ザクセン選帝侯フリードリヒ(フリードリヒ3世、1463–1525、通称「賢公」)は、宗教改革の幕開け期にマルティン・ルターを庇護したことで知られるドイツの大諸侯です。彼は熱烈な神学者ではなく、慎重で現実的な政治家でした。だからこそ、急進と弾圧の両極が渦巻くなかで「公正な審理」と「領邦の自立」という原則を崩さず、ルターに安全を提供し、ヴィッテンベルク大学という〈学知の拠点〉を育て、帝国政治の均衡を保とうとしました。彼自身は生涯カトリックにとどまりつつ、信仰刷新の潮流が暴力と内乱に堕さないよう歯止めをかけた調整者でもあります。宗教改革史を理解する鍵は、聖人でも革命家でもないこの現実主義者の視点を手に入れることにあります。
生涯と時代背景:選帝侯としての地歩と〈ヴィッテンベルク〉の創出
フリードリヒはヴェッティン家エルネスティン系に生まれ、1486年にザクセン選帝侯位を継承しました。領土はエルベ川中流のザクセン選帝侯領(ヴィッテンベルクを中心)とチューリンゲンの諸都市・城砦からなり、銀山(エルツ山地)と都市商業の収入が政治資源でした。彼は宮廷財政の健全化、官僚と都市との協働、法と秩序の整備に努め、領邦国家としての基盤を厚くします。
1502年、彼は宮廷都市ヴィッテンベルクに大学(ルターとメランヒトンの舞台となる)を創設しました。人文主義の学風、ラテン語学芸と神学・法学の統合カリキュラムは、学問の磁場を形成します。大学設立の政治的意義は大きく、教養ある官僚・司祭・教師を自領内で養成できる体制は、領邦の自立性を高めました。のちに宗教改革が始まったとき、フリードリヒが〈暴力ではなく学問の討議による解決〉を志向できたのは、この制度的土台によるところが大きいのです。
同時に彼は、ヴィッテンベルク城内の諸聖人教会(いわゆる城教会)に壮大な聖遺物コレクションを整え、巡礼と免罪(贖宥)の枠組みを運用していました。ここに「ルターが批判した贖宥」との緊張が生まれますが、重要なのは、フリードリヒが教会利害の単なる擁護者ではなく、帝国法と教会法の均衡を重んじた〈秩序の政治家〉だったことです。
帝国政治と外交:選帝・帝国代行・均衡感覚
選帝侯は、ドイツ王(神聖ローマ皇帝候補)を選ぶ権限を持つ帝国有数の大諸侯です。1519年の皇帝選挙では、フランス王フランソワ1世とハプスブルク家のカール(のちのカール5世)が競いました。フリードリヒ自身に帝位就任の打診があったとも伝えられますが、彼はこれを辞退し、最終的にカールを支持して選出に導きました。この過程で彼は、選挙資金・恩典の売買に流されず、帝国公としての威信と〈帝国内の均衡〉を優先します。
また、皇帝選出までの空白期には〈帝国代行(Reichsvikar)〉として帝国行政を担い、法と治安の維持に努めました。彼の政治様式は拙速を避け、合意と法手続を重んじるものです。こうした「遅い政治」は、宗教論争が過熱するときにこそ意味を持ちました。
ルター保護の核心:公正な審理、身柄保全、そして時間を稼ぐ
1517年、ヴィッテンベルクの修道士・神学教授ルターが「95か条の提題」を公表すると、贖宥の是非と教会権威をめぐる論争は急速に拡大します。フリードリヒは即断でルターを断罪することを拒み、〈学問の討議による審理〉を主張しました。1518年のアウクスブルク(カエタヌス枢機卿との対決)後も、彼は教皇使節と交渉を続け、「地方法廷と帝国法の枠」での審理を確保しようとします。
決定的だったのは、1521年のヴォルムス帝国議会です。フリードリヒはルターに安全通行権(ゲライト)を取り付け、議会での弁明の機会を与えました。ルターが召還に応じ「ここに立つ」と述べたのち、議会は彼を違法者とする勅令(ヴォルムス勅令)を出します。ここでフリードリヒは、ルターの身柄を「誘拐」する形で保全し、チューリンゲンのヴァルトブルク城に匿いました。ルターはここでドイツ語新約聖書の翻訳に着手し、言語・信仰・教育にまたがる改革の土台を築きます。
