義和団 – 世界史用語集

義和団(ぎわだん、義和拳とも呼ばれます)は、19世紀末の華北で台頭した反外国・反キリスト教運動で、清朝末期の1898〜1900年にかけて農村の民間武術結社が宗教的儀礼と呪術的実践を伴って動員され、鉄道・電信・教会・通訳・商館など「洋」の象徴を攻撃した大規模な社会運動です。スローガンは「扶清滅洋(清を扶けて洋を滅す)」で、当初は朝廷支持・外敵排斥を掲げつつ、地方官僚の庇護と保守的輿論の後押しを受けて膨張しました。1900年には北京と天津周辺まで波及し、各国公使館区域が包囲され、中国人キリスト教徒が多数犠牲になりました。列強は出兵して鎮圧し、翌1901年の北京議定書(辛丑和約)で清朝は巨額賠償や軍事・外交上の厳しい制約を受けました。本項では、義和団の背景と形成、運動の展開、列強の軍事介入と講和、そして長期的影響と歴史的評価を、できるだけわかりやすく解説します。

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背景と形成:華北農村の危機、宗教文化、官民関係

義和団の発生土壌は、山東・直隷(現在の河北)を中心とする華北平野でした。19世紀末のこの地域は、長期の自然災害(旱魃・洪水・蝗害)と黄河・運河の変動、銀価格の変化に伴う租税負担の悪化、綿工業の国際競争敗北や手工業の衰退などが重なり、農村の貧困化が進行していました。加えて、アヘン戦争以降の条約体制の下で、伝道所や学校・病院の設置、治外法権の適用、租界や鉄道・電信の布設など、生活世界の各所に「外来の制度と権利」が浸透します。紛争の現場では、外国宣教師による信徒保護(教案事件の背景)と地元社会の慣行法が衝突し、司法・治安の主体が揺らぎました。

こうした摩擦の上に、武術結社・宗教結社の伝統が再活性化しました。義和団は「拳民」あるいは「団民」と呼ばれ、護身・祈禱・呪文・憑依(神拳・神術)を伴う祈祷儀式で「刀槍不入(弾丸が当たらない)」とされる身体を作ると信じられていました。女性の赤灯照(紅燈照)など、性別や年齢に応じた集団も組織され、村落や街道筋での示威・祈祷・集会が動員の核になりました。彼らの社会的基盤は、小農・小商・職人・流民・下層の若年層が中心で、秩序維持を担う郷紳・団練の一部も共鳴し、地域によっては地主・地主系の民兵がこれに対抗するなど、複雑な構図を示しました。

官民関係は地域差が決定的でした。山東では、1895年前後から「義和拳」と呼ばれる集団が現れ、鉄道・教会・信徒への襲撃が発生します。地方官のうち、袁世凱のように沈静化・鎮圧を優先し軍事行動で抑え込む路線もあれば、毓賢(ゆうけん)や裕禄(ゆうろく)のように団民を利用して「洋化」勢力を牽制しようとする寛容・助長的対応もありました。宮廷内部でも戊戌政変(1898)で変法派が失脚し、保守派が台頭する中、慈禧太后を中心とする中枢は対外強硬の空気を強め、義和団への態度が次第に容認・利用へと傾きます。

運動の展開:山東から直隷へ、北京包囲と暴力の拡大

1899年、義和団の運動は山東から直隷に波及し、1900年春までに天津・保定・廊坊周辺で鉄道・電信・教会・商館が攻撃されました。斬新なインフラはしばしば「風水を損なう」「龍脈を断つ」と受け止められ、列車の運行・電信線の敷設は日常の怨嗟を集めました。標的は外国人だけでなく、中国人のキリスト教徒にも向かい、村落単位で信徒の家屋・農地が焼かれ、逃散・集団避難が生じました。地方行政は処理能力を超え、治安の空白が拡大します。

1900年5月以降、北京近郊でも団民の集結が進み、6月に入ると北京城内に流入し、教会・学校の焼き討ちや官庁・外国人居留地への襲撃が発生します。6月20日にはドイツ公使クリンスマンが殺害され、公使館区域(東交民巷)と通州・天津の連絡線は遮断されました。清朝宮廷は当初、中立的姿勢を模索しましたが、6月下旬には義和団と一体の対外宣戦布告に傾き、八カ国(日本・ロシア・イギリス・フランス・アメリカ・ドイツ・イタリア・オーストリア=ハンガリー)に対し「宣戦」を通知します。もっとも、宣戦は全国的な統一行動を意味せず、南方省は多くが中立を標榜し、地方実力者(李鴻章・張之洞ら)は列強との衝突回避に動くなど、国家の分裂が露わになりました。

公使館区域の包囲は約55日間続き、在留外国人・中国人信徒・護衛兵らは防御陣地を構築して籠城しました。城内外では火器と冷兵器が入り乱れる攻防が生じ、都市空間は戦場と化します。天津でも租界・駅・砲台をめぐる戦闘が起こり、民間の被害は甚大でした。団民の側では霊媒的儀礼と集団熱狂が動員を支えた一方、火器・砲兵を備える正規軍との協働や指揮系統には限界があり、持久戦の中で疲弊と混乱が増幅しました。

