不在、LGBTに対する旧来的な抑圧(のちに是正されていきますが)など、自由権の面で重い問題を抱えました。経済では砂糖への依存からの脱却を目指しましたが、産業多角化は難航し、1970年の「砂糖一千万トン計画」の失敗など、国家動員型の数値目標が現実経済の制約に突き当たる局面が続きます。
外交では、反植民地・反人種差別の立場から、アフリカや中東、ラテンアメリカへ医師団や教師、軍事顧問団を派遣しました。アンゴラやエチオピアでの軍事関与は、冷戦の地域紛争におけるキューバの存在感を高め、アフリカ解放運動の文脈で一定の評価を受けました。医療外交は、災害救援や感染症対策で国際的評価を得る一方、国家財政にとっての外貨獲得策でもありました。ソ連崩壊後の1990年代には、外貨不足と燃料難に直面する「特別期(ピリオド・エスペシアル)」が到来し、自転車通勤や都市農園、観光と海外送金への依存など、生活の再編を余儀なくされます。2000年代以降は、ベネズエラとの石油—医師交換、観光投資の誘致、限定的な私的事業の容認など、漸進的な柔軟化がみられました。
体制面では、1976年に社会主義憲法が制定され、国家評議会・閣僚評議会の下にキューバ共産党が「社会の指導的勢力」として位置づけられました。カストロは国家・党の第一書記として長く権力を掌握しましたが、2006年に健康悪化で公務を弟ラウルに委譲し、2008年に正式に引退しました。以後も「歴史的指導者」として言論で影響力を保ちつつ、2016年に死去しました。
評価と遺産:社会的平等の追求と自由の制限、世界史のなかのカストロ像
カストロの評価は二極化します。一方では、識字・医療・スポーツ・文化普及の成果、ラテンアメリカにおける対米従属からの離脱の象徴、アフリカ解放運動への貢献などが称賛されます。他方では、一党独裁・言論統制・政治犯問題、自由権の制限、経済の非効率と慢性的な物不足、自由な移動を求める人々の亡命・ディアスポラの拡大といった深刻な課題が指摘されます。カストロ自身のカリスマ性と演説術、軍服姿での長広舌、葉巻や野球といったイメージ戦略は、支持・反発の双方を強めました。
国際的には、キューバ危機で核戦争の瀬戸際に世界を導いた当事者であると同時に、強大国のはざまで小国が生存空間を切り開く戦略の実例として論じられます。革命輸出の試みは地域の安定を損ねた面もありますが、医療外交や災害支援は「硬い力」と「柔らかい力」の組み合わせとして注目されました。ソ連崩壊後の体制持続は、資源と人口の限られた島嶼国家が、統制と調整を通じてどのように〈耐える〉かを示す実験でもありました。
総じて、フィデル・カストロは20世紀後半から21世紀初頭にかけて、世界の不平等・主権・発展・自由というテーマをキューバという具体的舞台で可視化した人物でした。彼の遺産は、支持者にとっては社会的権利の拡充と自尊の回復、批判者にとっては自由の抑圧と経済停滞の象徴として残っています。いずれにせよ、彼の名は、冷戦・第三世界・グローバルサウスの政治史を学ぶうえで避けて通れない固有名詞であり続けます。