フリードリヒの戦略は、単なる感情的擁護ではなく、〈時間を稼ぐ〉ことでした。感情が高ぶる政治空間では、時間が最大の資源です。彼は機敏な「非決定」を積み重ねることで、ルターが著作を進め、ヴィッテンベルクの神学者たちが教理を整理し、各地の諸侯・都市が態度を考える余白を作りました。この「時間稼ぎ」は、宗教改革の暴発を抑え、制度的な受け皿(領邦教会・学校・規律)を用意するのに決定的でした。
さらに重要なのは、フリードリヒが生涯カトリックの聖体拝領を続け、傾聴と抑制を失わなかった点です。晩年の臨終秘跡では、二形態領聖(パンと葡萄酒の両形)を選び、信仰刷新への共感をにじませつつも、領邦内で破壊的な偶像破壊や暴力を許さない線引きを保ちました。宗教改革を「国制の混乱」へ結びつけないための現実感覚がここにあります。
「賢公」の文化政策:大学・人文主義・宮廷ネットワーク
フリードリヒは、宮廷司書・助言者として人文主義者シュパラティン(ゲオルク・シュパラティン)を重用し、文書・外交・教育を結んだ知的中枢を築きました。メランヒトンをヴィッテンベルクに招聘し、ギリシア語・ヘブライ語・修辞学の教育を強化したことは、ルター神学の〈学術言語〉を整えるうえで不可欠でした。大学は学問の自由を守る「盾」であると同時に、領邦統治に必要な法学者・行政官僚を輩出する「工房」でもありました。
聖遺物コレクションについては、単純に「中世的迷信」と切り捨てるのは正確ではありません。諸聖人教会の祭礼・巡礼制度は都市経済と結びつき、警察権(秩序維持)や福祉・病院・学校を支える財政インフラでもありました。フリードリヒは、宗教的敬虔と都市統治の両立を模索し、変化の時代に「過去の制度をゼロにはしない」統治感覚を失いませんでした。宗教改革の動きが速くなると、彼は過激な聖像破壊に歯止めをかけ、祭礼の秩序ある縮小・再編を指示しています。
死と継承:堅公ヨハンへのバトン、領邦教会の形成へ
1525年、フリードリヒは亡くなり、弟のヨハン(通称「堅公」)が選帝侯位を継ぎました。ヨハンはより明確にルター派を領邦の教制として採用し、教会財産の監督・視学制度(教会検査)・学校整備を進めます。フリードリヒの時代に「時間を稼いで準備された制度設計」は、ここで実装段階に入ったと言えます。シュマルカルデン同盟の結成(1531)はフリードリヒ没後の展開ですが、宗教政策を軍事・外交に接続する領邦の自立路線は、賢公の均衡感覚に淵源があります。
評価と誤解:聖人でも革命家でもない「秩序の政治家」
フリードリヒの評価は、宗教改革の〈英雄叙事詩〉に埋もれがちです。しかし、彼の真価は、思想の〈正しさ〉を権力で押し通さなかったところにあります。彼は法と慣習、帝国の合意手続、領邦の自治を尊重し、説得と手続を脇に置く「大義のための暴力」を拒みました。だからこそ、宗教改革は彼の領邦で比較的秩序ある形で進み、大学・学校・行政・教会規律という〈制度〉を伴って定着します。
よくある誤解を三点整理します。第一に、「フリードリヒは最初からルター派だった」という見方。彼は終生カトリックとしての儀礼を保ち、神学論争の勝敗よりも、〈公正な場と時間〉の提供に心を砕きました。第二に、「贖宥を利権として守った領主」という見方。彼は確かに聖遺物と巡礼を運用しましたが、テッツェルの贖宥販売を自領に入れないなど、外部勢力の煽動から領内秩序を守る面でも行動しています。第三に、「皇帝選挙を利己的に操った」という説。彼は帝位の打診を退け、ハプスブルク支持を通じて帝国の連続性と対外均衡を優先しました。
小括:速度を抑える勇気—賢公が残した〈政治の作法〉
フリードリヒ賢公の遺産は、単にルターを匿った逸話に尽きません。彼は〈学問の場〉を整え、〈法の手続〉を守り、〈暴力の誘惑〉から距離を取り、〈時間を味方〉につけました。宗教改革という巨大な変化を、破壊的な内戦ではなく制度的な改革として着地させるには、この「速度を抑える勇気」が不可欠でした。現代の政治においても、場と手続と時間を守ることの価値は変わりません。ヴィッテンベルクの細い路地、エルベの川霧、城教会の扉板を思い浮かべるとき、賢公の静かな決断が、歴史の転回点に確かな形を与えたことが見えてきます。