列強の軍事介入と講和:八カ国出兵、北京占領、北京議定書

列強は当初、小規模な救援隊(いわゆるシーモア遠征隊)で北京連絡線の回復を試みましたが、補給切断・地の利の欠如で退却を余儀なくされ、その後大兵力を天津に集結させます。7月の天津攻略、8月の北京への進軍で、八カ国連合は各軍が競うように前進し、8月14日には北京城内に突入して公使館区域を解囲しました。宮廷は西安へ退避し、都城は占領下に置かれます。戦闘の過程と占領期には、双方の虐殺・略奪・報復が発生し、都市と農村に深い傷跡を残しました。

1901年9月、清朝と列強の間で北京議定書(辛丑和約)が締結されました。主な内容は、(1)賠償金4億5千万両(当時の中国歳入をはるかに超える巨額、利子を含め最終的支払はさらに膨張)、(2)北京の公使館区域の拡張・占領と中国側の治安責任、(3)山海関—北京—天津の間の要地・鉄道における列強軍の駐留権、(4)大沽口砲台などの沿岸砲台の撤去、(5)対外謝罪と王公大臣の懲罰・処刑、(6)反洋教・反外人の禁止と官吏の責任追及、などでした。清朝は関税や塩税などの歳入を担保に賠償支払いを続け、中央財政は長期にわたり拘束されます。賠償金の一部は後に米国などで返還され、清華学堂(のちの清華大学)設立など留学・教育基金に充当されましたが、財政主権の制限という本質は覆りませんでした。

北京議定書により、清朝は軍制・外交・治安で大幅な譲歩を強いられ、都城周辺に外国軍の恒久駐留という屈辱的状況が生じました。同時に、占領期の経験は列強側にも中国統治の難しさを印象づけ、のちの列強間の駆け引き(満州・朝鮮・揚子江流域での勢力分割)に影響を与えます。南方の督撫は「東南互保」と呼ばれる独自の秩序維持協定で戦禍の拡大を抑え、地方分権的統治の先駆けを示しました。

影響と評価:新政と立憲、民族主義の高揚、記憶の政治

義和団事件の最大の長期的帰結は、清朝の「新政(新政改革)」を急がせたことでした。軍制改革(新軍の創設)、教育制度の近代化、科挙の廃止(1905年)、憲政準備(諮議局の設置)など、国家近代化が一挙に進みます。だが、賠償負担と政治的正統性の失墜は改革を常に財政と輿論の制約に晒し、地方エリートと新軍の台頭、民族資本の形成、都市世論の拡大は、やがて辛亥革命(1911)へとつながります。義和団は外敵排斥のスローガンで「民族国家の想像」を刺激しつつも、旧体制の限界を露呈させた出来事でもありました。

社会文化面では、(1)宗教と公共圏の関係、(2)科学技術と生活世界の摩擦、(3)地方自治と中央権力の分業、といった論点が浮上しました。鉄道・電信の導入は国家の情報・兵站の近代化を促す一方、風水・土地利用・治安秩序との調整が不可欠であることが明らかになりました。宣教師と信徒の保護をめぐる条約体制は、近代的な宗教自由と治外法権・特権の混在という矛盾を露呈し、近代中国の宗教政策の難しさを先取りしました。義和団による中国人キリスト者への暴力は、今日の歴史叙述でも重い倫理的課題として検討され、地域社会の分断の記憶を残しています。

評価は時代と立場によって大きく異なります。近代の知識人の多くは、義和団を「無知蒙昧」「反科学」の象徴として批判し、政治改革や実業の推進を説きました。他方、抗外の民族運動として一定の共感を寄せる言説もあり、20世紀後半の一部のナショナリズム叙述では「反帝国主義」の先駆と位置づけられることもありました。学術的には、義和団を単純な「愛国」か「迷信」かに分けるのではなく、華北農村の社会経済・宗教文化・地域政治の交点で生じた複合現象として捉えるのが主流です。すなわち、村の結社・郷紳・官僚・宣教師・外国軍という多主体が、それぞれの合理性で動いた結果の衝突と見なす見方です。

国際関係の観点からは、義和団事件は列強協調(八カ国連合)の成功例であると同時に、利害の分裂(満州でのロシアの単独行動、英独仏日の思惑の差)を露呈させ、のちの日露戦争や列強のブロック化への伏線を提供しました。米国の賠償金返還は「門戸開放」政策のソフトな実践とされ、中国の高等教育発展に副次的効果を与えましたが、全体の権力非対称は是正されませんでした。

記憶と表象の面では、義和団は長く「迷信的暴徒」と「抗外の民衆」の二重のイメージで語られ、映画・小説・地方誌・家族史料に多様な像を残しました。最近の地域研究・民俗誌は、祈祷・憑依・武術の儀礼が持っていた共同体統合の機能、女性の紅燈照の役割、土地争い・治水・用水管理など日常の争点と暴力の連動を掘り起こしています。これにより、義和団は単なる排外主義の発露ではなく、近代化の「入口」で起きた制度摩擦の集約として理解されつつあります。

総じて、義和団は、清朝末の国家と社会、伝統と近代、地方と中央、宗教と政治、そして中国と世界の関係が一挙に噴出した歴史的事件でした。北京議定書の重い代償は清朝の寿命を縮め、同時に改革の圧力を加速させました。各主体の視点を重ね合わせ、農村の生活史から外交史までを往復しながらこの出来事を読むことが、近代中国の歩みを立体的に理解する手がかりになります。